撃墜
爆撃機はとにかくあたりかまわず乱射しているといった風で、我々を認識はしているが、必ずしも狙っているかどうかは怪しかった。
その姿を見た先任は長機として、交戦発生を管制に連絡し、次の指示を待った。
管制、あるいは更に上の政治的な判断が必要な事態であったのは間違いない。
爆撃機が射撃を始めたこと自体は交戦と言って差し支えないが、機銃弾には限りがある。仮に、亡命目的で飛来しながら、早々に迎撃機がやってきたことにパニックを起こしたのかもしれないという推測も成り立った。
管制もその可能性を気にかけ、我々は暫く監視と呼びかけの継続を行う事となった。
そのうち、弾切れか銃身過熱か、射撃は止んだが、我が国へ向けての飛行は継続されていた。
本土まではしばらくかかるが、眼下には島が見えていた。それは我が国の島で、レーダー基地もある有人島だった。
ここまでくると、我々も亡命目的ではないかと思う様になっていたのだが、接近して手信号による交信を試みた先任から機体の下を警戒するようにとの通信を受け、下へ回り込むと、爆弾倉扉が稼働しているのを目の当たりにし、その旨を先任に報告し、即座にその姿をカメラに収めたのであった。
爆弾倉扉を開けるというのは交戦行為以外の何物でもない。しかも、明らかに爆弾と思しきものまでそこには見えていた。
管制の指示を待つまでもなく、先任は攻撃を命じ、我々は爆撃機への射撃を開始した。
吹華の積む機関砲は1、2発命中すればエンジンを破壊し、燃料タンクを破壊するに十分な威力があった。私は爆撃機の下方から爆弾倉めがけて撃ち上げた。曳光弾は思うようには飛んでいかなかったが、数発が爆弾倉へと飛び込むのが見えた。そして、着弾と共に爆弾が誘爆、機体もろとも大爆発を起こし火球となった真横を私は駆け上がって行った。
先任は機種方向に居たこともあり、私と火線が交差することを避けるため、一時退避しており、射撃したのは私だけだった。
私は先任へ撃墜を報告し、先任は管制へとその報告を行った。
この事件は島の目と鼻の先で起こった事件であり、島への漂着物もあった。
次の日には島や基地周辺の新聞にこの撃墜報道が載っており、街ではどこかお祭りの雰囲気すら漂っていた。
しかし、事態は急変する。基地にはかん口令が敷かれ、島にも憲兵が配置されたという。新聞の記録をすべて消し去ることは出来なかったものの、誰もが事件について口にしなくなった。
それから数日間、私と先任は外出禁止となり、半ば軟禁状態に置かれることとなった。
その時は一体何が行われているのか全く分からなかった。
軟禁が一週間になろうかという時、私たちは司令官室へと出頭を命じられ、部屋へと向かった。
そこで見せられたのはTu8の写真であった。飛行中の物、地上にあるもの。それらが数点並べられていた。
そして、私はある事に気が付いた。
その機体は撃墜したものと同じ機体番号であること。更には、機銃は一部の配置が異なり、尾翼に描かれていたはずの国籍マークは胴体に描かれていた。
それがいったい何を意味するのか私にはよく分からなかったが、それらすべては機密であるとしてかん口令によって口を封じることとなった。
その後、部隊は何事もなかったかのようにアラートと訓練を続け、私もその中に戻って行った。そして、私はタービン機が配備された後も最後まで吹華部隊に残り、何の因果か隊長職まで勤め上げることとなった。
事件は機密ではあったが、空軍内においては実しやかに情報交換が行われ、我が国が交戦行為についての抗議を行ったその日のうちに北部にルーシから当該機を飛ばすので確認せよとの通告があったという。私が見た空中写真はその時の物であるらしい。
幹部間でのみ行われたそうした情報交換によって、私は当時の状況を知ることとなったが、全貌を知ったのは機密指定が解除されたつい最近の事だった。
公開された資料によると、当時島に漂着した残骸や我が国が海底を捜索して引き揚げた残骸からは機体の素性を示す製造番号のようなものが巧妙に隠蔽されており、未だにどのような経緯で我が国へ飛来したのかわかっていない。
ルーシ側の資料にも、当日飛行した爆撃機は記録されておらず、翌日午前中に我が国から通知された番号の機体を飛ばした以外、我が国領空周辺に至る飛行の記録も残されていない。
市井の陰謀論には北ソロゴスが供与を受けたうちの一機をルーシ軍機に偽装し、我が国への攻撃を行い、戦争を誘発する計画だったとするものがある。
しかし、北ソロゴスが軍の行動記録を開示していない以上、それが本当であったのか否か、供与されたTu8の数と喪失機の数がどのようなものであるのかはわからないため、私はその陰謀論について何ら論評する材料を持ち合わせてはいない。