姫と侍女の内緒話
「姫様、私はあのお方を見誤っていたのかも知れません」
イレーネが私室へと戻った途端、侍女のマリーが神妙な顔でそんなことを言い出した。
割と頑ななところのあるマリーにしては珍しいこともあるものだ、と思いながらもイレーネが目で続きを促せば、小さく頷き返してマリーが口を開く。
「まず、野蛮な戦闘狂の化け物などではない……いえ、戦場でそうなる可能性は残っておりますが、ほとんどありえないと言っていいかと。
少なくとも野蛮なだけの人間は、あれほどのテーブルマナーを身に付けようとはなさらないでしょうから。
あそこまで洗練された動きなど、私は見たことがございません」
「そうね、正直にいって王太子殿下よりも遙かに洗練されていたわ。
……ただ、あの速さは異様と言って良いレベルだったけれども」
「そうですね、難癖付ける人間からすれば、あれは見逃さないでしょう。
逆に言えば、そこだけ……そのレベルで身に付けるなど、どれだけの練習をなさったのか、とても想像ができません」
イレーネが小さく笑いながら言えば、流石にマリーも頷かざるを得ない。
優雅さを重視する……しすぎる人間の中には、素早い動きなど程度の低い人間にのみ必要なこと、と見下している人種がいる。
その、素早い動きをする人間に、普段の生活において守られているというのに。
そして、マリー自身もいざという時にはイレーネの盾となる覚悟をしており、動けるようにと時間を見つけては鍛錬をしている。
だからこそ彼女は、ガストンの積み上げたものを理解出来たのだろう。
「ガストン様とわたくし達の置かれていた状況、環境は大きく違うから、比べるようなものでもないとは思うけれども。
あの方や軍人の皆さんにとって、早く食べることは死活問題だとも聞くし。
だからこそ、文字通り必死になって身に付けたということなんでしょうね」
「はい、仰る通りかと。……恥ずかしながら、私はガストン様の食事姿を見るまで、あの方がそういう必死な環境に居たことなど考えもしませんでした」
「それは、仕方ないことだと思うわよ? 大事なのは、気付けたことだと思うの」
己の決めつけを恥じるマリーを慰めるイレーネだったが、その口調は自分に言い聞かせるようなものでもあった。
彼女とて、マリーに大きな事を言える立場ではない。
頭ではガストンや軍人達の生活を知ってはいたが、実感としてはわかっていなかった。
しかしそれは、食事の仕方一つを通して垣間見えて。
一体、どれ程の深さでガストンの身体に染みついているのだろうかと思う。
そして何より、どれ程過酷な生活だったのだろうか、と。
「わたくし達は、気付く機会をもらえた。そして、気付けた。
後は、そうやって気付いたことを今後にどう活かしていくか、じゃないかしら」
「左様でございますね……そうは言いましても、私は姫様に誠心誠意お仕えすることしか出来ませんが……」
「ありがとうマリー、頼りにしているわ」
直接ガストンに向かって悪口を言ったわけでもないのに心から悔いているマリーの真面目さに、イレーネの口元が緩む。
融通の利かないこともあるが、それでもやはり、彼女のこういうところは好ましいと思う。
であればこそ、その忠誠心に応えられる主で居たいところなのだが。
「さてそうなると……わたくしが、どうするか、なのだけれど。
まずはそういう生活だったから身に付けられなかった部分の補佐、ということになるわよね、やっぱり。
言うまでもなく、書類仕事だとか領主仕事の頭脳労働部分になると思うけれど」
「それは……ええと、はい、否定は出来ません」
あまりにズバズバというイレーネに、逆にマリーの方が言葉を濁す。
そんなマリーの反応に、きょとんとした顔でイレーネは小首を傾げた。
「あらどうしたの、そんな奥歯に物が挟まったような言い方で」
「いやその、流石に昨日までの私ならともかく、今となってはちょっとはっきりとは言いにくいと申しますか」
「そうなの? 事実は事実として認識はすべきじゃないかしら。
……あ、流石にガストン様の前ではここまで言わないわよ?」
何とも歯切れの悪いマリーに、今気付いたかのような様子で小さく手を振りながら返すイレーネ。
実際のところ、少々ガストンへの配慮に欠けていたことに、後から気がついたのだが。
イレーネには、どうにも事実を指摘したり正論を言う時にズバリと言いすぎるところがある。
自覚はあるし、それで人間関係を悪くしたこともあるから何とかしようとはしているのだが、ふと瞬間に出てしまうことがあり、今がまさにそれだった。
「……マリー相手だと気を抜いてしまうのがいけないのかしら」
「それはそれで、私としては誇らしい気もいたしますけれど、外では気をつけてくださいませ?」
「ええ、そこは気をつけておかないと、ね。何しろここは……」
ここは、元敵国。
そんな言葉を口にしない程度の分別は流石にある。
実際そうだし、何かあれば元がすぐに取れてしまうような状況でもあるのだが、いかにイレーネであってもそれを口にはしない。
それに、口にしたくない、とも思ってしまう。
「……ここは。この国でなく、この屋敷の中は……いつかわたくしの家と言えるようになるのかしら」
「それについては、私からは何とも。正直に申し上げて、まだ複雑なものはございますし」
ガストン達の見せてくれた態度から、打ち解ける努力をした方がいいだろうと思い始めてはいる。
だからといって、そう簡単に切り替えられるわけでもない。
ただの政略結婚でさえ心情的には複雑になるところだというのに、加えて敗戦国から戦勝国へ、なのだから。
「……それに考えてみれば、もう少ししたら領地の方へ移動するのだから、ここもそう長くは居ないのよね」
「言われてみれば、確かに。いえ、だからと言ってぞんざいな振る舞いをしていいわけでもないですが」
「ええ、やるべきことはやって、お互いに気持ちよく出立できたら。
そうなると結局、ガストン様の書類仕事の補佐をきちんとやって、慌ててお別れなんてことにならないよう余裕を持って出立していただくこと、になるかしら」
「左様でございますね。……中々に大変そうではありますけれど」
こくりと頷き返すも、マリーの顔はどうにも曇り気味。
ガストンの様子からも使用人達から漏れ聞こえる話からしても、ガストンの仕事はどうにも滞りがちな様子。
というのも、領地の引き継ぎに関する事務作業が普通よりも多いためだ。
「向かう領地が、元々以前治めていた家が断絶して王家預かりになっていた場所らしいものね。
情報の引き継ぎはもちろんのこと、保留になっていた案件の処理や税金絡みの手続きも多いでしょうし」
「……姫様、大丈夫です? こちらの国の法律、私全然わからないのですけれど」
「私もそこまで詳しくはないけれど、国王陛下が法務官を一人お貸しくださるそうだから、何とかなるでしょ」
「一人だけですよね? ……姫様だったらほんとに何とかしそうなのは何故なんでしょう」
「ふふ、色々無茶ぶりもされてきたもの……それにほら、基本的な流れはそう大きく変わらないでしょうから、細かいところの確認がほとんどになると思うのよね」
そう答えながら、若干遠い目になり虚空を見つめるイレーネ。
彼女が祖国に居た頃は、彼女を妬む王太子から色々と面倒な仕事を嫌がらせとして振られていた。
嫌がらせのよう、ではなく、明確に嫌がらせとして。
そしてまた、彼女がそれでも処理しきってしまっていたのだから、話がさらにややこしくなってしまうことが大半。
気を悪くした王太子が機嫌を損ね、別の面倒ごとに発展することも少なくなかったことを話の流れで思い出してしまったのだ。
「……わたくしももう大人だもの、もうあんな過ちは繰り返さないわ……」
「だ、大丈夫ですよ、ガストン様はあんな子供みたいな拗ね方しませんって、多分、きっと……」
「ええ、そこは大丈夫だと思うのだけれど、ね。……他の人達の様子にも気を配っておかないと」
見たところ、ガストンはもちろん従者のファビアンも寛容な人柄のようだけれども、人間、どこにスイッチがあるかわからない。
であれば、気をつけるに越したことは無いだろう。
「仲間であろうと……いいえ、仲間だからこそ。親しき仲にも礼儀あり、と言うしね」
そう自分に言い聞かせたイレーネは、ふと思う。
本来ならば今日は初夜の翌日とあって何も仕事は入れていない。
であれば屋敷の中のことや使用人達のことを知る日にしてしまうのはどうだろうか、と。
早速マリーに相談すれば、彼女もそれはいいと同意してくれた。
「では、一休みしたら出歩く準備をしましょうか」
「はい、姫様」
そしてしばらくの食休みの後、準備を整えたイレーネは部屋を出るのだった。