01 せめてプールで死にたかった
水底に沈んで見上げる光が好きだ。
一番大きく聞こえるのは自分の心臓の音。そして遠くに聞こえるのは、水の流れていく音。今日もプールの濾過機は順調に働いてくれているようだ。
水中で仰向けだった体を翻し、俯けになる。両手を頭上に伸ばしてストリームラインを作ると、身体が勝手にドルフィンキックを打ってくれる。
そのまま二度、三度とキックを繰り返しつつ水面へと浮上した。と同時に、ドルフィンキックをバタ足へと切り替えながら大きく肩を回し始める。
フリー。
クロール。
四つある泳法の中で、麻里はこれが一番好きだ。最も水の抵抗が少なく、最も速度の出る泳ぎ方。
他の泳ぎも悪くないが、やはり一番はクロールだ。麻里は思う。
進行方向へと伸ばした指先が水を切る感覚。
テンポよく腕を回せば、簡単に上がっていくスピード。
他の泳ぎと違って余分な上下運動もなく、ただひたすらに前を目指せる。
ぐっと奥歯を噛んで力を込めると、どんどん速さが上がってまるで水と一体になったかの錯覚が麻里を包んだ。
半ば叩きつけるように壁にタッチして、久方ぶりに酸素を吸い込む。荒い呼吸を繰り返しながら、それでも体を包んでいるのは心地良い疲労だった。もっと泳いでいたいような、ただ浮いていたいような、あるいは、沈んでいきたいような。
さて、どうしたものか。水面に顔だけ出したまま物思いに耽りかけたところで、声が掛けられた。
「麻里せんぱーい。そろそろ閉館時間なんで上がってくださいねー」
「え、もうそんな時間?」
顔を上げると、そこには麻里よりも二か月程遅れて監視員のバイトに入った友香がいた。
そのまま時計に視線を動かすと、なるほど、閉館時間の21時15分前だった。見渡すといつの間にか他の利用者の姿もゼロで、どうやら本当に自分しか残っていないらしい。
「うわ、ごめん、全然気付かなかった」
言いながらプールから上がり、集団シャワーに向かう。シャワーカーテンで区切られた個別シャワーもあるのだが、それはあくまでお客様用なので、スタッフが使用する時は大勢で使う時も今のように一人で使う時も六つのシャワーヘッドが天井に固定された集団シャワーを使うのだ。
少し高い位置にあるバルブを回して中途半端にしか温度調整のされていない生温い水を浴びていると、友香が勝手にバルブを閉じて水を止めた。もう少し浴びていたい気分だったが、時間も押しているので仕方なくシャワーから出て更衣室に向かうことにした。使い込んでくたくたになったセームタオルで体を拭きながらスタッフ用ロッカールームに入ると、当たり前のようにとことこと友香が後ろをついてきて真ん中にあるベンチに腰を下ろした。
「友香ちゃん、締め作業は?」
「終わりましたぁ。今日、お客さんが引けるの早かったんですよ。あとは定時を待つだけなんです」
「へえ、いいなあ。ラッキーだね」
麻里と友香の働く市営プールは、最近利用者の超過使用に悩まされているのだ。どうせ来たのなら長く利用したいという気持ちは分かるのだが、閉館時間までに利用を終えてもらえないとスタッフも仕事を終えられない。多分どこのサービス業でも似たようなものだとは思うのだが、困ったものだ。
溜息を吐きつつ、自分のバッグからスポーツタオルを取り出して簡単に髪を纏める。そのまま慣れた動きで水着を脱いで、ボディーローションをざっと全身に塗る。どうせ帰宅してすぐに風呂に入るのだから、帰るまで肌がひりつかなければ十分だ。
そのまま下着と服を順に着ていくと、友香がはあ、と重い溜息を吐いた。
「麻里先輩、やっぱりスタイル良いですよねえ」
「え、何、急に」
「だって、これから薄着の時期じゃないですかぁ」
「ああ……」
確かに、気が付けば随分と暖かくなって、つい先日桜も咲き始めた。もう少し経てばスプリングコートも要らなくなって、そうしたらすぐに暑くなって、重ね着などできない夏がやってくる。ダイエット目的での利用者が一番増えるのも春先のこの季節だ。
「でも、そもそも監視員なんて一年中半袖にハーフパンツじゃない」
監視員の常駐するプールサイドは水中にいる人間が寒くないように温度調整しているので暑いくらいだ。従って、基本的に半袖ハーフパンツ以外のユニフォームを重ね着していられない。
「職場は別なんですー! 麻里先輩だって、外を水着で歩けって言われたら嫌でしょう?」
水着で外を闊歩する自分を少し想像して、麻里は首を振りながら濡れた水着をタオルに包んで、買ったばかりのPVCバッグに突っ込んだ。
「いや、それやったら嫌とか以前に多分捕まるから」
「そういう事ですよ!」
「ごめん、分かんないわ」
年末年始で少し増えた体重を戻しきれていないらしい友香には死活問題のようだが、いかんせんスイミングインストラクターとして働いている麻里は水着で人の注目を集める事がほとんどなので、肌を露出する事への抵抗も薄いし、また人からの視線にも疎い。
「もういいです。私も今度、麻里先輩のレッスン出ようかなぁ……」
「出てくれるなら歓迎するよ」
どうやら本気で悩んでいるらしい友香に苦笑しながら応援する旨を伝えると、それだけで彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、先輩!」
「お礼は友香ちゃんが痩せてから聞くよ」
いくら仕事が早く終えられたからといって定時までサボってしまう少し困ったちゃんではあるのだが、こういう所が憎めない、可愛い可愛い後輩なのだ。
だから、この直後に起きたことはもうどうしようもなかった。
がたがたがた、と音を立てて床が揺れ始めた。
「地震!」
そう叫んだのは麻里か、友香か。
もしかしたら同時だったかもしれない。そう考えている間にも、揺れはどんどん激しくなっていく。立っていられずに座り込もうとした瞬間、ぐらりと何かが大きく動いた。
こちらを向いてベンチに座っている麻里の後ろに並んだもう一列のロッカー。鉄だかアルミだか、詳しくは知らないけれど何かしらの金属でできた見るからに古く重たいそれが、友香の上へと正に倒れてくるところだった。
「友香ちゃん!」
考えるよりも早く、体が動いた。
競泳をずっと続けてきた麻里は、反射神経には自信がある。競泳とは、鉄砲の合図と同時に百分の一秒を競ってスタート台から飛び込むスポーツだ。
それで鍛えられた反射神経でもって、麻里は友香の腕を掴み、力任せに引っ張った。
力任せに引っ張って、友香の体が麻里の方へと引き寄せられる。
反動で麻里が友香のいた場所へと反転してしまったが、ともかく。
――良かった。
目を見開く友香の安全を確認して、ほっとした。
次の瞬間、けたたましい音を立てて重いロッカーが倒れてきた。
――あ、私、死んだな。
そして、麻里の意識は暗転した。