始まり
私が空軍の門を叩いたのは戦後初の募集の時だった。
それまで10年近くにわたって募兵を一切していなかった。いや、正確に言えば出来る状態でもなかった。
戦争が終わり、条約によって軍備が制限される中で、軍に対する風当たりは非常に強かった。そして、戦争による動員によって膨れ上がった軍はその人員整理に多大な労力を使い果たしてもいた。
軍は動員によって平時の十倍を超える規模に膨れ上がったが、戦争が終わった途端にはいそうですかと社会へ戻る事の出来る人というのはそんなに多くはなかった。戦争の初期には予備役招集という形で行われ、その段階で招集された人たちは生きてさえいれば戻る場所がまだあった方だ。しかし、戦争が激しくなり、招集では追い付かなくなった後に徴兵によって入営し、社会に出る事も無くそのまま戦場へと向かった者たちは家に帰ることは出来たとしても、全くやる事が無かった。
もちろん、職にありつくというか、向こうから引き抜きが来るような人々も当然いたのは確かだ。
まず、鉄道兵科はそのまま国鉄や私鉄によって奪い合いとなった。工兵も復員するなり地元でいくらでも仕事にありつけた。輜重兵の中で自動車の運転が出来る者、車両整備が出来る者も鉄道兵科に劣らず引く手あまただった。
しかし、水兵や歩兵の行く先はない。まして、飛行機搭乗員には復員後の職など存在していなかった。
もし、今ならば、多くの航空会社がこぞって引き抜きに動いたかもしれないが、当時は民間輸送は郵便を除くとほとんど存在していなかった。
そのような状態の中で、陸海軍は航空機の削減を迫られ、特に海軍は母艦航空隊を僅か3隻の空母と200機の艦載機、100機の哨戒機にまで制限されることとなった。陸上攻撃機や基地戦闘機隊の保有は認められていなかった。
陸軍においても機数が制限され、制空戦闘機100機、迎撃機200機、軽攻撃機100機、爆撃機60機という制約があった。
これでは戦時中より桁が一つ下がるほどの削減であり、制限されていない練習機や輸送機こそ相応に持てたが、人員が余るのは当然だった。更に、海軍が陸攻隊や基地航空隊を廃止するという事で陸海軍の航空隊を統合しようという話にもなった。
しかし、陸海軍では使用する機体も、航法も違うため、まずどちらに合わせるのかという所から揉め、その結論が出るのに2年を要したほどだった。
そうして一応、空軍が発足したのだが、機種転換や航法習得には多大な時間と労力が必要だった。
そんな混乱と人余りの中で新兵募集などする余裕などあるはずもなく、ひたすらに現有人員の訓練へと労力を傾けることとなった。
8年余りが過ぎ、ようやく空軍は自分たちの危機に気づくことになる。
8年新兵を入れていないという事で、戦時に入営した最年少ですら、当時すでに25歳程度となり、あと数年で飛行服を脱ぐものが出てくる状況が待ち受けていた。
航空機乗りが独り立ちするには少なくとも3年はかかる、そうなると、このまま2、3年手をこまねいていれば、一挙に搭乗員が制限枠すら下回る事態が待ち受けている事に慌てふためき、募集の再開を決めることとなった。
おりしも経済成長が戦前を超える好景気を迎えており、どこも人手を欲している時だった。そんな中で風当たりの強い軍を志す者など僅かでしかなく、身体、頭脳共に求められる空軍への採用となると、期待したほどの成果が上がる状況ではなかった。
そのような状態であったから、体こそ健康ではあったものの、学力については何とか人並みという私が採用されたのは、人手不足の幸運であったと今でも思っている。
私が初めて乗った飛行機はけん引式であったため実はあまり覚えていない。強烈に覚えているのは希望通りに戦闘機課程へと進み、迎撃教習で乗り組んだ賛華だった。
その機体は戦時中に生産されたもので、戦後に各部が改修や交換されているとはいえ、やはり後に実戦部隊で乗り組むことになった戦後型に比べて非常に粗が見られたことを覚えている。
粗があると言っても操縦系統だけは戦後の仕様へと変更されていたので、急な機首上げなどという事態は経験していないが、私が修了すると時を同じくして解役となったのだから、その老朽化が進んでいたことは間違いない。
そうしてようやく実戦部隊へと配属されたのだが、私が配属されたのは最前線と言える北部や海軍の色が強い南部ではなく、首都の裏庭と言われた中部だった。そこはある意味平和であり、新人の教育にはうってつけだったのだろう。