得手と不得手
アデラに案内されたイレーネが執務室で見たのは、机に突っ伏しているガストンとその横で補佐していたらしいファビアンが背もたれにぐったりと身体を預けているところだった。
「ちょっとちょっと二人とも、何だらしない格好してんですか!
奥様がいらしたんですから、しゃんとしてください!」
「うえええ!?」
あらあらとその様子を眺めていたイレーネの目の前でアデラが叱り飛ばせば、驚いたようにガストンが身体を跳ね起こし。
その振動で身体を揺すられたファビアンが慌てて姿勢を正して椅子に座り直す。
と、アデラの言葉がやっと頭に入ったか、入り口の方を見てイレーネとマリーの姿を認めれば、ファビアンは流れるような動作で立ち上がり、胸に手を当てながら恭しくお辞儀をした。
「やあ、これはこれは奥様、マリー嬢。お見苦しいところをお見せしまして」
そして女性受けの良い和やかな笑みを向けるのだが……マリーが一瞬だけ眉を寄せた。『あ、こいつ胡散臭い』と。
長年イレーネに付き従って王城の中にいる様々な人々と接してきただけあって、マリーは裏のある人間を見抜くことにもある程度通じている。
その彼女の目に、ファビアンの笑みはどうにも胡散臭いものに見えて仕方が無い。
同じく気付いているはずのイレーネが何も言わないので、彼女も口にしないが。
そんなファビアンの声に続いて、ガストンがのろのろと頭を上げる。
立って挨拶しないのは、彼がこの屋敷の主人だからだ。
「お、おう、二人とも、どうした? アデラが案内してくれたのか?」
「ええ、ガストン様が死にそうな声を出していると言われまして。
書類仕事に苦戦しているのではと聞いてはいましたが……これは、中々ですね」
すっかり覇気の無くなっているガストンに答えるイレーネの視線の先には、山と積まれた書類があった。
多少処理済みのものもあるようだが、まだまだ大半が未処理の様子。これは、突っ伏したくもなるだろうと少しばかり同情もしてしまう。
「いやもう、元々書類仕事は苦手だけど、今日は全然頭が動かなくて……」
「それはまあ、仕方が無いかと。昨夜、ほとんど眠れていないのでは?」
がしがしとガストンが頭を掻きながら言えば、イレーネが淡々とした口調で小首を傾げる。
と、その場に居合わせた三人が三人、それぞれに反応を見せた。
マリーは若干イラッとした顔になりかけ、戻し。アデラは驚いたように目を見開き。
ファビアンは驚きから喜び、そしてにやけた顔とスムーズに変化していった。
「ちょっとちょっと大将、なんすかそれ、いきなり飛ばしすぎじゃないですか、初yもごぉっ!?」
つんつんと肘でガストンを突きながら揶揄おうとしたファビアンの口が塞がれる。
ガストンの鷲掴みによって。
「言うな。しゃべるな。聞くな」
「もがっ、もごっ!」
真っ赤な顔のガストンが重々しい声で言い含めれば、その手の甲に血管が浮かび上がる。
ミシッ、ピシッと音がしているような気がするのは、顎が外れそうになっているのか骨が拙い状況にあるのか……。
喋れないファビアンが必死な形相で何か訴え、ガストンの手をパンパンと格闘訓練の時にする降参の合図、タップをして訴えているが、ガストンは手を離してくれない。
伝わっていないのか、わかっていて離してくれないのか……いずれにせよファビアンにとっては死活問題に発展してしまっているのだが。
そこに、救いの手が差し伸べられた。
「ガストン様、それではファビアンさんが使い物にならなくなりますから、その辺りで」
「おう? お、おう……そ、そうだな、あなたがそう言うなら……」
救いの手、というにはあんまりな言い方ではあるが、ガストンも納得したのか手を離してくれたので、ファビアンはぶはぁ、と大きく安堵の息を吐き出した。
何しろガストンの握力ときたら凄まじく、リンゴを握りつぶす程度はお手の物。
戦場の高揚の中でなら、組み付いてきた相手騎士をひっつかんで引き剥がす際にその鎧まで引きちぎったことすらある。
流石に板金そのものではなく、それらを繋ぐ金具を、ではあったが……それでも十分人間離れした所業だ。
ちなみに、その騎士は強引に剥がされた時に指が折れたり肘が変な方向に曲がってしまったりしていたが、ファビアンはその光景をそっと記憶の底に沈め直した。
そんな人間離れしたどころではないガストンの握力を誰よりもよく知るのがファビアンだ、若干本気が混じった目のガストンに顎を鷲掴みされた恐怖はこれ以上ないものだったことだろう。
骨が軋む音に、『あ、終わったこれ』と半分以上本気で思ったところに助けられたのだ、イレーネの言い方が多少あれなくらい気にすることなく、心からの感謝を捧げざるを得ない。
「一応誤解の無いように言っておきますけれど、昨夜はそういうことは一切無くてですね」
「は?」
「え?」
イレーネが説明をしようとすれば、アデラとファビアンは信じられないものを見るような目でガストンを見る。
思わぬ視線に、ガストンは一瞬びくっとして。
「何やってんすか大将! 初夜に何もしないってあんた玉nもぐぅ!?」
そして、折角助けてもらった命をまた捨てにきたファビアンの口を、また鷲掴みで塞いだ。
先程にはなかった骨がたわむような感覚に、『あ、今度こそ終わった』とファビアンは諦めの境地に入りかけたのだが。
「申し訳ございませんガストン様、わたくしが言わなくてもいいことまで言ってしまったようで」
「お、おう……あなたがそう言うなら……」
と、マリーから小声で耳打ちされたイレーネが、少しばかり頬を赤らめ視線を伏せながら言えば、ガストンは毒気を抜かれたような顔になってファビアンから手を離した。
そして再び大きく息を吐き出し、深く深く空気を吸い込む。
ああ、生きているって素晴らしい。
一度死の淵を垣間見たからか、生まれ変わったような、あるいは開けてはいけない扉を開けた宗教家のようなことを思うファビアン。
そんな悟りを与えてくださったイレーネを崇めそうになり、ギリギリのところで踏みとどまる。
そんなファビアンのドタバタしている内心など当然知る由も無く。
イレーネは小さく咳払いをすると改めて口を開いた。
「昨夜はガストン様がこちらに来たばかりのわたくしのことを気遣ってくださって、そういったことはなし、ということになったのです」
とイレーネが説明をすれば、一応ファビアンもアデラも納得はしたようだ。
ただし、そちら方面にガストンが奥手なことを知っているファビアンは、ガストンがヘタレたのではないかと疑っているが。
言葉通りに受け取ったアデラは、感心したようにうんうんと頷いている。
「流石ガストン様、そういった気遣いもちゃんとなさるなんて!
そういうの大事ですよ~、最初にされたことって、引きずりますからね?」
「そ、そうなのか? なら、あれで良かったのかもなぁ」
アデラに言われて、ほっとした顔になるガストン。
あくまでもアデラは一般論的に言っているのだが、昨夜のイレーネがまとっていた張り詰め方を知っているガストンからすれば、やはりそうだったのかと安堵もするだろう。
そして、経験のないイレーネとしても、引きずるものなのかと今更ながらに思う。
であれば、もしかしたらガストンの判断は間違いではなかったのかもしれない、とも。
改めて、まずは仕事仲間になるのが先なのだろう、と結論づけた彼女は、改めて書類の山を見る。
「ともかくそういうことで、ガストン様の判断力が鈍っているのは否めないと思いますし、お手伝いした方が良さそうかなと思うのですが、いかがでしょう?」
「うう……いきなりで申し訳ないけど、正直、助かる……」
イレーネが問いかければ、ガストンはがくりと肩を落とした。
できればもう少し格好をつけたかったり、意地を張りたかった気持ちがないわけでもない。
だが、それが無駄であることもよくわかっているため、頷かないという選択肢はなかった。
「わかりました、では早速取りかかるとしましょうか。マリー、手伝ってくださいね」
「かしこまりました、イレーネ様、ご指示を」
くるりと後ろを振り返ったイレーネに、マリーは迷うことなく頷き、頭を下げる。
この書類仕事を前にしてまるで怯んだ様子のない二人の姿が、ガストンにはやたらと頼もしく見えた。




