第四章 惠民局《ヒェミングク》
「――ところでユウォル様」
ホンウィを案内する形で前を歩いていたポフムが、ふと顔だけ後ろに向けて口を開く。
「ん」
「惠民局の聴取のほうは、どうなさいますか?」
「ああ、そっちも今日中に行くよ。じゃあ、どうするかな」
「と言いますと?」
問われて、ホンウィは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「重ね重ね悪いんだけど、んー……漢城府か兵曹か五衛……いや待てよ。典獄署でもいいや。どっかから軍士要るだけ連れてって、主治医班を王宮まで護送してくれるか」
「どういう意味でしょうか」
ポフムが眉根を寄せたのは、無理もない。
ズルズルと官庁の名前を挙げ連ねたから、彼にはこちらの意図が見えなくなったのだろう。
ちなみに、今ホンウィが挙げた役所は、典獄署以外はどれも都の治安維持が通常業務に含まれているが、犯罪捜査を専門に行う部署ではない。街の治安維持業務だけを専門に行う官庁は、今のところ都にはなかった。
「主治医班の安全確保も急務だけど、惠民局の医女たちに話を訊くのも同じくらい急務だろ? 下手すると、検死した医女たちにも何かないとは限らねぇし」
「つまり、二手に分かれようということでしょうか」
「ご名答」
ニヤリと唇の端を吊り上げると、「何を得意げな顔をされておいでです」と、ムッツリとした声音で返される。
「……何かマズい?」
「マズいも何も! あなた様は――ッ」
何事か続け掛けたポフムは、ハタと何かに気付いたように自身の口を押さえた。
「何だよ」
ポフムは、黙ったままキョロキョロと周囲を見回した。
そこはちょうど、女性用の牢の敷地を出た所で、義禁府の役人も、遠くではあるが、チラホラと歩いているのが目に入る。
咳払いをしたポフムは、一歩ホンウィに近付く。口元に掌を当てて、潜めた声で続けた。
「……ご自分の立場をご自覚下さい。殿下は、この国の王なのですよ」
「それが何?」
「何、ではございません。仮にも国王殿下をお一人にはできないと申し上げているのです」
ホンウィは、今日何度目かで目を丸くする。
「……今まで散々一人歩きして生きてたのに、今更言われてもなぁ」
「何ですって?」
「祖父様の教育方針だよ。物心付く頃にはもう外で生活してたし」
クス、と苦笑混じりに言って、肩を竦めた。
「だから一人でヘーキだよ。じゃ、今言ったこと、頼んだぜ。護送した医官はそうだなぁ……資善堂にでも閉じ込めといてくれ。もちろん、見張りも厳重にしてな」
「チャ、資善堂ですか!?」
ポフムが目を剥いた。無理もない。
資善堂は別名東宮殿――つまり、世子の住まいなのだ。
ホンウィも、つい先日までそこに住んでいたが、王となった今、住まいは康寧殿に移っている。
「ってことで、今あそこ空いてるから。じゃ、よろしく」
色んな意味での衝撃から、ポフムが立ち直るより早く、ホンウィはきびすを返して駆け出した。
***
義禁府の門を出ると、馬はとうに片付けられたらしく、見当たらない。
こういう時、王族としての正装をしていれば、それこそ王の一声ですぐに出してきてくれるのだろう。しかし、出てきたホンウィを見た門番の軍士は、ホンウィをジロリと一瞥し、視線を正面へ戻しただけだった。
ホンウィも、吐息を一つ漏らして、仕方なく徒歩で義禁府をあとにした。
歩くことになったからと言って、別段負担には感じない。
そもそも、義禁府から惠民局までは、直線距離にして南へ六町〔約六百五十四メートル〕と少しだ。けして歩けない距離ではない。
むしろ、歩ける距離なのに輿で無精するから、両班のお偉方はブクブク太った挙げ句に、消渇症〔糖尿病〕辺りを発症して早死にするのだ。
祖父・世宗も、この例に漏れなかった。好奇心は旺盛で、お忍びで街を歩くのは好きだったが、運動は嫌いという矛盾した性格の人だった。
ちなみに、祖父の死因は、消渇症合併症に中風の後遺症が追い打ちとなったらしい。『祖父』と言っても、亡くなった時の世宗は、五十二歳とまだ若かった。ホンウィが、九歳の頃のことだ。
(……まだあれから二年しか経ってないのに……もう父上が亡くなるなんてな)
自嘲気味に内心で呟いて苦笑する。その笑みは、十歳の少年が浮かべるには似付かわしくないものだったが、ホンウィにその自覚はない。
「祖父ちゃん! あれ買ってぇ」
不意に、そんな声が耳に飛び込んできて、ハッと顔を上げる。
いつの間にか、雲従街〔商店街〕に差し掛かっていた。
王の喪に服する為、亡くなった日から三日ほど停止されていた商売が、再開されたらしい。
ただ、普段の賑わいにはまだ及ばない。けれど、通りには疎らながら、人が行き交っている。
「うん、どれだい?」
「これ!」
甘味を売っている屋台を見ているのは、老齢の男性と、幼い少年だ。祖父と孫だろうか。
――お祖父様! あれ、何?
ふと、自分も祖父に手を引かれ、初めて街を歩いた日のことが思い出された。
――あれか? あれはな、菓子を売っている店だ。欲しいか?
――え、でも、気味尚宮もいないのに……。
今より幼かったとはいえ、随分上品なことを言っていたと思うと、覚えず苦笑が漏れた。
気味尚宮とは、毒見を担当する女官のことだ。
――毒見など、庶民はしてないよ。毒殺の危険もないからな。
厳密に言えば、王宮の外でする食事に毒見は必要ないのだと、今は知っている。
記憶にある祖父の顔は、すでに朧気だ。けれど、見知らぬ祖父と孫らしい二人連れを見る内に沸いた、懐かしさと寂しさに、出し抜けに滲んだ涙を慌てて拭った。
今はもう、大好きだった祖父も父もいない。
そして、父は殺されたかも知れないという事実に、今更ながら怒りがこみ上げた。
故意に治療を失敗したかも知れないチョン・スヌィにも、彼にそれを命じた『黒幕』にも――。
(……許さない)
ギリ、と強く拳を握り締める。
父が亡くなって、これまでは悲しいとしか思わなかった。寂しくて心細くて、もう一度会いたくて――それは、たとえ叔父たちが『傍にいるよ』と言ってくれても埋められない、叔父たちの優しさでも埋めることは不可能な、風穴のようなモノだった。
だが今、出し抜けに生まれたもう一つの感情に戸惑う。戸惑うが、父が殺されたのだと認識できた瞬間に自覚した、当然の感情でもあった。
(絶対に許さない。父上を死なせた代償は、きっちり払って貰う)
止めようもなく、また一筋、頬を伝った涙を拭うことも忘れ、ホンウィは前を見据える。
チラチラと向けられる視線も気にせず、足早に惠民局へ向かった。
***
惠民局も、その日は患者が少なかった。
業務を再開したのを、知らない者も多いようだ。
ホンウィは、しばらく中を伺っていたが、やがて通りかかった医女を捕まえた。
「あのー」
「はい?」
呼び止められた医女は、こちらへ視線を向けるなり、小首を傾げた。
当然だろう。
見るからに元気そうで、尚且つ腰に刀を帯びた少年に呼び止められたのだから。
王の格好で来なかったのは失敗だったかと一瞬思ったが、即座に打ち消す。捜査過程で亡くなった医女のことなど、王が直々に訊ねに来たら、それこそ大事になってしまう。
軽く深呼吸すると、足を止めた医女を手招きした。
「何?」
相手は、ホンウィを自分より年下の、ただの少年としか思わなかったのだろう。態度がやや横柄になる。
ホンウィは、構わず口を開いた。
「翊衛司で今の殿下の護衛を務めていた、南惟月と申します。今朝、義禁府で亡くなった医女たちの検死の件で、話を聞いてきて欲しいと、殿下から申し付けられて参りました」
翊衛司とは、祖父が即位した年に設置された、世子の為の護衛部隊だ。言わば、王の親衛隊である内禁衛の世子版といったところだ。
正式な使いと思ったのか、医女の表情がまた少し改まった。
「そうなの。分かったわ。今朝検死に行った医女たちを連れてくるから、少し待ってて」
小さく顎を引いてきびすを返す。程なく戻ってきた彼女は、後ろに、医女を四名引き連れている。
ここまで医女たちを連れてきてくれた女性は、「じゃあ、私はこれで」と言って仕事に戻っていった。
「……まあ、ユウォルじゃないの。殿下のお使いだと言うから来たのに」
内、二人は知人だった。
普段、宮殿の外で生活しているので、知り合いもそれなりにいる。
「本当に殿下の使いなんだよ」
最初に口を開いた年輩の女性に、肩を竦めて見せた。
彼女たちは、ホンウィがつい先日まで世子であり、今は王に即位したということを知らない。彼女たちにとって、ホンウィはあくまで、とある元武官の家の末っ子だ。
「本当に?」
厳しい表情で再度訊ねた女性――安彩羅は、この惠民局で医女長をしている。
年齢は、五十前後に見えるが、確認したことはない。『女に年を訊くなんて、なってないわね』と返されそうだからだ。
とにかく、祖父が亡くなった時と同い年くらいなのは間違いない、とホンウィは勝手に思っていた。
「あの……」
毅然と睨み据えられると、嘘が言えなくなる。彼女は、時によって、話をしている相手にそう思わせる空気を持った女性だった。
「義禁府で……殺しがあったって聞いたもんで」
亀の子のように首を縮め、早々に白旗を揚げる。
すると、チェラともう一人の知人である魯淑希が、顔を見合わせて溜息を吐いた。
そして、チェラはきびすを返す。他の見知らぬ二人もチェラのあとに続き、スクィが「付いてらっしゃい」と顎をしゃくった。
「……いいの?」
「いいも何も、どうせ嗅ぎ回るんでしょ。その代わり、他言無用よ」
「ああ!」
パッと顔を輝かせて頷くと、スクィが呆れたような苦笑を浮かべた。次いで、彼女もほかの三人と同様、ホンウィに背を向ける。その背に、ホンウィは迷いなく続いた。
「検死の診断書よ」
チェラは、医女の執務室にホンウィを招じ入れると、何も言わないのに診断書をホンウィに差し出した。
「……俺が見ていいの?」
「そのつもりで来たんでしょうに」
返す言葉もなく、診断書を受け取る。父の死の二日後、ポフムが持ってきた報告書より大分薄い。
縦幅一尺、横幅が三分の二尺ほど〔A4サイズ〕の紙片十枚分くらいだ。
遠慮なく目を通していくが、特に目新しい情報はない。大方、自分で見たことと、ポフムに教えて貰ったこと以外は書かれていないようだ。
「ありがとう」
礼を言って、チェラに報告書を返す。
「ほかに何か……この診断書にあること以外に、気付いたことはないか?」
「気付いたこと?」
スクィが眉根を寄せ、他の二人も首を傾げた。
「何でもいいんだ。例えば、亡くなった医女に知り合いがいた、とか」
「あ、そう言えば」
「何?」
「あの子、あの中に知り合いがいるって言ってましたよね」
スクィが、確認するようにチェラを振り返る。
「あの子?」
「ああ……炫誠ね」
頷いたチェラに、「ヒョンソンって?」と訊ねた。
「羅炫誠医女よ」
答えたチェラは、表情を曇らせて続ける。
「最近、この惠民局に配属されて来たの。今日、初めて検死の仕事をしたんだけど、亡くなった医女の一人が友だったとかで、ひどく落ち込んでいたわ」
最近配属、という言葉に、妙な既視感を覚えながら、ホンウィは問いを重ねる。
「その、ナ医女に話は聞けないか?」
友を亡くしたばかりならそっとしておいてやりたいが、日を延ばすと、今は先がどうなるか分からない状況だ。コトは、先王の暗殺疑惑に関わる。
眉尻をやや下げたままのチェラを、縋るように見つめ続けると、彼女はやがてそっと溜息を吐いた。
「スクィ」
「はい、医女長様」
「宿舎へ……ヒョンソンの部屋へ案内してあげて」
「承知致しました」
「ありがとう!」
礼を述べて、勢いよく頭を下げる間に、「行くわよ」と言ったスクィはもう戸口の手前にいた。
***
「ところで、その……ヒョンソンは何で宿舎に?」
惠民局の裏手に建つ宿舎へ歩きながら訊くと、「どういう意味?」と訊き返される。
「だって、今朝は検死に立ち会ったんだろ? つまり、彼女の業務日だったってことじゃねぇか」
すると、瞬時丸くなっていたスクィの目が、呆れたように細められた。
「……あんた、まだまだガキね」
「なっ」
投げるように言われて、反射で覚えたのは反感だ。が、言い返すよりもスクィが言葉を継ぐほうが早い。
「あんたが肉親か親しい人を亡くしたら、その時ほかのことをする気になれる?」
ぐうの音も出ない。ホンウィ自身、先日父を亡くして、二日ばかりまさに呆けて過ごしていたのだから。
正直なところ、その二日の間の記憶がほぼない。
「それにあたしたちの仕事はね。ただでも集中しないといけないの。失敗は許されないのよ」
いつになく凛とした声が続いて、ホンウィは視線を上げた。
普段は、ホンウィに呆れたような顔しか向けない彼女の表情が、真剣な色を帯びている。
「どんな仕事でも、失敗すれば、多かれ少なかれ周りに迷惑を掛けるわ。ただ、あたしたちの仕事は、失敗が即患者の命に関わる。失敗したら、看ている相手を殺すかも知れないの。取り返しは付かないのよ。ヒョンソンの心情への気遣い以上に、ぼんやりしている人間は仕事に出せない。医女長様はそうお考えになって、今日はヒョンソンを宿舎に帰したんだと思うわ」
「……なあ」
「何?」
「もし……もしも、仮定の話だけど」
「何よ」
「もしも……ある病の正しい治療法を知ってて、その患者を死なせる為に逆の治療をしろって言われたら……あんたなら、どうする?」
スクィは、驚いた顔をして、足を止めた。ホンウィも立ち止まり、彼女の顔を見上げる。
「……そういう事例が、どこかであったの?」
開き掛けた唇から、呼気だけが漏れる。
どう返していいか、分からない。
たとえ、彼女がホンウィの素性を知っていたとしても、先王が殺されたかも知れないなんて、軽々しくは言えない。それは、限りなく事実に近いと言えるが、医師本人が否定している以上、状況証拠からの推測でしかないのだ。
ホンウィの答えが得られないのを、それとなく察したのか、スクィは一つ息を吐いて、歩みを再開した。
「そうね……時と場合によるかも知れないわ」
「どういう意味だよ」
「もし何の枷もなくそうしろって誰かに言われたら、絶対やらない。医の倫理にも、人の道理にも反するもの。けど、もし、家族か親しい人が質に取られてたら……分からない」
「家族か親しい人……」
(そうか……そういう可能性もあるのか)
だが、首陽叔父の話によれば、スヌィは安平叔父と談笑していたという。
その様子からすると、人質を取られていたということはないだろう。
「人質以外に、そういう指示に従う場合って?」
「んー……そうねぇ。あたしは人質を取られてなければ、何があっても従わないけど……お金とか権力とか、チラつかされたら従っちゃう人もいるかも知れないわね」
「金と権力……ねぇ」
ならば、安平叔父やキム・ヂョンソ、ファンボ・インがスヌィにちらつかせることのできた『権力のようなモノ』とは何だろう。
(……ダメだ。想像つかねぇ)
ホンウィは首を振って、側頭部を掻きむしった。
御医なら、報酬や待遇は、堂上官の官僚と同等だ。不満があったとは思えないが、満足する報酬というのも個人によって違うのだろう。
ならば、スヌィが欲しかった権力とは何なのか。
(……いや、それも想像だもんな)
彼が、正しい治療とは正反対のことをやったというのは、明らかだ。問題は、その理由である。
それに、何よりもまず彼に、正しくない治療をしたということを認めさせないといけない。
「……ユウォル」
「んあ」
考え込んでいる所へ、不意に声を掛けられたので、覚えず間抜けな声が出る。
「んあ、じゃないわよ。あんた、何に首突っ込んでんだか知らないけど、おかしなことにあの子を巻き込まないでよ」
「あの子って、ナ医女のことか?」
「そうよ。あの子だけじゃなく、惠民局全体も」
「……何か、俺がいつも惠民局をおかしなことに巻き込んでるような言い草だな」
「そういうつもりはないけどね。あんたと顔見知りの医女は、大なり小なり巻き込まれたことがあるのは間違いないでしょ」
ぐうの音も出ない思いを、なぜかこの短い間に、二度も味わう羽目になった。
ホンウィが黙り込むのを見計らったように、スクィは「少し待ってて」と言い置いて、辿り着いた宿舎の中に入っていった。
「何かあったら呼びなさいよ」
という言葉を残して外に去ったスクィを背中で見送って、ホンウィは示された部屋へ足を踏み入れた。
シンと静まり返った部屋の広さは、横幅九尺〔約二百七十センチ〕、縦幅十二尺〔約三百六十センチ〕ほどだろうか。
一人で使うにはちょうどいいが、二人以上になると狭そうだ。この部屋が何人部屋なのかは、ホンウィには分からない。
その部屋の隅に、ポツンと女性が一人、座り込んでいる。
膝を抱えて俯いた女性は、スクィと同じくらいの年に見えた。
着衣は、やはりスクィやほかの医女と同じようなモノを身に着けている。着替えるのを忘れたらしいその様が、彼女が友の死に受けた衝撃を物語っていた。
「……あんたが、ナ・ヒョンソンか?」
思い切って声を掛けると、女性はノロノロと頬を拭って、少しだけ顔を上げた。
泣き腫らした顔は全体的に赤く、普段はどんな容貌の女性なのか、はっきりとは分からない。頬は濡れており、特に目が真っ赤だ。
「……すまない。大事な人を亡くしたばかりのあんたに、無神経な質問をする為に取り次いで貰った。時間を置いてやりたいけど、今はその余裕がない。許して欲しい」
ホンウィは、腰から鞘ごと刀を引き抜いて、その場に腰を落とした。
刀を右側に置いて、ヒョンソンの目を見つめると、彼女はまた少し鈍い動作で目を伏せる。
「……何を、訊きたいの」
答えた声は小さくて、ひどく掠れていた。
一瞬、「いや、またにする」と言いたくなるが、その衝動を全力で無視する。今日を逃したら、次はないかも知れない。
「あんたの友人は、亡くなった医女の中の誰だったんだ?」
「……カリョン……ヨ・ガリョンよ」
遺体安置所で横たえられていた、三人の医女の顔が脳裏をよぎる。
一番、右端に眠っていた女性が、確かヨ・ガリョンという名だった。
「最近……内医院に配属されたっていう?」
ヒョンソンは、コクリと頷く。
「その……ヨ・ガリョンと、最近顔を合わせたことは?」
「毎日、会ってたわ」
「ホントに?」
「ええ」
「じゃあ、その……彼女に何か変わったことはなかったか。内医院での仕事の話とかで何か聞いてないか?」
すると、ヒョンソンは、それまでの弱々しい様子だったのが一転、鋭くホンウィを睨んだ。
「……何が言いたいの」
「彼女は、大殿担当の内医女だったんだよな。先王殿下の最期の診療について、話したことがあったら教えて欲しい」
途端、今度ははっきりと、ヒョンソンの顔色が変わった。
泣いて赤くなっていたものが、一瞬白くなったように見えた。そうして、それを隠そうとするかのように、斜め下に顔を伏せる。
「ヒョンソン」
「……あなたは……誰。何者なの?」
「ああ、悪い。名乗ってなかったな。俺は、今の殿下が世子様だった頃から傍に仕えてる、ナム・ユウォルだ。今朝のことを聞いた殿下から、亡くなった医女について情報を集めるよう頼まれた。それで、亡くなった医女の検死を担当した医女たちに話を聞きに来たんだ」
「……本当に?」
「本当だ」
と言いつつ、どこまでが本当かはホンウィにも分かり兼ねた。ここにいる自分は、国王本人であり、『ユウォル』もホンウィ自身なのだから。
他方、ヒョンソンは、そわそわと目を泳がせた末に、やはりゆっくりと動いた。すぐ傍にあった、床に置く種類の棚に手を掛ける。
観音開きの扉を開くと、内側から何か包みを取り出した。それをホンウィに差し出す。
「……これは?」
受け取りながら、訊ねる。手触りからすると、書物だろうか。
ノロノロと元通りに膝を抱えたヒョンソンは、「あの子から預かったの」と答えた。
「カリョンか?」
ヒョンソンは、また一つ首肯する。
「自分に……な、何かあったら……どうにかして世子様に……殿下に、渡してって」
©️神蔵 眞吹2018.