第七章 新たな疑念
「では、そなたにその情報を伝えたのは誰だ?」
え、と呟いたきり、メンギョンは表情を凍り付かせてしまった。幾度も瞬きを繰り返し、目線を落ち着きなく右往左往させている。
しかし、ホンウィは今度こそ追及の手を緩めなかった。
「聞こえなかったのなら、もう一度言ってやろう。そなたに、領議政と左議政、それに御医が思政殿の回廊で談笑していたと伝えたのは誰かと訊いている」
「そ、れは……それは、その……」
またしても、メンギョンの視線が泳いだ。ある意味、分かり易い男だ。
「あの……き、記憶にございません」
「記憶にない?」
ホンウィは、ふん、と鼻を鳴らした。
「たった三日前の朝に、世間話をした相手も忘れるほど忙しいのか。ましてや、その日は日常の延長ではなかった。先代王殿下が亡くなられた日だぞ。それなのに、覚えていないと申すのか」
「それは……あの」
メンギョンは再度、左斜め上を見る。
「し、新入りでして」
「新入り?」
「はい、そのようです。見慣れぬ顔でした」
「左様か。では、大司憲」
それまで蚊帳の外だったコンに声を掛けると、彼は「はい、殿下」と言って顎を引いた。
「急で悪いが、今から出掛ける。まだ外出禁止には引っかからない刻限であろう?」
「……左様ですが……どちらへ」
「吏曹だ。人事の担当部署はあそこだからな。父上が亡くなられた日を挟んで前後三、四日以内に、宮中に新しく人を入れたかどうかを調べる」
「承知いたしました」
「掌令」
「はい、殿下」
「調べが付くまで、都承旨を、そうだな……含元殿にでも拘束しておいてくれ」
「殿下!?」
メンギョンが、顔色を変えて叫ぶ。
「ハ、含元殿ですか?」
ポフムも、さすがに訊き返した。無理もない。
含元殿は元々、祖父・世宗が、仏事を開く為にと建立させた殿閣なのだ。
「ああ。ほかに空きがないから仕方がない。仏事を開く場と言っても、正式な仏堂や祠堂ではないからいいだろう。資善堂は医官で塞がっているしな。言うまでもないと思うが、警備は厳重にするように」
ポフムは、何とも言えない表情で瞬時黙り込んだが、結局「畏まりました、殿下」と言って一礼する。収まらないのは、メンギョンだ。
「あっさり畏まるな、掌令! 殿下、これは不当な拘束でございます!!」
メンギョンは、ポフムとホンウィの間で、忙しく顔を振った。しかし、ホンウィは取り合ってやるつもりはない。
「では、都承旨以外の皆に問う。私は何か不当な命令を下したか?」
すると、一瞬、メンギョン以外の者たちが全員、自らの手近にいたものと目を見交わした。次いで、ホンウィのほうへ視線を戻す。
「いいえ、殿下」
「まったく不当ではございません」
口を開かなかった者も、一様にその言葉に首肯した。
「では殿下。参りましょうか。掌令。都承旨のほうは頼むぞ。すぐに兵曹から、警備の為の応援を寄越すよう言っておく」
「承知いたしました、大司憲様」
「殿下! わたくしは誓って嘘は申しておりません!!」
ポフムとウォヌィに両脇をがっちりと固められたメンギョンは、唾を飛ばして叫んだ。
「左様か? ならば別に、慌てることはないではないか。拘束すると言っても、念の為だ。そなたの言が誠だという確認が取れれば、すぐに釈放となる」
クスリと小さく笑いながら、ホンウィは椅子から立ち上がる。
「それとも、何か? 確認されてはマズいことでも?」
途端、メンギョンは怯んだように唇を引き結んだ。
ホンウィは、メンギョンの隙に乗じるように畳み掛ける。
「案ずるな。私とて、先代殿下が重用していた大臣を信じないわけではない。あくまでも念の為だ。断っておくが、これはそなたの為でもあるのだぞ? 疑惑は残さぬほうがよいと思うがな」
メンギョンは、ただもう唇を噛むことしかできないらしい。
本当のことを言っても、シラを切り通しても、この場は自分に不利にしか転ばないと理解できているのだろう。
「最後に、もう一度訊いてやろう。都承旨」
ホンウィは、ポフムたちに拘束されたメンギョンの前へ歩を進めた。
「そなたは、領議政たちと御医が談笑しているのを、その目で見たのか? それとも、人伝に聞いただけか?」
その場が静寂に包まれ、皆の視線がメンギョンに集中する。
メンギョンは、やはり伏せた瞼の下で、目線をウロウロとさまよわせ、やがて口を開いた。
「み……見ました……この目で……確かに……」
彼がそう言うなり、チョンソとインが色めき立つ。
と言っても、チョンソは、例によって静かに、メンギョンを睨み据えただけだ。「殿下!」と即時、叫ぶように反駁したのはインのほうだった。
「先にも申した通り、我々はその頃議政府にいました! それこそ、天地神明に誓って誠でございます!!」
「領議政と左議政は、次に私がいいと言うまで黙っていてくれ。話が進まぬ」
一見、二人の言い分を無視するような対応だが、チョンソとインは、息を呑んだあと、下腹部に手を重ね、そろって頭を下げた。
それを確認して、ホンウィはメンギョンへ視線を戻す。
「都承旨」
「……はい、殿下」
「では、くどいようだがもう一度訊くぞ。後腐れのないようにする確認だから、訊くことにだけ簡潔に答えてくれ。分かったな」
「承知、いたしました」
「父上が亡くなった日の午前中、そなたがどこで何を見たのか、そなたの言葉で申してみよ」
すると、メンギョンはやはり目を左右へ落ち着きなく泳がせ、合間に左側の宙をじっと見つめながら口を開いた。
「思政殿の……南側の回廊で……領議政様と左議政様……それに、チョン御医が談笑しているのを、見ました」
「ほかに気付いたことは?」
「ほかには……チョン御医が、時折……医術書らしきモノを確認、していて……」
「彼らはどのくらいの間話をしていたか、分かるか?」
「ええ、その……二刻〔約三十分〕ほどでしょうか」
「その間、そなたはずっと彼らを見ていたわけか」
「……そういうことに、なります」
「話し掛けもせず?」
「……はい、殿下」
その間中、メンギョンの目の動きは落ち着きのないままだった。本人はまったく意識していないだろうが、瞬きもかなり多かった。
「どうしてそなたはそこを通り掛かったのだ」
「……いえ、その……特に何があったわけではございません。ただ……御医を捜して宮中を歩いていただけで」
「ふぅん。それで、目的の御医を見つけ出して、領議政たちと談笑する彼を眺めて、そのあとは?」
「いえ、あの……中々話が終わりそうにありませんでしたし、わたくしもほかに用があったので、話はせずにその場を離れました」
「じゃあ、実際には、領議政たちが二刻以上話をしていた可能性もあるわけだな」
「え、あ、はい……左様です」
ホンウィは、顎を引いて、手を口元に当てた。
だとしたら、承政院でメンギョンの当日の行動を洗っても、無駄かも知れない。長時間、彼が仕事場を離れていたとしたら、その間の彼の行動が、今の話と違っていても、確認は取れないことになる。
(かと言って、今から宮中を駆けずり回って目撃証言を捜すのも……)
難しい、と思い掛けて、ホンウィは内心ですぐに首を横に振った。
必要ならやるしかない。そうして、一つずつ可能性を潰していくしかないのだ。
それが、公正な処断を行う道でもある。
状況証拠は、主治医班――特に、チョン・スヌィとピョン・ハンサン、チェ・ウプが限りなく黒いと示している。
けれども、王が寿命で死んだ場合でさえ、医官の責任を問うのがこの国だ。
まして本当に、これは限りなく可能性が低いと言わざるを得ないが、万に一つ、スヌィたちの主張が正しかったら、とんでもない冤罪を生むことになり兼ねない。
それに、スヌィたちが黒いと断定できたとしても、そうしたらチョンソの言う通り、動機が分からない。
動機を知る為には、本人たちに話して貰うしかないが、拷問で得られる答えなんて、取り調べる側の誘導に過ぎないことがほとんどである。そんなモノは、真実でも何でもない。ただの捏造だ。
吐息を一つ挟んで、ホンウィは改めて口を開く。
「では、最後に一つ問おう。都承旨」
「はい、殿下」
「その場にいたのは、領議政と左議政、チョン御医だけだったのか?」
「左様です」
思わず瞠目しそうになって、慌てて俯き直す。
口を覆って、「そうか。分かった」と言う間に、一つ深呼吸する。
「……では、大司憲」
「はい、殿下」
「言うことがコロコロ変わって悪いが、行き先変更だ」
「どちらへ」
「議政府に向かう。まだ残っている者もいるだろう。領議政たちの証言の裏取りだ」
「承知いたしました。して、都承旨は」
「領議政たちの言葉の正否を確認してから、沙汰を決める。掌令。含元殿へ連れて行け」
「畏まりました」
「殿下! わたくしは無実でございます!!」
「無実かどうかはこれから判明するだろう。領議政、左議政。そういうわけだから、そなたたちも裏取りが済むまで含元殿へ籠もってくれぬか。まだ疑惑が晴れていないのは、そなたたちも同じだ。都承旨だけ拘束では公平性を欠くゆえ、理解して欲しい」
インはまた、何か言おうと、口を開き掛けた。しかし、それをチョンソが手を挙げることで制する。
「承知いたしました、殿下」
厳かに一礼するチョンソに、「すまないな」と一言詫びる。するとチョンソは、その厳格そうな顔に淡い笑みを浮かべた。
「勿体なきお言葉、傷み入ります。ですがどうか、この老体のことはご心配なく。お心のままになさってください」
「……ありがとう」
ホンウィも、不敵に唇の端を吊り上げると、執務室をあとにする。
一時幽閉が決まったチョンソとイン、メンギョンと、彼らを含元殿まで連行するポフムとウォヌィ、それから、議政府へ共に向かうこととなったコンの全員が、ホンウィに続いた。
***
結果的に、議政府の聴取は仕切り直すこととなった。
退勤まで残り半時辰〔一時間〕を切っていた為、ほとんどの官僚が帰宅したあとだったのだ。
「殿下。明日の聴取はどうぞ、わたくしにお任せくださいませ」
「うん……」
帰り道をコンと歩いていたホンウィは、コンの言葉を上の空で聞いていた。
「……殿下?」
「ん」
ふと立ち止まったコンに、その時ようやく気付く。
「……ああ、悪い。何か言ったか?」
「殿下。不躾ながら、お訊ねしてもよろしいでしょうか?」
薄暗くなった周囲に、コンの困ったような顔が溶け込んでいるように見えた。
「何をだ」
「何か、お気に掛かることでも?」
それは、核心を的確に突いた問いだった。
「……さすが、年の功ってトコか」
「恐れ入ります。それで、何をお悩みで」
「うん……」
答えにならない声を返して、ホンウィは止まっていた歩みを再開する。
どう言ったらいいか、分からない。
先刻の、メンギョンとのやり取りで、ホンウィの胸には新たな疑念が芽生えていた。
メンギョンは、思政殿の回廊で見た者の中に、ある人物の名を挙げなかった。目撃したのは、チョンソとイン、それにチョン・スヌィだけだと。
(……じゃあ、何で首陽叔父上はあの時、安平叔父上の名を出したんだ? メンギョンに聞いたんじゃなかったのか)
確かに首陽叔父は、メンギョンから聞いたと言った。だのに、メンギョンははっきりと、見かけたのは三人だけだと断言している。
(……何で……)
メンギョンが嘘を吐いたのだろうか。いや、そうではない。
チョンソとインの言うことが正しいと証明されれば、早晩、メンギョンが虚偽の発言をした事実は確定する。
メンギョンが嘘を言ったのなら、首陽も騙されていることになるが、その首陽は聞いていないはずの安平の名を出した。これは、一体何を意味するのか。
まさか、という思いを、ホンウィは懸命に無視しようとした。けれど、そうしようとすればするほど、疑念は却って深くなる一方だった。
黙ってしまったホンウィに、コンもそれ以上話し掛けようとはしなかった。
光化門の前まで来て、ホンウィはコンと別れた。
光化門を抜けて宮殿の敷地へ戻ると、ホンウィはまっすぐ勤政殿へ足を向けた。
勤政殿は通常、王が文武百官から朝賀の挨拶を受けたり、明国からの使臣を接待したりなどの、国の大きな儀式に利用される場所だ。
今は、亡くなった父の遺体を安置してある。
思えば今日は、一度も父の顔を見に行っていなかった。
宮殿の外で育った関係上、父と何日も会わずに過ごすことなど、これまでは珍しくもなかった。しかし、明日はもう納棺だ。
その時に、布と布団でしっかりと遺体をくるんでしまう為、納棺が済んでしまうともう顔を見られなくなる。
こんなに早く別れが訪れるなら、もっと一緒に過ごすように心掛ければよかった。
(……今更言っても、仕方ねぇけど)
無意識に自嘲の笑みを浮かべながら、勤政殿の前まで来ると、その前に立っていた数名の軍士が、持っていた槍を一斉に引いて頭を下げた。
更に、建物の前には、生前の父に仕えていた内官と女官が控えている。
だが、父に仕えていた者だけにしては数が多い。
沓脱石の上には、女性ものの靴が二人分置かれていた。
「殿下」
先頭に立っていた内官が、恭しく頭を垂れる。
「誰か、いらしてるのか」
親戚は皆、ホンウィより年上の者ばかりだから、自然こういう訊ね方になる。
内きょうだいは、生きているのは同母・異母の姉が各一人ずつだ。ほかにも、異母の姉弟妹が計四人ほどいたのだが、皆赤子か幼年の内に早世してしまった。そんなわけでホンウィは、実の姉弟の中でも末っ子である。
「はい。敬惠慈駕様と、敬淑翁主様がおいでです」
「そうか」
ホンウィは頷いて、木靴を脱ぎ、中へ入る。
広々とした板の間の奥に、まだ布団に寝かされた父の遺体がある。その手前に、白いチョゴリとチマに身を包んだ女性が二人座っていた。
「……殿下?」
先に振り返ったのは、敬惠姉だ。
まだ扉が閉じる前で、内官や女官たちの手前、そう呼んだのだろう。
「姉上」
返事をして、足早に三人の元へ近付く。
小さな音を立てて扉が閉じると、そこは蝋燭の明かりだけが光源となる。
歩み寄る間に、姉たちは立ち上がって、一礼した。
「敬惠姉上も敬淑姉上も、座って」
「ホンウィ」
二人の姉に、代わる代わる抱き締められ、姉弟の挨拶を終えると、ホンウィは先に腰を下ろす。
「もう大丈夫なの? ホンウィ」
続いて座るなり、ホンウィの手を取った敬惠が、先に口を開いた。
逆卵形のすっきりとした輪郭に、切れ上がった目元、綺麗に通った鼻筋の下に桜の花弁――李氏王朝始まって以来の、絶世の美貌を謳われる彼女の目が、今は涙で潤んでいる。
「何が?」
ホンウィは、どうにも複雑な気分になりながら敬惠を見つめ返した。
男としては残念なことに、この五つ上の姉の顔は、自分とそっくりなのだ(自分のほうが下なのだから、正確にはホンウィが姉に似たと言うべきだろうが)。
「お父様が亡くなってから、そなたは一度もここへ顔を見せなかったじゃない」
詰るように続けたのは、敬淑だ。
敬淑は、ホンウィより二つ上の十二歳で、まだ嫁いでいない。どうも、父の娘たちは皆、晩婚傾向のようだ。
敬惠は嫁いでいるが、結婚したのは祖父が亡くなる直前のことだった。十歳前後で縁付く王室において、王女が十四歳まで独身というのは、晩婚扱いである。
「ごめん。ちょっと……色々忙しくて」
「あ……そうよね。わたくしこそごめんなさい。ホンウィはもう国王なのに」
頬に触れた敬淑の掌の温度を感じながら、覚えず苦笑し、小さく首を振った。
何に忙しかったのだろう、と自嘲気味に自問する。国事でないことは間違いない。自分の感傷を処理するのと、父の死の真相を調べるのに手一杯だったのだ。
いくらそうであったからと言って、父との最期の別れを、おろそかにしていいはずがないのに。
「……ごめん。姉上や叔父上、叔母上たちに葬儀の色々押し付けて」
重ねて詫びると、敬淑がひどく慌てたように、ブンブンと顔と両手を同時に振った。
「そんな、そんなつもりじゃなかったのよ?」
「いいんだ。そんなつもりでも、俺は」
「ホンウィ」
「ところで、姉上たちは、今日ずっとここに?」
話題を転じると、敬惠と敬淑が瞬時、互いに顔を見合わせる。
「……概ねはね」
口を開いたのは、敬惠のほうだ。
「明日は納棺の儀があるでしょう。今日でお父様のご尊顔を拝せるのは、最後だから」
敬惠に釣られるように、ホンウィも父のほうへ視線を移した。
父の遺体は、白い布団に横たわっており、今は顔に布が掛かっていない。
「……そうだな」
二日振りに見た父の顔は、やはりただ眠っているように見えた。揺すったら起きてくれるのではないか、などと馬鹿げたことを考えてしまう。
「ねぇ、ホンウィ。今夜は、ここで一緒に休まない?」
「え」
「さっき、ランジュとも話してたの。もう最後の日だから、朝までお父様と一緒にいましょうって。ね」
ランジュ――敬淑も小さく頷いて、ホンウィを見る。
「もうそろそろ、女官がここへ布団を運んでくるはずなの。ホンウィの分も追加で持ってきて貰いましょ」
「おいおい、いいのかよ。敬惠姉上は帰らなくて」
「わたくし?」
敬惠がキョトンと目を瞠る。
「いやだわ、ホンウィ。わたくし一人、除け者にでもするつもり?」
「違う違う」
ホンウィは、小さく笑って掌を胸元で左右に振った。
「でも、義兄上が待ってるんじゃないのか」
すると、敬惠はまた少しの沈黙を挟んで、微笑する。
「大丈夫よ。ウチの旦那様は心の広い、理想の夫なの。お父様と納得いくまでお別れをして来いって言ってくださったわ」
「はい、そりゃあゴチソウサマ。まあ、義兄上が実家にお泊まり納得してんならいいけど」
「何よ、その言い方」
「もう、お姉様もホンウィも……」
敬淑が、何か言い掛けたところで、「失礼いたします」という言葉と共に、扉が開いた。
「寝具をお持ちいたしましたが……」
外からの逆光で見え辛かったが、尚宮〔女官の最高位〕らしき女官が先頭で頭を下げ、後ろに寝具を持った内人〔尚宮の下で業務をこなす女官〕を従えているのが見える。
「ああ、ありがとう。こちらへ敷いて貰えるか?」
敬惠が立ち上がって、今まで自分たちが座っていた、父の脇を示した。
敬淑とホンウィも、姉に倣って立ち上がった。
「殿下の寝具もこちらへお持ちしてくれ。今夜は姉弟三人でお父様にお別れをすることにしたから」
「え」
尚宮は、目を瞬いて、俯いた。
「ですが……」
「私がそうしたいと言ったのだ。明日はもう、納棺だしな」
敬惠に援護するように、ホンウィが一歩前に出る。
「殿下」
「頼む。今夜一晩だけ、大目に見てはくれぬか」
尚宮は、しばし迷うように無言で俯いていたが、やがて「承知いたしました」と言って深く頭を下げた。
「その代わり、内禁衛から人を寄越すように手配いたします。よろしゅうございますか」
「いや、構わぬ。自分でそのように軍士に頼もう」
ホンウィは、無言で頭を下げた尚宮と共に、一度表へ出た。軍士に内禁衛から警備の人員を呼ぶよう申し付けると、勤政殿内へ引き返す。
布団を敷き終えた内人たちを見送って、三人は布団の手前に改めて腰を下ろした。
「ところでホンウィ」
「ん?」
「今日は、何があったの?」
「えっ」
思わず目を見開くのと、敬惠の手が頬に伸びるのは同時だった。
「そなた、疲れた顔をしているわ」
無意識に逸らした視線の先には、敬淑がいる。どこを見ればいいか分からなくなった目を伏せて、ホンウィは肩を竦めた。
「……参ったな。俺、そんなに分かり易い?」
「身内にはそうね」
言ったのは、敬淑だ。
「でも、それでいいんじゃない?」
「ええ。息を吐く場所がなければ、その内倒れてしまうわ」
(身内には、か)
昼間も、首陽と錦城に、似たようなことを言われたのを思い出す。
(……首陽……叔父上……)
そうして、考えなければいけないことに思考が戻る。
できることなら、考えずにいたい。考えれば、嫌な答えに辿り着いてしまう。
それがすでに分かっていることが、もう嫌だった。
「……姉上……」
「ん?」
目を上げると、小首を傾げた姉の黒曜石と視線が絡む。
無意識に手を伸ばし、姉の肩にしがみつくようにして抱き付いた。頭にかぶった翼善冠が脱げ、適当に纏めて突っ込んだ髪の毛が流れ落ちる。
「ホンウィ?」
「……悪い。少しだけ……こうしてて」
「ホンウィ……?」
訝しげに呼びながらも、敬惠の腕は、優しくホンウィの背に回る。瞬間、出し抜けに涙が溢れた。
「……ッ、少し、だけだから……明日になったら考える。明日になったら、ちゃんと考えて、結論出すから、だから……」
「ホンウィ」
掻き口説いて、しがみついた手に力を込めると、戸惑ったような声が耳朶を震わせる。
姉たちには、何がなんだか分からなかったに違いない。
けれど、ホンウィにも、どう説明していいか分からなかった。
決して考えてはいけないことを、考えてもみなかったことを、どう考えて処理したらいいのか、ホンウィ自身にも分からない。
(けど、今だけは、このまま)
今だけは、何も考えずにただ、姉たちに甘えていたい。
そっと頭を撫でてくれる温かい掌に、押し出されるように止まらない涙にやや動揺しながらも、ホンウィは父が亡くなってから二日振りに、人目もはばからず大声で泣いた。
©️神蔵 眞吹2018.




