着任
私が配属された中部防空戦闘機連隊は、着任時点でようやく賛華の更新が終わったというほどに整備が遅れている部隊であった。
しかも、その多くは本来制空戦闘機を志した者たちであり、士気の面でもあまり良いとは言えなかった。
というのも、海軍の母艦航空隊に残れたものを除けば、基地航空隊や陸軍の戦闘機連隊という、制空戦闘機を主として配備されていた多くの部隊が僅か100機の制空戦闘機を残して解体されており、元々数が少なかった迎撃戦闘機隊の補充要員として搭乗員を配属しているような状態だったものだから、戦時の花形から左遷されたと思う者が多く、自主的に除隊して行く者も数多くいるような状態だった。
新人搭乗員として配備部隊の希望を聞かれた私は迎撃部隊を希望し、周りに驚かれ、教官たちには安堵されたことを思い出す。
当時は多用途戦闘機などは存在せず、制空、迎撃、攻撃、爆撃とその任務ごとに適した機種を用意する必要があった。
制空を担うには軽快な旋回や迅速な加速を必要としており、必然的に主翼が大きく、最高速度を多少犠牲にする必要があった。迎撃には上昇能力と強力な武装が必要であり、制空戦闘機では、高空までの上昇力や敵重爆撃機を破壊するに足る火力、敵の火網に耐える防御力という点で見劣りした。攻撃機や爆撃機となると、多数の爆弾を搭載する能力が必要で、そのための機体強度が優先されるため、軽快な旋回や鋭い上昇力などは望めなかった。
これらを一機種でこなせるようになるのはレシプロのような非力なエンジンではなく、強力なタービンエンジンが登場して以後の事だった。
現在主力のタービン多用途戦闘機は、当時の高速爆撃機に迫る大きさと重量を持つ。それでいて、三倍以上の速度を出し、軽快な旋回や鋭い上昇を可能としている事で、制空、迎撃、攻撃、爆撃という複数の任務をこなすことが出来るのである。
話しが逸れたので戻すと、私が飛行記章を得たころにはそれぞれの任務ごとに機種も部隊も分かれており、その中で花形とされたのが制空戦闘機だった。
中には適性の段階で輸送機や哨戒機、重爆撃機と言った大型機へと回されたものもいる。しかし、それ以外の者にとっては、まず制空戦闘機に乗るという事へのあこがれが強かった。
しかし、私にはそのような憧れはない。私にとっては、戦時中、敵の重爆に挑む形のおかしな戦闘機こそが憧れだった。
多くの者は敵に戦闘機と空中戦を演じる戦闘機に熱狂したが、私にとっては、爆撃機をわずか一航過で屠る賛華の雄姿にこそ熱狂した。
その思い出を胸に空軍の門を叩き、賛華に乗る事こそが目標だった。
そのため、端から競争率の低い迎撃機搭乗という希望はすんなり通り、制空、攻撃という他の希望を果たせなかった者たちとは意欲が違った。
意気揚々と航空隊の門をくぐった私だったが、そこには他の新人同様に覇気の低い者たちが溢れていた。
現役搭乗員の多くも制空戦闘機を望み、それが叶わなくともルーシと対峙できる北部を望んだ。
厳しい訓練に打ち込むなら海軍の伝統を引き継いだ南部という選択もあっただろう。しかし、首都に近く、戦後の新しい風というものが強く吹き付ける中部にあっては、実戦の緊張感も過酷な訓練への緊張感も、どこか遠いものだった。
ここにあったのは、「新しい軍の在り方」や「安全意識」という政治家や軍中央の意識と目だった。
そのため、戦争経験者たちには居心地が悪いものだったらしい。更には、コロンバスから入ってきた新しい戦術や機材の試験なども中部の担当であり、ここでは慣れ親しんだ戦術や機材が毎日のように否定され、慣れない戦術や機材と格闘するという、空を飛ぶ者には苦痛でしかない環境が整いすぎていた。
そのような環境だから、連隊自体の士気は低く、明らかにやる気のない者すら目に入った。
そんな中で、私は幸運だった。
配属されたのは元来の迎撃部隊を前身に持つ戦隊であり、そこでは戦時の戦訓や海外からの新戦術や機材がすんなり受け入れられており、なおかつ、士気も高かった。
私にあてがわれた賛華も最終(最新)型であり、管制誘導には耐えないが、夜間戦闘が可能なレーダー装備の機体だった。
それはもちろん、この部隊が新戦術の確立や研究を行う意欲を持っていたからだと言える。
他の部隊で新人が乗るのは当然のように旧型であり、私以外にいきなりレーダー装備機に乗り組んだものはいない。
この時点ですでに、吹華は管制誘導を前提にした広域捜索レーダーの装備が決まっており、私たちは吹華の戦術研究も兼ねて、管制による目標への誘導をいかに行うかという訓練を主として行う事となった。