航空祭 3
吹華はエプロンから誘導路へと向かう。エンジン音に異常は感じられない。
吹華の開発には一つの大きな障害が存在した。それは、その四年前に交わされた条約である。
我が国はその年、コロンバスとの戦争に敗北し、講和条約を結ぶ中で大きな軍備制約を課せられることとなった。
その制約により海外領土の大半を失い、海軍の艦艇にも制限が加えられ、航空隊も制限された。特に大型機の制限は厳しく、重爆や輸送機は軒並み廃棄されていくこととなった。そして、戦闘機でも、制空機の制限が厳しく、迎撃機主体の編成が常態となっていく。
迎撃機自体には大きな制約は存在しなかった。とはいえ、それは吹華以前の機体についての話で、まさか、迎撃機のエンジンに爆撃機が搭載するような巨大で高出力なエンジンが必要になるなどとは我が国ならずとも考えてはいなかった。
吹華の障害とは、本来、爆撃機に対する制限として設けられていた高出力エンジンに対する制限だった。
条約において、民間型も含め、軍事転用を禁じている状態だったのだ。しかし、それでは時速九百kmなどという機体の開発は出来ない。
そこで条約既定の変更の協議が始まったのだが、さすがにコロンバスも難色を示してきた。数年放置してタービンエンジンにも規制を掛けようとしていたともいわれる時期であり、交渉の長期化は避けられないと見られていたのだが、蓋を得けてみると意外なほどすんなり交渉は進んだ。
そこにあったのはルーシの爆撃機という共通の脅威であった。
我が国との戦争で大陸の権益を得たコロンバスだったが、そこで直面したのはこれまで味方であったはずのルーシとの対立だった。
考えればわかる事だが、大陸の大半はルーシの領土であるか影響下にある国が支配する領域であり、我が国やコロンバスは残りわずかな大陸の資源を奪い合っていた。そして、我が国から大陸の権益を得て初めて自覚したのが、その権益を守るにはルーシとの対峙が避けられないという現実。
コロンバスは当初、ルーシとの良好な関係を維持できると考えていた。実際、二年ほどは良好な関係を保っているかに見えたのだが、次第に双方の意見の隔たりが大きくなり、我が国が交渉を持ちかけたころにはルーシとの対立不可避との意見が大きくなりだしていた。
この交渉に際してコロンバスから賛華の技術資料の提供を要求され、交渉は決裂するかと見られたのだが、我が国が要求した流体力学に関する研究データの提供をコロンバスが承諾し、双方、条件付きながら要求が通ったことで、戦闘機への搭載に限って、高出力エンジンの開発と生産が可能となった。
そして、交渉で得た流体力学の資料がエンジン開発にも機体開発にも大いに利用されている。
もし、コロンバスから流体力学データの提供が無ければ、吹華の速度はあと四十kmほど低下し、エンジン加熱問題が再燃していたと言われている。
コロンバスでは賛華の資料を得てようやく、単発での時速八百km台時代を迎えることとなったというから、この交渉はお互いに得るものが大きかった。
私が軍へと入ったのはちょうどそのころだった。
吹華が誘導路から滑走路へと入り、離陸体制に入る。ひときわエンジン音が高くなり、加速を始めた。
今見るとジェット機ほどの加速ではなく、比較的鶴やかに見えるが、当時はこれでも最速であった。
そして、ほどなくして機体は離陸していった。その上昇は実戦配備されていたころのような負担のかかる急上昇ではなく比較的緩やかだ。
それもそうだろう、今飛行可能な状態にある吹華は僅かしかない。タービンエンジンの実用化後、まずタービンエンジンが装備されたのは制空戦闘機だった。
「タービン化に伴って速度は上がり、制空、迎撃というこれまでの垣根は取り払われることになる。まずは速度に劣る制空機の更新を優先すべきである」
そう言われては反論のしようがない。
各国とも、まずは小型の戦闘機からタービン化していき、爆撃機は時速九百kmの吹華であれば、タービン化したのちにでも、ひとまず迎撃が出来る範囲にとどまっていた。
タービンエンジンもレシプロ同様に小型機の発達から始まって、大型機の発達は歩みが遅かった。
それは吹華にとって幸運ではあったが、保存という現在の状況には過酷なものだった。なにせ、タービンエンジンの実用化後は新たな吹華の生産や開発はほとんど行われず、わずかにミサイルを搭載した制空、迎撃両用型がタービン機に先駆けて開発、生産されたに過ぎない。
そのため、迎撃任務をタービン機が受け継ぐまでの間、吹華は消耗し、飛行可能な状態を退役後も維持している機体は極僅かしか残されていなかった。
その一機が、私が初めて乗り組んだ機体だ。
それはあの日、私が初の領空侵犯対処待機に着いた日の一件から始まった。