第八章 葛藤
儀式に則って、父の遺体は徐々に白い布に巻かれ、隠れていった。
あの優しい寝顔も、これで最後。ホンウィはもちろん、敬惠も敬淑も、ほかの皆も、二度と目にすることは敵わない。
そうしてしっかりと白布と布団にくるまれた父は、内官たちの手で棺に納められた。
これから五ヶ月の間に、天文・風水・気象観測などを担当する部署である観象監と相談して陵墓の場所を決め、埋葬の手続きをしなくてはならない。
亡き母・顯徳王后・權氏こと、權恩曙の陵墓も、父の隣へ移葬すべきだろうか、とホンウィはぼんやりと考えていた。
***
納棺が済んだのちは、父の棺を前にして、しばしの会食となった。
親類のみの、内輪の集まりだ。
また、葬礼の儀礼上、酒と肉は振る舞われない。
上座に据えられた父の棺から見て、向かって左側の最前列にホンウィが座し、次席は姉の敬惠、敬淑が続く。また、敬惠の隣には、彼女の夫である鄭悰が腰を下ろした。父の妹であり、首陽叔父には姉である貞懿慈駕を筆頭とした父の弟妹とその伴侶が、続いてその下へと座った。
その他、父の側室たちも参加している。父は、ホンウィの生母であるウンソが亡くなってから正妃を娶らなかった為、今この場にいる父の妻は、すべて側室だ。
結局、ホンウィはこの日まで、首陽と錦城以外の叔父叔母に会わずに来てしまったので、次々自身の元まで来てくれる彼らとの挨拶に勤しんでいた。
ただ、昨日生まれてしまった疑念の為、首陽とは何となく話し辛く、今日はいつものように、無邪気に彼の傍へは近寄れずにいた。
「殿下」
実質的な意味とは別に、味も感じられない料理を食していると、不意にまた声を掛けられて、ホンウィは顔を上げた。
「……赫……じゃない、永豊叔父上」
いつものように相手を『ヒョク兄』と字で呼びそうになって、危ういところで言い直す。
ほかの叔父叔母がいる手前、兄弟同然に育った彼のことも、今は叔父と呼ばなければならない。
叔父と言っても、彼は祖父の十九番目の子で、まだ十七歳だ。ホンウィとは、七つしか離れていない。
「お久し振りです。殿下にはお変わりなく、祝着でございます」
「叔父上」
「此度の兄上……いえ、先王殿下のこと、お悔やみ申し上げます」
永豊君は、言いながら、円盤〔お膳〕を挟んでホンウィの前に腰を下ろした。
「いえ。叔父上にも、父は兄上に当たります。胸中、お察しします」
「恐縮です。兄は我々弟妹にとてもよくしてくださった。そのご恩をお返しする前に亡くなられたことは、誠に残念です」
畏まった挨拶を一通り終えると、永豊君は、キョロキョロと周囲を見回し、顔を近付けた。
「ところで、ユウォル。お前、何かあったのか?」
ひそめられた声は、いつもの口調だ。
「何かって?」
ホンウィも、声を小さくして答える。
「兄上が亡くなったってこと以外に何かこう……問題抱えてないかって訊いてんだよ」
「え、何……俺、そんっなに分かり易いの?」
ホンウィは、自分の無表情に、限りなく自信を喪失しながら問い返した。ガックリと、無意識に肩が落ちてしまう。
「分かり易いっつーか……意識してないならこれから気を付けるんだな。親類ばっかって言っても、見ろよ。こういう時はその辺、内官とか水刺間の女官がウロウロしてるじゃん。公の場と同じだぞ?」
「……肝に銘じとく」
「で、何があったんだよ」
答えていいかどうか迷う。
もちろん、永豊君のことは信用している。だが、同じ室内に首陽や安平がいるので、やはりこの場では迂闊な話はできない。
よしんば、二人が聞いていなくても、どういう経路で二人の耳に入るか、分かったものではない。
どうするか、と思っていると、急にこちらへいそいそと歩み寄ってきた内官が、「殿下」と耳打ちした。
「大司憲様が、お目通りを願って表においでですが」
「そうか。すぐ行く」
頷くと、内官は一礼してその場を離れていく。それを見送って、ホンウィは永豊君に視線を戻した。
「ヒョク兄。会食が終わったら、康寧殿まで来てくれ。あとで話そう」
ここで、空気の読めない者なら、一緒に行ってもいいだろう、とか何とかゴネるモノだが、永豊君は余計なことは一切言わなかった。
「分かった」
小さく頷いて、彼は自身の席に戻っていく。それを見届けることもなく、ホンウィも立ち上がった。
「皆様。会食の途中で恐縮ですが、わたくしは中座させていただきます。姉上、義兄上、叔父上、叔母上方には、心行くまで父との別れを惜しみ、語らってくださいませ」
それでは、と皆に一礼して、その場をあとにする。
首陽とはこの会食の間、口を利くどころか目も合わせられないままだった。
***
「殿下」
勤政殿を出ると、大司憲ことキ・ゴンが頭を下げる。
「納棺の儀の最中、お呼び立てしまして、申し訳ございません」
「いや、構わぬ。もう会食に移っていたゆえな。思政殿に行こう。そちらで報告を聞く」
「はい」
足早に歩き出すと、自然ホンウィ付きの内官と女官がぞろぞろとそのあとに続く。
勤政殿の周りは、主立った親類や王族の従者たちでちょっとした人だかりができていた。ただ、全員ここで待たせておくと、また大変なことになるので、一部の者を除いては慶会楼で待機させてあるはずだが。
程なく思政殿へ辿り着いたホンウィは、人払いを命じると、コンだけを伴って執務室へ入った。
「それで、どうであった」
執務机の前に着く間も惜しく、コンを促す。
「は。ご報告いたします。本日、朝一で議政府を検めましたが、先王殿下の亡くなられた当日、ファンボ・イン殿もキム・ヂョンソ殿も、終日……というか、先王殿下ご危篤の報せが届いた夕刻まで、議政府におられたようです。席を離れる時は、用足しに出る間くらいだったと確認が取れました」
「……そうか……」
これで、インとチョンソの証言は事実だと分かったことになる。
「では、本日中に領議政と左議政は放免しろ。問題は、都承旨だが……」
都承旨が言ったことは嘘だったが、同時に首陽の言ったことも嘘だったと判明した。
これは、何を意味するのか。
「殿下」
「ん」
「恐れながら、わたくしの推測を申し上げてもよろしいでしょうか」
「……何だ」
「都承旨は、何か、先王殿下のご逝去に関わっているのではありますまいか」
「……何故、そう思う」
「あの者が、何も関わっていないのなら、事実を偽る必要がないからです。もしや、その場にいたのは、都承旨本人やも知れません」
まさか、と言おうとしたが、口から実際にそれが出ることはなかった。
薄々、そうではないかと思っていたことだからだ。
(……じゃあ、まさか……まさか、首陽叔父上も……)
しかし、その先を、はっきりとした形にすることができない。
昨夜、姉の腕の中で散々泣いた。泣いて泣いて、頭を空にして、今日になったらまた嫌な現実ともきちんと向き合おうと思っていた。
けれど、いざとなったら、どうしても感情がそれを拒否する。
(だって、信じられない)
父が亡くなったあと、「お前は一人じゃないよ」と励ましてくれた首陽。あの時だけでなく、その前もいつも優しかった。
武術も、あの叔父が最初の師だった。
女性寄りの容姿には劣等感があったホンウィは、いつだったか、首陽のような筋骨たくましい男になりたい、と本人に言ったことがある。叔父上が憧れなんだ、とかなり真剣に訴えたら、大爆笑された。
『何で笑うんだよ、叔父上っ。俺はまじめに』
『まあ、落ち着け。別にバカにしたわけではない』
クックッ、と笑いの残滓を引きずりながら、首陽は大きな掌でホンウィの頭をポンポンと優しく叩いた。
『いいか、ホンウィ。確かに私のような容姿なら、相対した敵は必ず身構えよう。時には戦わずに相手を退けられることも、ないわけではない』
『だから何だよ。それ、結局自慢か?』
完全にお冠になって、唇を尖らせたホンウィに、首陽は膝を突いて目線を合わせた。
『そうではない。それは裏を返せば、相手の油断をまったく誘えないことを意味するのだ』
『え』
『お前ならどうだ? もしも武術の試合で、対戦相手として出てきた者が、一見少女のように可憐で、一捻りで倒せそうだと判断したら、絶対に必要以上に身構えぬと思わぬか』
『う、それは……』
首陽の言う通りかも知れない。ホンウィは、早々《はやばや》と反論を失って俯いた。
『どんな容姿だろうと、戦場に於いてはそれがどう作用するか分からぬモノ。肝心なのは、どんな者と相対そうと、絶対に油断せぬことだ。見た目など、些末なこと。もし、見た目に惑わされて負けたなら、その者が未熟という事実に過ぎぬ。分かったな』
大きな掌で、頭をクシャクシャと撫で回される感触が心地よかった。当時のホンウィは「うん」と素直には言えなかったけれど、肩を竦めて自然顔を綻ばせていた。
(……まさか、あの叔父上が)
まさか、父を殺すのに荷担したというのか。
まさか、まさか――その言葉だけが、脳内をグルグルと回る。
(嘘だ、そんなこと)
「……殿下」
混乱に陥る寸前、そう頭上から声が掛かる。ホンウィは、弾かれたように顔を上げた。
視線の先には、首陽と同様の筋骨隆々な――しかし、首陽よりずっと年を取って見える厳つい顔の男が、心配げにこちらを見下ろしている。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、平気だ」
いつの間にか詰めていた息を吐き出して、ホンウィは執務机の前の椅子に臀部を落とすように座った。
頭が白くなっている。昨日、泣き喚く過程でそうなったのとは別種の白さだ。考えなければいけないのに、何から考えればいいのか分からない。
(いや、違うな。考えたくないんだ)
クス、と自嘲の笑いを零して、前髪を掻き上げる。
父が亡くなってから、初めて逃げたいと思った。即位してまだ、四日しか経っていないというのに。ここで逃げ出すなんて早すぎるだろうと揶揄する自分がいるのも確かなのに、それでも逃げ出したかった。
「……殿下」
コンの呼び掛けさえ、もう煩わしい。
「……ご苦労だったな。今日は下がってくれ」
辛うじて、それだけを絞り出す。
しかし、そんなホンウィを、コンは放っておいてはくれなかった。
「分かりました。では、下がる前に、不躾ですが、昨日と同じ質問をさせていただいてよろしいでしょうか」
「……何の話だ」
「何をお悩みですか?」
「……あんたには関係ないだろ」
覚えず、素の口調が飛び出す。取り繕う余裕がないのは、父が亡くなった時と同じだったが、理由がまったく違う。
「都承旨が偽りを申していたということが、それほど衝撃でしたか」
「ああ、そうだ。って言ったら信じるのか」
「いえ。多分、そうではございますまい」
「じゃあ、何だよ。あんたは俺が何を悩んでるか聞いて、どうしようってんだ」
「どうするかは、聞いてみなければお答えいたし兼ねます」
ホンウィは、苛立った。
叔父の倍は生きている人間を相手に口で勝とうなど、叔父を相手にするより難しいのは分かっている。
それでも、今は立ち去って欲しい。
「いいから下がれよ」
「わたくしでは、お力になれませんか」
ついにホンウィは癇癪を起こした。
「そんなの知るか!」
机へ掌を叩き付けて立ち上がる。
「じゃあ訊くけどな、俺は何を根拠に、昨日今日知り合ったばっかのあんたを信じりゃいいんだよ!」
しかし、静かに「どういう意味でしょう」と問い返され、沸騰した頭が急速に冷えていく。
「……あんたには分かんねぇよ」
力なく言って、ホンウィは椅子へ逆戻りした。
「何が、でしょう」
「……それをあんたに説明していいのか、それさえ俺には判断できない。考えたことあるか? 物心付いた時からずっと信じてた人間が、自分を裏切ってるかも知れないって気付いた時の気分」
ホンウィが何を言っても即座に答えを返していたコンが、瞬時沈黙した。
「……悪い。今日はもう帰ってくれ」
ポツンと冷えた声を投げる。コンは、沈黙を続けつつ、尚もその場に佇んでいたが、やがて、「畏まりました、殿下」と返した。
「ただ、これだけは申し上げます。わたくしは、いつでも大司憲としての職責をまっとういたします。それは、官吏の不正を正すことです」
淡々とした声音に、ホンウィはノロノロと視線を上げる。
厳つい顔が、今は寂しげな微笑を浮かべていたのが目に入り、思わずドキリとした。
「こう申し上げては不敬と取られるかも知れませんが、わたくしは殿下の御為ではなく、この国の民が役人に虐げられぬ為に、司憲府はあると考えております。ゆえに、その為に必要と思われたら、いつでもお呼びください。殿下が公正な裁断をなさる限り、お力になります」
言うだけ言ってしまうと、コンは深々と頭を下げる。
ホンウィは、何も返すことができないまま、コンの後ろ姿を見送った。
***
(……最悪)
ややあってから、康寧殿の自室へ戻ったホンウィは、だらしなく長座布団の上へ寝そべっていた。
翼善冠は、やや離れた床の上に転がり、今日はきちんと女官に結って貰った髷が剥き出しになっている。
感じているのは、自己嫌悪以外の何でもない。
もう何かするどころではない。
もしかしたら、父の死に関係したかも知れない叔父のこと、八つ当たりしてしまったコンのことで、脳内が散らかり放題だ。
何もしたくないし、考えたくない。本気でどこか遠くへ行ってしまいたい。
可能なら、司僕寺辺りから馬を掻っ払って、馬の足の向くまま駆けていきたい気がした。
そうしてゴロゴロうだうだと悩み悶えた時間が、どのくらいだったのか。
「こら、ユウォル」
字で呼び掛けられて、無意識に目線を上へ向けた。
「……何だ、ヒョク兄か」
外で生活するには、王子名や『叔父』と呼ぶと悪目立ちするので、普段はこう呼んでいる。
昔、宮殿の外で暮らすことが決まった際、養母である惠嬪が、ホンウィを心配して、自身の末息子を一緒に外へ送った。
宮殿外で暮らしながら、叔父である永豊君と兄弟同然に育ったのは、そうした事情からである。
「何だ、じゃないだろ。さっきから朴尚宮が呼んでるのに……反応ないからぶっ倒れてんじゃないかって青くなってたぞ」
「うん……」
呼ばれているのは耳に入っていたが、何となく脳内を素通りする感じだった。自分のことでありながら、自分のことだと認識できなかったのだ。
「……で、何しに来たんだよ」
「おいおい、そりゃないでしょ。会食終わったらここに来てくれって言ってたの、誰だよ」
「ああー……言ったな、そういや。遠い昔に」
「どういう冗談かな……ま、いいや。取り敢えず、パク尚宮にはダイジョーブだって言ってくる」
さっさときびすを返す永豊君を、見送るともなしに見送りながら、ホンウィはごろりと寝返りを打った。
はあ、と、今日も何度目かで溜息を吐いた時、永豊君が戻ってきた。
「……それで?」
「……へ?」
「へ、じゃないよ。何があったか話してくれるんだろ?」
「んー……」
暖簾に腕押し的な返事を繰り返すホンウィに、今度は永豊君のほうが苛立った溜息を吐いた。続いて、ドン、と音を立てて座り、ホンウィの前にあった文机を脇へどける。
「じゃあ、質問を変える。更に、何かあっただろ」
「……更にって」
「さっき、大司憲が来たんだろ? 彼と何を話した?」
「……放っといてくれない兄ちゃんキライ」
「あー、キライでも何でも結構だよ。でも、いつまでそうやってウダウダしてる気だ? それで解決するんならいくらでもそうしてていいし、放っといてやるけど」
ホンウィは、ついに沈黙した。
永豊君の言うことは正しい。いつまでもここでゴロゴロ転げていても解決はしないし、事態が前に進むことはない。
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「どうすりゃって」
「なあ、どうしたらいい?」
「だから何を」
「首陽、叔父上が……」
「首陽兄上?」
永豊君が首を傾げる。しかし、それはホンウィの目に入っていない。
涙が滲みそうになって、右腕で目を覆った。
唇を噛み締める。
口に出したら、もう逃げられない。真実を追及するしかない。けれど、見たくない。
結果が目を背けたくなるような事実だったとしたら、考えたくもないことだとしたら――そう思ったら、口にするのも怖い。
逡巡による沈黙が、どのくらい続いただろう。
「……ユウォル」
静かな声と共に、瞼の上へ載せた腕に、そっと温もりが触れる。
「言いたくないなら、言わなくてもいい。でも、それじゃ誰もお前を助けてくれないぞ?」
永豊君の手に促されるように、そろそろと腕を目の上から下ろす。
「俺も、助けてやれない。何を思ってるか、口に出してくれないと俺には分からない。俺だけじゃなく、ほかの誰にもな」
「ッ、……」
彼の目を見られなくて、視線を脇へ逸らす。
瞬きと共に、目に溜まっていた滴が一筋、こめかみを滑った。
「首陽兄上が、どうかしたか?」
「……まだ、分かんねぇよ。でも」
「でも?」
「……叔父上が……関わってるかも、知れない」
「何に」
「父上は……病死じゃないみたいなんだ」
「え、何。輝之兄上が病死じゃないって」
フィジとは、ホンウィの父の字だ。最初から世子になることが決まっていた父には、大君としての名がない。
「それと首陽兄上に何の関係、が……」
口に出す内に、永豊君にも何かが推測できたらしい。徐々に顔色が変わる。
「ま、さか……まさか、だろ? だって……」
ホンウィは、鈍い動作で起き上がった。
床へ設えられた棚の奥に隠しておいた、診療日誌を取り出して永豊君に差し出す。殺害された医女の一人・カリョンが付け、友人に託したものだ。
「見てみろよ」
永豊君は、恐る恐るといった表情でそれを受け取り、包みを解く。
取り出した冊子をめくった彼の顔が、今度こそ強張って青ざめた。
すべての冊子を見終えると、彼はやがて、顔を上げる。
「……でも、これには首陽兄上の名なんて、どこにも書いてないぞ」
「だから、まだ推測だって言っただろ。だけど……」
「……どうしてお前はそう思ったんだ」
「……都承旨の見たものを、叔父上が話してくれた。けど、都承旨本人の証言と叔父上の話にズレがあったんだ」
ホンウィは、父の死後にあったこと、調べが付いたことを、掻い摘んで永豊君にもしてやった。
そして、都承旨の証言が虚偽だと分かった時に、予測してしまったことも。
「……信じたくない。首陽叔父上は、ずっと優しかった。いや、過去形じゃない、優しい人だ。父上とだって仲がよかったのに、こんなこと……」
「それだって、都承旨がお前に嘘を言ってるかも知れないだろ」
「だけど」
「ちゃんと調べないでどうするんだよ」
言われて、ホンウィはハッとしたように瞠目する。
「ここで思い込みで悩んでる場合か? 首陽兄上を信じたかったら尚更調べろよ。首陽兄上はフィジ兄上のご逝去とは何の関わりもない。フィジ兄上が病を利用されて殺されたのが事実だとしても、首陽兄上がフィジ兄上を殺すわけがない、そう思いたいんだろ? それを証明する為には、調べるしかないじゃねぇか」
「ヒョク、兄」
「確かに、司憲府の役人の言う通り、御医の治療は怪しい。ここにこんな記録まであるんだから、そりゃ確実だ。だけど、御医に訊いてみなけりゃ、動機だって、黒幕がいるのかだって分かるわけがないだろ。黒幕がいる確率も限りなく高過ぎるけど、その黒幕が首陽兄上だって証拠がどこにある? 安平兄上のことにしたって同じだ。調べてもないのに、どうしてそうだって言えるんだ」
ホンウィは、顔を強張らせ、唇を引き結んだ。
やはりこれも、永豊君の言うことに理がある。
「分かったら動け。まあ、ここまで言っても、お前がまだイジケてたいってんなら今度こそ放っとくけどな。俺は一人で勝手にやる」
「ヒョク兄!」
突き放すように言い捨て、腰を上げた永豊君に、ホンウィは引っ張られたように立ち上がった。
「……一緒にやる」
すでに背を向けていた永豊君は、こちらに顔だけ向けて、クスリと笑う。
「……いいのか? お前の見たくないものを見ることになるかも知れねぇのに」
「そうはならねぇ。俺は首陽叔父上を信じる」
顎を引いて、半ば永豊君を険しい眼差しで見据えた。
しばし、睨み合うような激しさで互いの目を見交わした末に、永豊君が不敵に唇の端を吊り上げる。
「……やっと、いつものお前になったな」
行こうぜ、と手を振りきびすを返す永豊君に、ホンウィは決然と頷いてあとに続いた。
©️神蔵 眞吹2018.