4. お題消化カフェ
たびーのお話は
「知らない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がして立ち止まる」で始まり「さあ、どうだったかな」という台詞で終わります。
知らない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がして立ち止まる。
久人はメモ用紙と路地を見比べた。
「体調に差し支えなければ、行って見るのもよいかと思いますよ」
午後の診察のあと、主治医が書いた地図はカフェへの道順だった。
「もっとも、見つけられるかどうかは運しだいですけれど」
久人より十才ほど若い童顔の主治医は、黒縁眼鏡の奥の目を細めて笑って見せた。
久人は仕事の忙しさから、心と体を壊した。去年の秋から長期休暇を過ごしている。通院にはいつもたった三駅分なのにバスを使っているが、今日は珍しく歩きで診察に来たと伝えたからだろうか。久人の復調を感じ取って、医師が提案してくれたようだ。
商店が並ぶ賑やかな表通りから一本裏へ。密集した住宅街の軒と軒がくっつきそうな裏道へと入ると、どの家も一気に古めかしくなった。
木造やトタンの家並みが続く。古い家ばかりなのに、うらぶれた感じがしないのはどの家々も窓ガラスに曇りがなかったり、パンジーや糸水仙の春の花があふれる鉢植えが玄関先に置かれているからだろう。細い路地を行きつ戻りつしてカフェを探した。夕ぐれ時、琺瑯の笠のついた玄関の灯りが灯る頃だ。コーヒーの香りに導かれ、教えられたカフェにたどり着いた。
木の扉を押すと、からんからんとカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
ショートボブの女性が、カウンターごしに笑顔で挨拶してくれた。束の間、久人の動きが止まる。女性が一瞬、知り合いに似ていると感じたのだ。しかし、それが誰だったのか思い出せないまま、久人はあいまいに会釈した。
「お好きなお席へどうぞ」
言われるままに、久人は三つあるテーブルのうち、いちばん奥の二人掛けの席を選んだ。
小さな店だった。四人分のカウンター席、その向こうの棚には白いコーヒーカップが整然と並べられている。
ステンドグラスの窓に、切子のようなシェードをつけた照明。カウンターには、常連らしき年配男性が座って文庫本を読んでいた。
ぼんやりとあちこち見渡す久人のところへ、銀のトレーにコップがのせられて運ばれてきた。
「ご注文は、何になさいますか」
久人は慌ててテーブルの上に置かれたネームスタンドのようなメニューを手にした。
ざっと見てメニューはあまり多くない。
「ブレンド、ホットで」
女性は笑顔でうなずくと、カウンターの向こうへと回った。
久人は手の中のメニューを裏おもてを見た。
アメリカン
エスプレッソ
カフェラテ
ソイラテ
今どきのカフェらしいメニューが並ぶ。そのなかに、懐かしいものがひと品あった。
ウィンナーコーヒー
久人は胸が、ぽっと明るくなったような気がした。中年にさしかかる久人の高校時代の思い出がわずかによみがえる。
学校の近くの喫茶店にもウインナーコーヒーがメニューにあった。放課後たまに立ち寄った。それは部活帰りだったり、文化祭の打ち上げだったり。
そういえば、友人たちともここしばらく連絡を取っていない。久人が故郷を離れて暮らしているせいか、今も独り身の自分とは違い、友人のほとんどが結婚して家庭をもっているからか。
コーヒーは一杯ずつ豆を挽いて作るらしく、コーヒーの香りがふわりと鼻をかすめる。
病気になる以前から、誰とも話さない毎日だ。いや、誰とも話すこともなかったら病をえてしまったのか。
「お待たせしました」
ことん、と皿にのせられた丸みのあるカップが置かれた。
ミルクジャーと砂糖、それからなぜか小さな木製の機関車。
「これは」
「お好きだと思って」
さも当然という表情で女性は久人に笑いかけた。ごゆっくりどうぞ、と軽くお辞儀をしてまたカウンターへと戻る。初老の男性が、お代わりを注文する。
久人は機関車を見つめた。
そういえば、子どものときから電車が好きだった。機関車に乗ったことはないけれど、いつか大人になったら、乗りに行きたいと思っていた……ような気がする。
大人になってから働きづめで、自分の好きなものなど忘れていた。
久人は機関車を手に取った。失くしたものを見つけたような気持ちになる。
コーヒーは馥郁たる香りを立ち上らせる。
自分には、好きなものがたくさんあったように感じた。
猫や犬などの動物、電車に揺られること、絵を見ること、本を読むこと、泳ぐこと。
いつのまにやら、忙しさにまぎれてどこかへ消え去っていたものたち。
電車のこと、医者に話していたかも知れない。ここは医者から教えられた店だ。先回りして電話連絡したのかもしれない。
しょぼくれたおじさんが来店したら、ちょっと機関車も見せてやって、と。
なんだか気持ちがふっと軽くなった。メニューを見直すと、軽食のなかにホットケーキがあった。
ついでに久人は頼んでみた。
こんど診察に行ったら、礼を言おうか。ガスレンジに点火する微かな音がした。
女性の調理する横顔が、記憶する子ども時代の母に似ていると思った。
記憶違いかもしれない。ホットケーキの焼きあがる甘い香りに目を閉じる。カップに添えた指先が暖かくなる。
しばらくホットケーキを口にしたことがない。思い浮かべる母の手作り。
味は……さあ、どうだったかな。
なんとなく終わった。