解放
棒を右手に持ち、疾走する。素早く背後へと回り、両手に持ち替えて棒を叩きつけた。
しかし、硬いゴムのような手応えが僕の身体ごと、叩きつけた棒を跳ね返す。思わずよろめいてしまいそうになるが、そうなる前に足に力を入れて無理矢理、後ろへと退がる。
冗談じゃないぞ!あの見た目であんなに硬さがあるなんて予想外だ!これじゃあ何回叩きつけたって意味がないぞ!?それにーーー
ーーー俺ってこんなに足が速かったか?
力だってそうだ。それに今よろめき掛けた時も、あんな無理な体勢から持ち直すなんて俺に出来たか?いや……今は何でもいい。取り敢えず、この人の形を真似た化け物をどうやって倒すかだ。
距離を取りながら様子を窺うも、何かする様子はない。
どういう事なんだ?さっきまであれだけ動いていたのに。取り敢えず何もして来ないなら好都合だ。今のうちに少しでも傷をーーーッ!?
瞬間
視界に映る世界が"ブレる"。時が遅くなる感覚に陥る。何もかもが二重になった視界の中、重なっている"片方"だけが動き出す。そこには自分の姿がある。俺は化け物に向かって走り、突きを繰り出していた。しかし、それが届く前に奴の身体から生えた鞭のようなものが俺を捉えると、それは俺の身体を拘束し、そして……口と思しき部分を大きく開けると、俺を取り込んだ。それを終えると、視界は正常な状態に戻っていく。そして最後に、緩やかだった時の流れが急速に終わりを告げた。
「カハッ!はぁ、はぁ……な、何だったんだ?今のは。というか、身体が……重い?」
疲労を自覚出来るくらいには疲労が溜まっていた。
「もしかして、今"視たもの"の所為なのか?」
しかし、それを逡巡する間は無かった。何かが鞭のようにしなりながら、すぐ目の前まで迫って来ていたからだ。それを既の所で避け、体勢を立て直す。次が来ることを警戒ししつつも、そうして迫ってきていた何かを確認することが出来た。
それは、既視感のある一本のしなやかな鞭のようだった。奴の身体から生えているそれが、空中で漂うように浮かんでいる。
「あのまま飛び出していたら……」
先程"視た"ものを思い出す。鞭に捕まり、顎を外したかのようなあの大口に呑み込まれている自分と思しき姿を。背筋が凍る。冷や汗は頰を伝った。
一歩を間違えていたら、俺はああなっていたかもしれなかったのか。
"ああなっていたかもしれない"。それはさっき視た事が現実に起こる可能性が高かったということだ。でもそれじゃあまるで、"予知"みたいじゃーーー
"貴方はこちら側よ"
唐突に、成瀬さんの言葉を思い出した。こちら側。その言葉を舌の上で転がす。
「そう。やっぱり俺は、どうあがいても日常には居られないのか」
でも。少しだけ、力を貸したいと思ってしまった人がいる。こんな非日常なんかじゃなく、ちゃんとした日常で生きて欲しい人がいる。だからこそ、後悔しないうちに選択すべきだ。
ならーーー
「認めるよ。確かに俺は、"異能者"だった!」
何処かで。誰かが、いや……ナニカが嗤った気がした。
それを振り払うように、走り出す。
走る。走る。走る。疾るーーー
その疾走は、奴との距離を一瞬にして詰めた。右から奴の触手が伸びてくる。それを下段から上段に弾いた勢いのまま、棒の折れている部分を前にして、奴のゴムのような表面を横に斬り払う。その表面には傷ついたような痕が残る。だが、それはすぐに何でも無かったかのように消えて無くなってしまう。
「傷を付ける程度だと駄目なんだ」
それを視認している間に、奴は真正面にいる俺を吞み込もうと、大口を開けて迫ってきていた。しかし、それを左へと軽々避ける。
動き自体は大して速くないし、それに単調だ。ただ避けるだけだったらいけそうだ。でも、こっちも攻め手を欠いてる。このままだとジリ貧だ。さて、どうするか。
動きは止めず、触手を弾きながら考えを巡らせようとする。しかし、それをさせまいと奴はこちらに迫ってくる。そうして、人間のようなその腕と拳を上から下に、"叩きつけようとしてくる"。
「嘘だろ!?」
予想外の攻撃に反応が遅れる。しかし、速さに差がある為、それを避けることには成功する。どうにか体勢を立て直して顔を前へと向けるが、驚愕は表情から抜け切らない。コンクリートの床にヒビが入っていた事にも驚いたが、その前に……
「まるで、人間みたいにッ……」
どういう理由で人間のような姿になっているかは知らないが、人間のような動きなど殆ど出来ないと考えていた。今までの攻撃手段となれば、触手か呑み込むかの2択だったからだ。だからこそ、こういった荒事に慣れていなくても速さで圧倒出来ていた。それなのに攻撃の手段を増やされては、対応しきれなくなる。
どうするか ーーー
しかし、迷いは一瞬。すぐにまた、馬鹿みたいに奴に向かって走り出した。
このヤケクソとも言える突撃に意味は無いかもしれない。それでも足を、手を止めるわけにはいかない。
「俺は! 守ってみせる!でないと、ここに俺が立っている意味がない!!」
再びーーー 奴の懐へと飛び込む。風圧と共に拳が顔に迫る。それを棒で左に流した。その拳は、明らかに先程のものより速かった。流されるのを読んでいたのかと思うようなタイミングで、触手が足払を掛けようしてくるが、それを跳んで避ける。着地と同時に横に薙ぎ払うように、しなりのある足が横腹へと向けられる。それを"辛うじて"、着地の勢いのまましゃがむ事で肝を冷やすだけに留めた。そして間髪を入れず下段から上段に棒を振り抜くが、"避けられた"。その形が霞む程の拳が飛んでくる。避けきれずに棒で弾く。触手が飛ぶ。拳が迫る。それを一心不乱に避けて、弾く。
弾く。弾く、弾く、弾く弾く弾く!
弾く弾く弾く弾く弾く!!
そうして、限界は来た。目で辛うじて追えていた腹部への拳を弾ききれずに、棒と共に扉のある壁へと叩きつけられた。
「カハッ!ぐッ……あッ、がッ……」
思わず喘ぐような声が漏れる。その衝撃は凄まじかったらしく、何かヒビの入ったような音が聞こえたような気がした。ただ、それが壁にヒビが入った音なのか、自身の骨が折れる音なのかが分からなかった。というより、死ぬ程の痛みでそれどころではない。そのあまりの痛みに脳が意識を遮断しようとするのを気合いで堪える。
「これ、は。無理……か?」
動こうとする意思とは反対に身体は全く動かない。
奴が近づいてくる。その顔と思しき部分の下の方。人間で言う口がある場所。奴はその部分を醜く歪めていた。俺にはそれが嗤っているように視える。いや、もしかしたら動けない獲物を前に、本当に嗤っているのかも知れない。今回は生きの良い餌だったなと。
「だけど……残念、だったな」
それは三下のやることだと、映画や漫画では決まっている。
俺はそう言い切らずに、奴の"頭上"を見上げる。
そうして、場所は違えどそこにはいつかの光景が目前に繰り広げられる。
「ヒュッ!」
"成瀬さん"から鋭く漏れた空気の音とほぼ同時に、奴の身体はまるで抵抗など無いかのように一刀両断される。獲物を前に舌なめずりをしていた三下は、こうしてあっさり塵となった。
月の光に反射しているのか、白刃は白塗りにされているのかと見間違ってしまう程に輝いている。辺りに散っていく塵を背景に、成瀬さんが驚きの表情で俺を見下ろしていた。
取り敢えず、死なずにすんだ……かな。あ、ヤバイ。もう、意識がーーー
そんな成瀬さんの姿を見て安心したのだろうか、それを最後に俺の意識はプツンと切れてしまった。