5話
それに気付いたのはほとんど偶然だった。
放課後、本屋への近道を進むために路地を進んでいた時だ。
歩きながら聞いていた音楽が丁度一段落して、ひと際注意が外に向いたときにそれはあった。自分以外の人の気配と、ざりっという足の裏で砂を蹴る音。
誰かに後をつけられている。反射的にそう判断した。
いや、これが本当はただの妄想でしかないのならそれに越した事はないのだ。幻聴や幻覚を覚える踏み越えてはならない一線を越えてしまうようでも、それは俺自身の問題でしかない。
しかし、そうではなかったとしたら? 最近は噂のせいで視線を集める機会が増えてしまった俺だが、基本的に誰からも注目されないそこらに生えている雑草に過ぎない。雑草と言う名前の草花は存在しないんですよ、と諭してもらえるなら是非ともお願いしたいのだがそういう話ではない。
そんな、注目される事とは無縁の俺だからこそ、向けられた視線の質というものを敏感に感じ取る事ができる。好奇の視線、侮蔑の視線、お前など気にしていないと言いたげだが逆に意識してしまって向けられた視線。意外に色とりどりのものを遠慮なしにぶつけられてきた。
背後から感じる気配が向けてくる視線はそのどれでもない。あまり向けられた記憶の無い、そのどれとも異質なものだ。
すなわち、純粋な観察のそれだ。ただただ俺の行動を観察している。
そこには先述した感情の混じり気はない。そこから逆に俺は一つも見逃すまいとする執念のようなものを感じた。そしてあまり穏やかならざるものを胸の内に覚えた。
どうするか悩んだのは一瞬だった。ポケットの中に手を入れて用意をすませる。
不意に俺は進めていた足を止めた。それに一拍遅れで背後の存在も動きを止めたのを感じる。
今だ。俺は筋肉に全力を出せと信号を送り込んで初速から全開で走り出した。自慢できるほど速くもないが加速なしにトップスピードに持ちこむという俺の二十六の特技一つ『擬似・加速装置』をここで発動した。
完全に虚を突く事ができたらしく、体感二秒たってから動き出す気配を感じた。これで確信を持てた。なぜかは知らないが相手は俺を対象にしている。だが、遅い。
ポケットから中身ごと手を出す。そして後ろ手にそれのスイッチを押す。
ぱしゃっという小気味よい音と共にそれは実行された。
急制動をかけたらしく踏みとどまる足音が背後から耳に届く。俺はそれに振り返る事無く路地の先へと走り抜けた。
大通りに出ると足を止めて、軽く息切れを起こした呼吸を整えながら今来た路地を見返す。
その建物と建物の隙間を縫ってつくられた道には、もはや人影はなかった。
どうやらそこまで迂闊というわけではないらしい。混じりけなしの敵意を投げつけてくる相手にしては引き際をわきまえていると言うべきか。
「というよりも――」
手に持ったままのそれ――携帯電話を見る。スマートフォンであるところのそれはカメラのアプリケーションを起動している事を画面で示していた。
「――こいつにびびってくれたか。牽制程度のつもりだったが、さて」
姿も知らぬ誰かさんの写真うつりはどんなものか。
が、やはりというべきか。動きながらの撮影には対応しているはずもなく。フォルダに保存されていた画像はピントがぼけぼけだった。顔の辺りをそれとなく狙ってはみたが、とっさに動いたのだろう。両腕で庇われて顔がほとんど見えない。
「これじゃあ判別はつかねえな……」
もともと期待して行ったわけでもないが、この結果にはがっかりである。しかし、最上とはいかなくてもそれなりの成果は上がるものだ。
顔を庇っている腕の袖口についている校章の入ったボタン。そのデザイン、見間違えようが無い。写真の人物がきているのは、まぎれもなく自分と同じ高校の制服だったのだから。
+++
「誰かの仕込みがあった?」
それを聞かされたのは昼休みの事だった。ここ数日ですっかりこの資料室で食事をとるのが自然になってきた美野沢はそれをためらいがちに口にした。
「うん。弓塚さんから調査の途中経過について連絡があったんだけど、どうもそうらしいんだ。私も今朝聞いたんだけど」
「それはつまり、噂を学年中に広めるのを誰かが意図的に行ったってか? にしては何と言うか、派手さがないというか」
確かに急速に広まったほうではあるだろう。しかし、意図的に行われたにしては緩やかに過ぎる気がしてならない。こういう時は一気に拡散させて、話題性をつくろうとするものではないのか。単純にその誰かの能力が足りないからそうなっていないのか、それとも。
「弓塚から他に何か聞いてないか。その誰かってのにあたりをつけてるとか」
「ううん……あ、その違うの、意図的にやったかどうかはわからないんだけど。弓塚
さんの言う事には、そのね」
美野沢は言い辛そうに下を向く。
俺は無理に促さずにじっと言葉を待つことにした。
「――その、キューピッドさんの仕業だって」
「は?」
脳内に全裸の子供がハートの矢尻のついた矢を誰か目がけて撃ち掛けようとしている典型的な姿が描かれた。キューピットさんってな、どういう意味だ。
「相当マイナーなSNSのアカウントで、この学校の生徒であるように思わせる内容の日記や言葉を割と前から書いてて。そこに書かれていた内容は、この学校でほとんど実際に起きた恋愛事だったらしいの」
あくまで伝聞にすぎないから俺には詳細がわかる訳ではないが、そこにある内容は調査部の部長である弓塚まほろの持ちうる情報と照らし合わせても大きな齟齬のない正確さを持っていたそうだ。ほとんど、というのは今回の告白の一件を除いた、他全てを指す。
そのアカウント名はQP。恋する誰かを応援する事で幸せにしたい、なんて旨がプロフィール欄にはあった。
教えてもらったアドレスで表示されたページをスクロールすると、何十人ものアカウントがQPを相互承認している事がわかった。この相互承認がなされていると発言した内容を自動的に受け取れる仕様になっている。今のSNS基準ならばその程度の機能は備えていて当然だが、どうやらこのSNSサイトはかなり古いもののようだ。ところどころ動作に洗練されていないぎこちなさがある。運営もそんなに力を入れてないのだろう。
「私も、こんなサイトがあったこと初めて知った。身近で誰かが使っているなんて話聞いた事がないし……」
「ふうむ……」
言葉にならないうめきをあげながらQPの日記を読んでいく。
『一月二一日、男子テニス部のHが同じクラスの女子Sに告白する。結果はOK。すばらしい、ここに祝福をおくりたい』
『二月一二日、バレンタインが近づき校内の男子が焦燥しだす。焦りのままに第一学年のS,K、Gらが同学年内で密やかな人気を有すMに無謀なアタックを行うも惨敗。せめてその蛮勇をここで称えよう』
『三月一七日、高校の卒業式が行われたこの日、惜別の情に突き動かされた男女は多く居た事と思う。行動した者、諦めた者。全ての者に幸いあらんことを』
一部を抜粋するとこんなところである。ここで挙がっている密やかな人気を有すMってのは――
「このMってのお前だよな、美野沢」
「……うう、そうだよ。なんで書かれちゃってるんだろ……」
と言う事は一日に三人から告白を受けたってのか。どこの世界の人間だよお前。美野沢を指すMは他の日記でも何度か登場しているが、そのことごとくが無残な結果に終わっている。
そしてもっとも最近の日記がこれだ。
『不落の城塞たるMが告白を行う。相手は同学年のA。繰り返し言おう、告白したのはMの方だ。しかしこの結果は残念なものに終わった。Mが誰の告白も受けなかったのはこのAへの思いが故か』
なるほど、確かにここまで告白に応じてこなかった人間が告白するってのは驚きを与えるには十分なように思える。QPが短いながらも混ぜ込んだ煽りを抜いて考えてもだ。
それでも、見る者に驚きを与えるまでに至らせたのはQPがここまで継続してきたこの日記によるものだ。というかだな、こいつの目的はいったいなんだ。
知名度もないようなSNSサイトで黙々と日記を更新し続ける顔の見えない誰か。しかも、恋愛事情だけではあるが弓塚に匹敵する調査能力。噂を鎮めるとっかかりになり得るそいつは、しかしそいつ自身を知るためのとっかかりをこそ必要とするものだった。
数日が過ぎても状況は変わらず、むしろ尾ひれが付きだす有様だった。
「実は秋里の奴の方から告ったんじゃねえの? ああいう奴って何考えてるかわからねえしよ」
「でもアレにはあっちから告白されたって書いてあったし。今までのも嘘じゃなかったぽいからホントなんじゃない」
「でも秋里君でしょう? どっちにしたって私は無理だなー。美野沢さんの趣味って変わってるね」
それにひどーいだのなんだのと言ってるが、笑いながらのそれだ。
「わかるわかるアイツ誰とも喋らねえし、暗いもんな」
お前らの方からも喋りかけられた記憶がねえぞ。よく知りもせずに決めつけるとかどういう教育を受けてきたんだ。いや理解をされていないのはこちらから理解してもらう努力を怠って、望んで選んできた事だから当然ではある。
勝手な事を口にしているクラスの面々を横目で見る。
俺が気に入らないのは俺にまつわるあれこれというよりも、それにかこつけた形でなされる誰かへの偏見の交った評価だ。それが非の無い者だったら、俺はきっとここまで落ちついてはいられなかっただろう。今回はまだ非がある対象だから。
それでも、関係ない人間があれこれと言っているのが気に入らない事に違いはないのだが。
初めの頃はひそひそと話されていたが、知っている人間が増えるにつれて公然化して今では堂々と話題にあげている。クラスが変わってそこまで関係が定着していない彼や彼女らにとっては自分たちに直接関係する事の無い面白がっていられるだけの共通の話題というものは願ったり叶ったりなのだろう。
二年の五月というのは学年が上がってクラス替えが起きて間も無い頃だ。運の良く友人と一緒のクラスになった者や顔の広い者は新しいクラスでもすぐに馴染めるのだろう。しかし、そんな者ばかりではない。それまでクラス内でつるんできた人間と別々のクラスになってこの小さな共同体における人間関係を構築していかなければならなくなる。
はじめからそれを放棄した俺にはその程を本当の所ではできないのだろうが、表面的には理解できる。二、三度顔を合わせた程度や名前さえ知らなかったようなのを相手に共通の話題を見つけ出し、自分が見せてもいい価値観や趣味を判断し、相手の踏み込んではいけない領域を遠回しな言葉を弄して把握して、それでようやく人間関係のスタートラインに立てる。あまりに手間の要る、そしてエネルギーを必要とする行為だ。
そうして得られた自分のクラス内での帰属先で自由にしていられるかというと、そういう訳にもいかない。どんな人間も時には自分の意志とは異なった集団の意見が立ちはだかる。その集団が自分を中心としたものであれば、意向を無視した強権を発動できる。だが、何度でも使えるものではない。どんなリーダーや王様でも、属する集団の意見を無視していった結果はその地位の剥奪であり、崩壊だ。歴史がそれを証明している。
だから、自分を守りたいのならば必ずどこかで自分の言葉を、意志を、自分自身を捻じ曲げなくてはならなくなる。
俺は誰かの行うそれらを否定する気は無い。俺はそいつ自身ではないのだから、どうこう評価できるのは行動したそいつ自身だけだ。しかし彼や彼女らはそれをしっかりと分かった上で選択し、行動しているのか。
そうする事が当たり前だから。仕方のない事だから。そういうものに対してあれこれ考えるのは子供のする事だとでも思っているのだろうか。
『そういうもの』として存在する高校の服装規定やカリキュラムに対しては当たり前のように反発するというのに。
俺にはそれがわからない。聞いて回ったわけでもないのだから本当にわかりたがってるわけでもないが。しかし、そこにどんな理由や意味が見出されているのだとしても、俺自身がそう在る事は、ごめんだ。
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