02 転生か夢か
「起きてください!」
「ひゃいっ!」
突然起こされて、麻里はがばりと起き上がった。
起き上がった麻里の目の前にはカニがいて、思わず固まった。
固まった麻里に構わず、カニはにっこりと満足げな表情で笑って見せた。それは人間にはおよそ分からない表情の変化だったのだが、麻里は当然のようにそれが分かった。
「おはようございます、海姫様」
ぺこり、と丁寧に頭を下げながらカニが言った。麻里は知る由もないが、世界最大といわれるタカアシガニによく似ていた。その長い足を器用に折り曲げるものだから、麻里は寝起きであまり頭が働いていないのもあって感心してしまう。
「お、おはようございます……?」
「はい。こちらの言葉も問題ないようで、このセバス、安心いたしました」
「……」
麻里は黙ったままこくりと肯いた。タカアシガニ、もといセバスの言う通り、言葉が通じないよりは通じた方がいいだろう。むしろ相手はカニなのだから、精神衛生的には通じない方が良かったのかもしれないと一瞬頭を過ぎったのだが、それは無視である。
一度深呼吸をしてから、周りを見回してみた。
眠っていたのは大きな貝殻のベッドのようだ。貝殻もシーツも桜貝のような色をしているが、麻里が五人は横になれそうである。貝殻の上半分が落ちてこないように支えているのは珊瑚だろうか。貝殻の縁は端から端までシフォンのような柔らかそうなたっぷりの布地で飾られ、所々に縫い付けられてきらめいて見えるのは色取り取りの真珠。
ついでに、一部分だけめくり上げられたカーテンからこちらを見つめてくるタカアシガニ。なんとも乙女チックな色合いと、それに不似合いすぎるタカアシガニと、そのタカアシガニと会話が成立しているという現実を受け止めきれなかった麻里は、納得がいったとばかりに一つ頷いた。
「うん、これは夢だ」
「現実です」
即答された。
仕方なくもう一度周りを見渡してみたが、やはり見覚えのない、なんとも可愛らしいベッドだ。可愛い。可愛いが、可愛い系が似合わない麻里はなんとも複雑な気分である。
いや、似合う似合わないの話は置いておこう。
麻里は記憶を辿るように淡いピンクの天井――天井というよりは天蓋かもしれない――を見上げた。
自分のシフトが終わった後、プールで泳いでいたら友香が声を掛けにきてくれて、スタッフ用ロッカーで着替えていたら地震があって、危なかった友香を助けようとして、それで――それで、そう。ロッカーが、倒れてきて。
「――――っ!!」
麻里は自分の頬に両手を当てた。続いて首、肩、腕、腰と手を滑らせていく。
死んだと、思ったのだ。
実感がなさすぎて今の今まで忘れていたけれど。
痛みがあったのかは、覚えていない。今もどこも痛くない。
そこまで考えて、視界の端に見慣れない色が見えた。
「し、ろ」
肩からふわりと流れた髪が、白い。
麻里の髪は茶色だった。染めるとかブリーチをしたとかではなく、プールの塩素で焼けてしまった茶色。水泳部に所属していた学生時代は、生徒指導の先生を説き伏せるのに苦労したものだ。
どうせ仕事でプールに入る時はひっつめてしまうのだからと適当な長さに切り揃えていただけの髪だったが、それなりの思い入れはあったのだと今更ながらに気付いて呆然としてしまう。
この段階になって、麻里はこの状況になんだか心当たりがあるような気がしてきた。
基本的に一人でいる事を好む麻里の趣味は、まぁお約束とでもいうように読書である。しかも漫画から実用書、純文学からラノベまで何でもござれの乱読派。
そして、最近ラノベや漫画で新しく確立されたと言っても過言ではない『異世界転生』モノ。
確実に死んだと思ったのに、いやそもそもあんなにも大きなロッカーの下敷きになっただろうに病院でもなく貝殻のベッドでカニと話してる辺り、もうそれしかないと麻里は思った。
いや、この状況全てが夢だという可能性もまだ消えてはいないけれど。
「海姫様……その、どうかされましたか?」
「あ、まぁ、その、多分」
思考がひと段落したタイミングを見計らったかのように話しかけてきたセバスに、麻里は改めて向き直った。だってこれが本当に転生だとしても、よくできた夢だとしても、他にやる事はない。幸いにもセバスと名乗るカニは友好的に感じるし、転生か夢か判断できるまでコミュニケーションを放棄するわけにもいかないだろう。
「ところで、さっきからその海姫様って何ですか?」
カニにまで敬語で話してしまうのは、サービス業の習性だろうか。そんなどうでもいい事を考えながらした質問に、セバスは待ってましたとばかりにその長い八本の足をぐぃんと伸ばした。
「海姫様とは! 貴女のことです!!」
あ、はい。それは話の流れでなんとなく分かってました。
口には出さないまま、なるほど、とばかりに麻里は頷いて続きを促した。
聞きたいのはその続きなのよ、セバスちゃん。
「すなわち、この大いなる海の愛し子! 我々海に生きとし生けるもの総てが敬愛し服従するお方です!!」
うん、ごめん。分からないわ。