逃走と覚悟
あれは、駄目だ!駄目に決まってる!こんなのは……こんな日常にあんなのがいるなんて!そんなの到底認められる訳ない!
と、とにかく逃げなきゃーーー
そう思い、足を後ろへと向け、思いっきり足を動かして逃げようとした…が、
「ーーーえ?嘘、何で!?」
しっかりと踏ん張りを効かせた筈の足は、まるで折りたたまれるかのように崩れ、そのまま転倒してしまう。
「逃げなきゃいけないのに!動け!動けよ!」
情けなく崩れた足に怒りを打つけるように、震える手で何度も殴りつける。
しかしてそれは、すぐそこまで迫っていたらしい。目の前に、大きな影が映る。恐怖で強張る顔を無理やり起こし、前を向く。
そしてそれは目の前に立っていた。今なら容貌がはっきりと分かる。いや、正確には余計に分からなくなった。何故なら、遠くからの立ち姿からは、屈強なものが想像出来た。しかし、今目の前にいる『それ』からは、それがどの様な姿なのかを"認識"することすら出来なかった。
「あ、あぁ……。嫌だ、死にたくない。まだ……あ?」
目の前がいきなり真っ暗になったと思った瞬間、腹部と背中に強烈な鋭い痛みが走る。
ああーーーそうか。
急速に失なっていく痛みと意識の中、何となく理解した。
僕はーーー"喰われたのか"
「ーーーあれ?」
そして急速に意識は浮上した。
訳が分からず腹部に手をやるが、特に異常は見当たらない。それどころか、今僕は地面に立っていた。転んでなどいなかった。
おかしい。確かに僕はあれに喰われた筈なのに!慌てて意識を前に向けた。
たが、幸いと言うべきか目の前にいた筈のそれはまだ遠くにいた。
なら今のは何だったのであろう。ただの幻覚?
幻覚だとしてどこから?そもそも幻覚にしたってあそこまでリアルなものなのだろうか。
いや、今はそんな事を考えている場合じゃない。今視たものが幻覚だろうが無かろうが、このまま動けなければどのみち『あれ』に殺される。
そこまで考えると、取り敢えず僕は依然と前を見つめたまま身体を慣らすように後ろへとゆっくり下がる。今にも恐怖で足がもつれてしまいそうだが、それに耐え、ゆっくりと後ずさる。
住宅地の中ならば細い路地が多くある。上手くすれば撒けるかもしれない。そう考え、上手く動かない足を細い路地へと向け、どうにかその路地へと入ることに成功した。
『あれ』がどこにいるのかが分からなくなるのは恐ろしいが、まだ距離はあったはずだ。それよりもあんなのと対峙している方が何倍も恐ろしい。
その証拠と言わんばかりに、身体の震えは止まり、あの抗い難いまでの恐怖心すら薄くなっている。この調子なら走ることも出来そうだ。
「よ、よし!これなら」
そうして僕は走った。今までにない位必死に走った。そして、
「嘘……だろ」
絶望した。
初めから逃げても無駄だった。
何故なら、一定以上進むとその先には暗闇しかなく、勇気を出して中に飛び込もうにも、そもそも透明の壁のようなものの所為で先に進むことすら出来はしなかったからだ。
「は、はは。意味分かんねぇ」
もう笑うしかない。理解が追いつかない。本当にこれが夢ならどれだけ良いのだろう。でも夢じゃない。それなら結局、僕が取るべき行動はただ1つだった。
逃げ続ける事。
そう覚悟を決めて自分を奮い立たせている時だった。
冷や汗が出る。足が震えてくる。それは、背中越しでも分かる強烈な視線だった。それを感じた時に悟る。もう時間切れであったのだと。
だけど、もう覚悟を決めたからなのか。さっきよりも感じる恐怖は少なかった。今なら真正面から対峙出来そうなほどだ。そう思い、背後から感じるその強烈な視線の方に思い切って振り返る。
それが視界に入った。相変わらずゆったりとした動きでこちらに向かってきている。その瞬間、
「うっ……あぁぁ」
逃げ切るという覚悟は無残にも砕かれた。
嘘だった。覚悟が決まったなんてものは嘘だ。そんなものこんな状況で普通の人間が出来るようなものじゃない。あんなものは一時の張りぼてに過ぎない。
心が折れかける。何もかもを諦めてその場に崩れ落ちる事が出来ればどれだけ楽なのだろう。人間諦める方が楽なのは当たり前だ。諦めたいと思うと言うことは、それは諦めたい位には辛いという事なのだから。
もう無理だ。諦めてしまいたい。死は一瞬だ。痛みなんてものを感じる間も無く意識は無くなるだろう。ならそれでいいじゃないか。そんな終わりも悪くないのではないか?
そんな甘い言葉が頭を巡る。だけどーーー
ーーーそれは……"それだけは駄目だ"
その選択は間違っていると。何故か唐突にそう思えた。だから諦められない。楽にはなれない。こういう時、我が悪友はどうするだろう。そんな事をふと考える。
頭の中で色々考える内にそれとの距離は既に10メートル程だ。
ーーー彼奴なら多分、こんな状況でも飄々としているのだろう。いや、もしかしたら蹴りの一発でも入れてぶっ飛ばしてしまうのかも知れない。そう思うと多少笑えてくる。
7メートル。
ーーーこんな時くらい見習ってみるのもありかも知れない。なんたって荒事専門の奴なのだし。案外一発入れれば引いてくれるかも知れない。そんな馬鹿な考えを頭の中の冷静な部分が嘲笑する。そんな事はあり得ないと。
5メートル。
ーーーだけど、偶には馬鹿な事をするのもいいのかも知れない。唯でさえ目立たず生きてきたんだ。どの道これが最期になるのかも知れないなら、思い切り暴れてみようじゃないか。そうと決まれば……。
足を一歩引く。
足の震えは止まっていた。
拳を固め、腕を引く。
拳には力が入るようになっていた。
3メートル……。
そうして腕を後ろに引いたまま、僕は走り出した。喧嘩なんてロクにした事ない僕だ。上手い殴り方なんて知らない。それでも全力だった。
だから、それがいけなかったのかも知れない。僕は足を絡れさせ、派手に転倒してしまった。かなり緊張していたからだろう。足が上手く動かなかったのだ。
顔を上げると、それは恐らく僕を見下ろしていた。相変わらず認識する事すら出来ず、この生き物なのかすら怪しいものが一体何なのか分からない。強烈な恐怖も薄れていない。しかし、そんなことはもうどうでも良かった。唯々悔しかった。動かない身体が。一矢報いる事すら出来ず、地面に伏している自分が。その悔しさが全身を巡る。今では最初に感じていた理不尽さなど、何処かへ消え去ってしまっていった。
頭上で、それが大きく口を開いているのが分かる。そこには闇しかない。何も見えず、何も無い。それを目の前にしてすら悔しさが優っていた。頭の中の片隅で思う。僕はこんなにも悔しさを感じる事が出来る人間だったのかと。そして自然と声が出てくる。
「ちくしょぉぉぉおおお!!」
そうして喰われる寸前、光の筋がそいつの身体を縦に通った気がした。
「え?」
その綺麗な軌跡に一瞬惚けていると、そいつの身体は縦に分断され、そして痕も残さず消え去った。
月が辺りを照らす中、その消えゆく残骸の先にいたのは、
刀と思しきものを持った成瀬さんだった。