第二章 波紋
(――あーッ、疲れる! 上品口調でノノシるのって、意外に神経使うよな)
苛立ったような溜息を吐いて、ホンウィは執務棟である思政殿を離れ、居所・康寧殿へ向かった。歩きながら側頭部を掻き毟りそうになるが、頭にかぶった翼善冠がそれを阻害する。
余計に苛立ちが募って、もう一度息を吐いた。
後ろに、内官や女官たちが付いてくるのも、どこか鬱陶しい。とは言え、王宮内にいればいつものことではあるが。
第四代王・世宗――つまり、ホンウィには亡き祖父王である李祹の教育方針で、ホンウィは物心付くか付かぬかの年齢から、宮殿の外で育った。
世宗という人は少し変わっていて、こういう王族としては型破りな教育形態は、何もホンウィに限ったことではない。父のすぐ下の弟である叔父は、生まれてからずっと宮殿の外で育っていたと聞くし、別の叔父は、ホンウィから見て曾祖父に当たる第三代王・太宗の側室に育てられたらしい。
ホンウィの場合は普段、基本的には亡き祖父の知人である元武官が営む書店で過ごし、民間で生活していた。その所為か、王宮はどうにも窮屈に感じる。
一挙手一投足を他人に見張られていると思うと、息もし辛いような気がしていた。
思政殿を出て、程なく康寧殿が見える距離まで来ると、宮の手前には内官と女官のほかに、誰かが立っているのが分かる。
こちらへ背を向けていた大柄の男性が、ふとホンウィに気付いたように振り向いた。
「……首陽叔父上!」
ホンウィは、パッと顔を輝かせると、叔父と呼んだ男性に駆け寄る。飛びつくようにして、彼の腕に飛び込んだ。叔父――首陽大君、こと李瑈は、小揺るぎもせずにホンウィを抱き留める。
「……殿下。お元気そうで安心しました」
顔を上げると、厳つい首陽叔父の顔に、柔らかい微笑が浮かぶ。
縦に長い四角のような輪郭に、太い鼻筋と薄い唇が配されたその顔立ちを見ると、初対面の人間は普通まず怯える。それに追い打ちを掛けるような(というかあつらえたような)黒い口髭とがっしりとした体つきは、腕に覚えのない人間相手なら、簡単に萎縮してしまうだろう。
だが、幼い頃から彼に慣れ親しんだホンウィにとって、彼は優しい叔父に過ぎない。
「殿下」
横から、もう一人の叔父が声を掛ける。
ホンウィは、そちらへも顔を向けて、微笑した。
「錦城叔父上。首陽叔父上も、よくおいでくださいました。どうぞ中へ」
内官や女官の手前、丁寧な言葉遣いで言うと、ホンウィは室内へ入るよう手で示す。
首陽は父のすぐ下の、錦城大君こと李瑜は父から数えて(異腹の兄弟姉妹を含めると)八番目の弟だ。
ちなみに、『大君』とは、王の正妃が産んだ王子を指す敬称である。側室が産んだ王子は『君』と呼ばれる。
私室に入ると、ホンウィは儀礼上、上座に座った。
今や、ホンウィはこの国の王だ。
そして、この国では年功序列よりも、身分のほうが先にある。
叔父たちも儀礼上、ホンウィが腰を下ろすのを待って、下座で礼をした。王に捧げるそれだ。
「二人とも、楽にしてよ」
女官も下がらせて、三人だけになると、途端にホンウィの口調は崩れた。
「ごめん。首陽叔父上も錦城叔父上も……父上の葬儀の差配全部丸投げしちゃって」
「何を言う。先代の殿下は、我々には兄上だ。兄上の子たちは、お前も含め、皆幼い。となれば、兄の葬儀を下の兄弟姉妹が取り仕切るのは当然のことだ」
人目がないとなると、首陽の口調も、普段の叔父としてのモノになる。
兄の言い分に、錦城も頷いた。
「首陽兄上の仰る通りだよ。ホンウィが気にすることは、何もないからね」
ニコリと笑うと、彼の優しい顔立ちは更に柔らかくなる。
錦城は、強面な首陽とは正反対の容貌だ。細身でたおやかで、どちらかと言えばホンウィの容姿は、錦城と似ている。
ともあれ、本当に二人は、両親が同じ兄弟なのかと、常々疑問に思う。腹違いだと言われれば、寧ろ納得するだろう。
「それに、玉蘭と蘭珠も頑張ってくれてるし」
オンナンとランジュは、ホンウィの姉王女たちだ。公式な王女名は、オンナンが敬惠公主、ランジュが敬淑翁主という。
『公主』が正妃の産んだ王女、『翁主』が側室の産んだ王女の敬称であることから分かるように、敬淑姉とは母親が違う。
ただ、敬惠はすでに嫁している為、今は公主ではなく、降嫁した王女の総称である慈駕と呼ばれていた。この呼称は、翁主も同じだ。
「あー、姉上たちにもあとで会わないと……ほかの叔父上や叔母上たちは、どうしてる?」
「まだ兄上が亡くなって三日目だからね。きょうだいにも色んな人がいるし、反応もそれぞれだよ」
錦城が、苦笑して肩を竦めた。
亡き祖父・世宗の妻は、正妃から側室からお手つきになった者まで細かく数えると、十三人いた。そして、子は全部で二十二人にもなる(ただ、現時点で既に、父を含め亡くなっている者が何人かいるし、赤子の頃に早世した者まで合計すると、二十五人だが)。
正妃、つまりホンウィには亡き祖母に当たる昭憲王后・沈瑛蘭が、その内の約半分に当たる十人の王子王女を産んでいるのだから凄い。目の前にいる叔父たちは、その内の二人ということになる。
「何にせよ、叔父上たちにも近い内にちゃんと挨拶に行かないと……二人からもそう伝えておいてくれるか?」
「ホント、気ぃ遣いだねぇ、ホンウィは」
からかうように言われて、ホンウィの頬が、年相応に膨れる。
「錦城叔父上っ」
「分かった分かった。ちゃんと伝えとくよ」
「もう……本当に分かったのかよ」
「それより、ホンウィ」
それまで黙って錦城とのやり取りを見ていた首陽が、口を開いた。
「今日の朝義で、何かあったのか?」
「え」
いきなり現実に引き戻された気がして、ホンウィは目を瞬く。すると、錦城も真顔になって、「あー、それ、僕も気になってたんだ」と言って続けた。
「ここに戻ってくる時、ホンウィ、難しい顔してたよ?」
「……あー……」
思わず呻くような声をこぼして、文机に頬杖を突く。
「ちょっとな……父上の主治医班の処遇のことで揉めたっつーか」
「揉めた?」
「王殿下が亡くなったのだから、処罰するのは当然だろう?」
「それはそうなんだけど……」
何と言えばいいのだろう。
今日の朝義の場での光景を思い返して、ホンウィは眉根を寄せた。
「あいつらの何人が、本当に父上の死を悼んでたのかなって思ったら、何か……やり切れねぇって言うか」
「ホンウィ」
「あいつら皆、父上の死の真相なんてどうだっていいんだ。ただ、主治医班の罰則の軽重とか責任とか、そんなことばっかり話してる。そりゃ、本当のことが分かったからって父上が戻るわけじゃないのは分かってるけど……」
「それは、どういう意味だ?」
首陽にやや鋭く問い質されて、ホンウィは黒目がちの目を、キョトンと瞠った。
「どういうって?」
「兄上の死の真相とは何だ。兄上はご病気で亡くなったのではないのか?」
「あっ、あー……」
うっかりしていた。
自分が知っていることは、他人も知っているものとして話をしてしまうのは、悪い癖だ。
ホンウィは、昨日の内に司憲府と司諫院の役人が報告して来たことを、二人の叔父に掻い摘んで説明した。
「コレが、その報告の纏め」
締めに、文机の引き出しに入れておいた報告書を、二人に差し出す。
首陽が受け取り、それを錦城が横から覗き込んだ。しばし、二人が書面に視線を落とし、パラパラと紙をめくる音だけが室内を満たす。
やがて、最後まで目を通し終えたのか、パタン、と紙の束がぶつかる音が響いた。
首陽も錦城も、どこか深刻な顔をして手の中の報告書を見つめている。
「……これ、本当だったら大事だよ」
やがて、呆然と言ったのは錦城のほうだ。その顔色は、普段の飄々とした彼にしては珍しく、若干青ざめている。
無理もない。よりによって、御医という、医官職の頂点とも言える人間が、医術書にも明記された処方と正反対の治療を施したかも知れないのだから。
故意であれ過失であれ、ある程度の糾弾は免れないのは、誰の目にも明らかだ。
そして、それがもし、故意であったとしたら――
「……そう言えば、兄上が亡くなった翌日、妙なことを耳にした」
やはり、難しい顔をして顎先に拳を当てていた首陽の呟きに、ホンウィは「妙なことって?」と問う。
「姜孟卿という男を、知っているな」
顔を上げて確認した首陽に、頷いた。
「確か、今年の始めくらいに都承旨になった男だよな」
都承旨とは、王の秘書室である承政院の長を指す。
「そうだ。国王の秘書という役職柄、さすがに十日以上も王殿下の安否を知らぬでは済まされないと、あの日、兄上が亡くなった日の朝、御医のチョン・スヌィに質しに行ったそうだ。その途中、彼は、思政殿の南側の回廊で、チョン御医を見かけたと言っていた」
「……それが何だよ」
たまたま、スヌィも用事の途中で、そこを歩いていただけではないのか。
その意は、首陽にも伝わったらしい。
「それが、金宗瑞と皇甫仁、それに、瑢……安平も一緒だったようだ」
「安平叔父上?」
安平大君は、諱を李瑢という。首陽の、一つ下の同母弟だ。
キム・ヂョンソとファンボ・インは、それぞれ現左議政〔副首相〕と領議政〔首相〕であり、父の代からの忠実な臣下である。
「ただ話してただけじゃねぇの? キム・ヂョンソもファンボ・インも、議政府の上層部だし……都承旨と同じで、父上の病状を質してただけなんじゃ?」
「そうかも知れぬ。ただ私は、兄上が亡くなったあと、ヨンがチョン御医の胸倉を掴んで、『なぜ、清心元を差し上げなかった』と責めていたのが気に掛かるのだ」
「清心元っていうと……確か、中風とか、手足が動かない時に使う薬だよな」
「でも、兄上のご病気は……この報告書によると、腫れ物ってことだよね?」
錦城も、話し合いに加わる。
「腫れ物に、中風の薬だなんて……何でそんな明後日な責め文句が出てくるんだろ?」
「私も医術は門外漢だから確かなことは言えんが、清心元は意外に万能薬らしいから、そうした所から出た言葉かも知れん。だが、都承旨の話によると、思政殿の回廊で見かけた時、安平たちとチョン御医は、親しげに談笑していたそうだ」
「談笑?」
ホンウィは、今度こそ整った顔立ちを思い切り歪めた。
「危篤の報が入ったのは……あとで聞いた話によると、朝だったよな? 父上が生死の境にいるのに、呑気に談笑してたってのか? 肝心の主治医が?」
加えて、その時は談笑していたはずの相手を、一日も経たない内にいきなり責め立てたという安平の行動にも、何やら筋の通らないモノを感じる。
「それだけではない。その時にチョン御医は、医学書を持って、安平たちと話す合間に、何やら調べていたというのだ」
「はあぁ?」
「え、ちょっと待って。兄上が危篤になってからその行動って、色んな意味であり得なくない?」
普段温厚で、笑顔が基本と言っていい錦城も、珍しく眉をしかめている。
彼の言う通りだった。それ以前の十日ほど前から、主治医を始めとする医官たちが付き添っていたはずだ。だのに、危篤になってから、他でもない御医が医術書を調べるなど、考えられない。
錦城の言い分は、この場にいる三人のみならず、誰が聞いても沸いてくる疑問だろう。
ホンウィが逡巡していたのは、一瞬のことだった。
文机の上で握った拳に、瞬時力を込めて立ち上がる。
「ホンウィ?」
「どうしたのだ」
「決まってるだろ。チョン・スヌィに直接会って確かめる」
「ホンウィ!」
「そのあとは安平叔父上だ。首陽叔父上。安平叔父上が今どこにいるか、知ってるか?」
「待て。ホンウィ、落ち着け」
首陽も立ち上がって、ホンウィの肩を止めるように掴んだ。ホンウィは、明らかに苛立った目を首陽に向ける。
「落ち着いてるよ。この上なくな」
「では訊くが、何を確かめるつもりだ」
「だから、父上が亡くなる前に、安平叔父上たちと何を話してたかを訊くんだよ! ……いや、その前に、父上に施した治療は故意だったのかを確かめる」
「故意にそのような治療を施した者が、素直に『そうだ』と答えると思うか?」
「ッ、……」
覚えず、息が詰まったような錯覚に陥った。
そうしてできた隙に、踏み込むように首陽が畳み掛ける。
「お前ならどうだ。何らかの思惑で人を殺めたとして、その思惑を質されたら、『はい、そうです』と素直に白状するか?」
「……そ、れは……」
首陽の目を見続けていられず、ホンウィは目を伏せた。長い睫が、白い頬に影を落とす。
「だ、だけどそれはっ……今俺が訊こうとしてることは、取り調べしてる義禁府の役人だって訊いてるはずだ」
それでも、必死で言葉を探す。
「俺でも義禁府の役人でも、知りたい内容は同じじゃないか。だったら俺が訊いたって構わないだろ。違うか?」
チラと視線を上げると、厳しい顔をした首陽の顔が視界に入った。
「違わないな。だが、ホンウィ。お前は、犯罪者の取り調べをしたことがあるのか?」
声音は、厳しい中にも、どこか優しく言い諭すような色が含まれているのが分かる。
しかし、『ない』と素直に答えたくなくて、ホンウィはまたも視線を落とした。そんなホンウィと視線を合わせるように、首陽は膝を突いてホンウィを見上げる。
肩に置かれていた手が、座る首陽に合わせるように腕を滑り、ホンウィの手を柔らかく握った。
「いいか、ホンウィ。義禁府の役人は、曲がりなりにも取り調べの専門家だ。犯罪者の中でも、特に重い罪を犯した者の扱いに、それなりに慣れている。対して、お前はどうだ?」
ホンウィは、完全に沈黙した。いくら考えても、反論の抜け道さえ見つけられない。
「ホンウィ」
「……最初の経験は、誰だってあるじゃないか」
苦し紛れに捻り出した反駁には、すでに覇気がない。負けは見えている。
武術の試合で言えば、今のホンウィは武器を叩き落とされ、壁際か、さもなければ崖っぷちに追い詰められた挙げ句に、喉元に刀か槍の切っ先を突き付けられている状態に等しい。
「そうだな。だったら、お前ができるのはその場に行っても立ち会いまでだ」
「じゃあ」
「だが、まだ早い。少なくとも取り調べをするにはな」
「……どういう意味だよ」
思わず唇が尖ってしまう。
所詮、十年と少し生きただけの少年が、三十五歳の大の大人に、口で勝とうと言うほうが無茶な話だろう。
そう頭では分かっていても、素直に白旗を揚げるのが悔しい程度には、ホンウィも意地っ張りだ。しかも、それを自覚するに至っていない。
首陽のほうが察してくれたのか、彼の顔に微苦笑が浮かんだ。
「そう急ぐな。さっきも錦城が言ったが、兄上が亡くなってまだ三日だ。調べがどれくらい進んでいるか、確認も必要だろう」
「それに、吊し上げるなら、相手がぐうの音も出ないくらいにはきちんと証拠固めをしておかないと、足下掬われちゃうよ?」
口を添えてくれた錦城も立ち上がり、ホンウィの肩先に手を添える。
彼の口調も、手の温もりも優しいが、言葉の内容はどこか物騒だ。落差が何だかおかしくて、ホンウィも思わず軽く吹き出した。
「……分かった」
軽く肩を竦めて、二人の叔父の顔を交互に見る。
しかし、しようとしていたことを止められてしまうと、さてどこから手を着ければいいかに悩んだ。
やらねばならないこと、確認せねばならないことは山のようにある気がするのに――いや、だからこそか。やるべきことだらけで、目移りする。
すると、やはりそれを察知したように、錦城がホンウィの顔を覗き込むように身を屈めた。
「ホンウィ。兄上も言ったけど、焦らなくていいんだよ。それに、君は一人じゃないんだからね」
「えっ……」
「その通りだ。我々がいる。いや、我々二人だけではない。安平は少々怪しいが、ほかの叔父上叔母上もいるではないか」
「それに瑔……永豊とは、兄弟みたいに育ったんでしょ?」
李瑔、こと永豊君は、首陽と錦城には腹違いの弟に当たる。ホンウィにとっては叔父だが、年齢が近い上に、彼の母親であり、祖父の側室だった惠嬪・楊姚真は、育ての母も同然の女性だった。
それに思い当たったように錦城を見上げると、彼はニコリと微笑を返して、首陽の横に膝を突く。
「ひとまず、もう少し詳しい証拠固めは、僕たちが引き受けるよ。だから、その間に君は、ほかの叔父上たちや姉上に、挨拶に行っておいで?」
ん? と小首を傾げるように言われると、この数日張り詰めていたモノが不意に緩んだ。
慌てて気を引き締め直すが間に合わず、ポロリと一筋、頬を滴が転げ落ちた。
***
叔父たちが康寧殿を辞し、朝水刺〔朝食〕を済ませたあと、ホンウィは少し迷った末に、思政殿へ足を向けた。
父が亡くなってから、呆然と日を過ごしていた感があるが、そろそろ日常に戻らなければならない。
この国の儀礼上、葬儀は三日くらいでは終わらない。
納棺まで五日掛け、国王の場合だと埋葬まで五ヶ月、服喪期間は三年ほどある。埋葬のあと、二十七ヶ月後に行われる吉祭と呼ばれる儀式を経て、初めて葬礼のすべての儀式は終わり、遺族は元の日常へ還っていくのだ。
だが、王である以上、まさかこの三年を真っ正直に守るというわけにも行かない。少なくとも、埋葬まで五ヶ月掛けるのは儀礼通りにするけれど、それと平行して納棺後には通常業務を行う必要がある。
父の場合も、即位は祖父の死後すぐだった。その時から、すでに王としての執務を始めていたと思う。
ホンウィも、王となったからには、亡き父に倣わなければならない。いつまでも悲しみに身を沈めることは、王には残念ながら許されないのだ。別れがたとえ、十歳の幼い年の頃であったとしても――。
小さく息を吐いて、ホンウィは先ほど大臣たちを怒鳴りつけて辞してきた思政殿に向かう。それによる若干の気まずさがあり、足は重いが、この先、王として生きる年月は長い。どんな理由があっても、避けて通れないだろう。
しかし、思政殿の前まで来たところで、ホンウィは歩みを止めた。王個人の執務室の前に、見覚えのある人物が立っていたからだ。
「殿下」
相手も、こちらに気付いたらしい。
キビキビとホンウィに駆け寄り、一礼した。
「イ掌令」
相手は、先日、父の死について疑惑を呈しに来た、イ・ボフムだった。
「今、少しお時間よろしいでしょうか」
「何か、分かったのか」
「はい、その……」
言い淀んだポフムは、チラと周囲に視線を投げる。
人がいると言い辛い話題らしい。そう察したホンウィは、ポフムを促して執務室へ入った。
「掛けてくれ」
執務机の前にある丸い机の席を勧め、腰を下ろす。ポフムも、「失礼します」と言い、席に着いた。
「今日は、もう一人の……司諫院の右献納は一緒じゃないんだな」
すると、ポフムは生真面目そうな顔立ちを、申し訳ないと言うように曇らせた。
「どうしても都合が付きませんでしたので……すみません」
「いや、謝らなくていい。どうしたのかと思っただけだから」
苦笑して返すと、ポフムは「は」と短く言って会釈するように顎を引く。
「それで、何か進展はあったのか」
「進展というよりは……その、申し上げにくいのですが」
「引き延ばしても内容は変わらぬだろう。何だ」
ポフムは、それでも瞬時、躊躇うように目を伏せた。しかし、すぐに意を決したのか、目を上げる。
「それでは、恐れながら申し上げます。先代王殿下の御代に、大殿担当だった医女が、死にました」
©️神蔵 眞吹2018.