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第七章 束の間の休息

 が暮れ始め、永豊君ヨンプングン――チョンは、まだグズグズと啜り泣いているホンウィを背負って、帰路に就いていた。このまま王宮に帰すのもどうかと思いながら歩き、ふと思い立って錦城クムソン兄の私邸を訪ねた。

 彼の家は、チョンの邸宅と違い、都の中にある。

 簡単に今日の成り行きを説明すると、錦城はすぐに王宮へ使いをやり、ホンウィとチョンを快く迎え入れてくれた。

 久方振りに、年相応の幼子に返ったようになったホンウィの着替えを手伝ってやり、錦城兄宅の一室へ延べさせたとこに押し込むと、ホンウィは珍しくコトンと寝入ってしまった。

 寝息を立て始めたのを確認すると、チョンは気配を殺してそっと部屋を辞した。

 扉を閉じてから、初めて溜息を吐く。

「チョン」

 ひそめた声で呼ばれて、チョンは顔を上げた。

「兄上」

 こちらも同じように潜めた声で答えると、部屋の前からわずかに離れた場所にいる錦城の傍へ歩いた。

「悪いな、いきなり転がり込んで」

 錦城は、いつも通りの柔らかな微笑を浮かべて小さく首を横に振った。

「今、君の家にホンウィを泊めるのはちょっと上手くないと思ったからね。気にすることないよ」

 錦城も何だかんだで、今の懸案である、垂簾スリョン聴政チョンジョンの件について知っている。

 万が一、どうしても女性の垂簾聴政を必要とすることになったら、ホン貴人クィインの対抗馬としては、チョンや壽春君スチュングンの生母である惠嬪ヒェビンが立つことになるだろう。

 彼女の子の一人であるチョンが、仮にも現国王を無断で王宮から連れ出し自宅に泊めたとなると、大なり小なり問題が発生しそうだった。そうなれば、惠嬪が垂簾聴政をすることが不可能になってしまう。

「その点、僕なら首陽スヤン兄上とも同母の弟だし、いくらでも言い逃れできるから」

 ニコリと笑って、どこか物騒なことを言うと、錦城はホンウィのいる部屋の扉に目を投げた。

「それで、ホンウィはどう?」

「ああ。糸が切れたみたいに眠った。眠薬が効いたんだろ」

 ホンウィも、ああ見えて食事に混ぜられた薬には敏感だから、策を弄することなく軽食後に煎じ薬だと言って錦城が勧めたのだ。

「……あの年で薬の助けがないとゆっくり寝れないってのもどうかと思うけどな」

「うん……」

 チョンがポツリと言うと、錦城もどこか痛ましげに顔をゆがめた。

「でも、その辺は父上の教育の賜物でしょ。僕らがどうこう言う筋じゃないよ」

 ホンウィは、あの年頃にしてはやや眠りが浅いところがある。

 錦城の指摘通り、それは父・世宗セジョンが選んだホンウィの養父による教育の一環だった。武術を叩き込まれる過程で、寝込みを襲われても撃退できるようにという理由によるものだ。()もとで一緒に育ったチョンも、同様の訓練を受けている。

「……まあ、俺もヒトのこと言えねぇけど」

 チョンは無意識にうなじに手をやると、また一つ吐息を漏らした。

「そう言えば、ヒョンのトコ行ったんでしょ? 何か進展あった?」

 ヒョンというのは、壽春君スチュングンいみなだ。

「進展ってより手掛かりを掴んだってだけかな。ホントの調査はこれからだよ。何にせよ半月あるからその間にはどうにかしたいけど」

「そっか……ホンウィはどうするつもりなのかな」

「さあ。あいつ最近、俺ら頼るのもどっか避けてる気がすんだよな」

 チョンも、ホンウィの眠る部屋の扉に目を向けて眉根を寄せる。

 錦城も、今度は寂しげに苦笑した。

「もっと頼ってくれてもいいのにね」

「ま、その辺は首陽兄上にも責任あると思うけどな」

「どういう意味?」

「だってそうだろ?」

 反問するように言って、チョンは肩を竦める。

「あいつ、一番信用してたのは多分、フィジ兄上の次点が首陽兄上だったんだぜ? それがあんなに手酷く裏切られてみろよ。他人が信用できなくなっても無理ないと思わねぇ?」

「うーん……でも僕たちは一応他人じゃないし、あの子、チョンのことは信用してると思うよ?」

「何でそう思うんだよ」

「だって、チョンだったら信用してない人間の前で盛大に泣き喚いた挙げ句に、その人に負ぶわれてウチまで来ないでしょ?」

「う」

 反論を探せずにいる内に、「旦那様」と錦城の後ろから声が掛かり、彼がそちらへ振り向いた。

想映サンヨン

 錦城が、その視線の先にいた女性の名を呼ぶ。彼女は兄の正妃で、名を崔想映チェ・サンヨンといった。

「永豊君様もどうぞ。お夜食の膳が整いましたので」

義姉あね上。今宵は急に押し掛けまして、申し訳ございません」

 チョンは口調を改めて、サンヨンに頭を下げる。

 サンヨンは、優しげな顔立ちを綻ばせて、会釈を返した。

「とんでもない。わたくしも久し振りに永豊君様のお元気そうなご様子を伺えて嬉しゅうございます」

 一通りの挨拶を終えると、どうぞこちらへ、とサンヨンが通路の先を示し、先導するようにきびすを返す。

 しかし、チョンは一瞬躊躇(ためら)った。

 錦城の邸の敷地内とは言え、ホンウィを一人にするのはどうかと思ったのだ。だが、それを察したのか、兄も「行こう、チョン」と促す。

「ホンウィのことなら心配ないよ。ここだって仮にも王子の私邸だし、ホラ」

 顎をしゃくった兄の視線に釣られるようにホンウィの部屋の前を振り返る。すると、いつからそこにいたのか、一見すると私奴サノと思える男が立っていた。

 私奴とは、個人宅の男奴隷を指す。が、そこに立っているのはただの私奴ではないように思えた。簡単に隙が見つけられない。

 王子二人の視線に気付いたのか、男が小さく会釈する。

 錦城が頷き返したので、チョンはひとまず兄を信じることにして、兄夫婦のあとに続いた。


***


 ホンウィの、翌朝の目覚めは最悪だった。

 泣き過ぎでやっぱり頭は痛いし、目は腫れぼったい。おまけに泣き喚いたのが人前だったのまで思い出す。今なら羞恥だけで死ねそうだ。

「ユーウォル。起きてるか? 開けるぞ」

「……やだ」

 ホンウィは子どもっぽい口調で言って、掛け布団を引き上げた。

「……『やだ』じゃねぇだろ。ガキかお前は」

「ガキだもん。てゆーか、昨日ヒョク兄はそう言ったじゃん」

 ガラリ、と障子戸を引き開ける音にかぶるようにモソモソ返した言葉は、永豊君の耳にも拾えたようだ。

 次の瞬間、あっけなく掛け布団を奪い取られる。

「確かに言ったけどな。泣くだけ泣いたら気持ち切り替えろよ。お前、王座、首陽兄上に渡してもいいわけ?」

「……今ならいいかも」

 正直、もうどうでもいい気分だ。

 泣き過ぎた所為か、頭が空っぽになっている。それも、あまりいい意味ではなく、虚脱感に近い。

 瞬間、縋るように抱え込んだ枕も没収され、胸倉を掴み上げられる。

「……何だよ」

 否応なく上げさせられた視線を、睨むように永豊君へ据えた。

 しかし、永豊君の顔は、いつもの言い争いの時と違ってどこか冷静だ。

「本っ当にいいのか? あの(・・)兄上に渡すのか。王座そのものじゃなくても政治の主導権渡して本当に後悔しないか?」

 即座に「いい」とは返せなくて、唇を噛む。伏せた瞼の下で、視線が泳いだ。もう構わない、疲れた、と言おうとしても、唇は上手く動かない。

(何で)

 なぜだろう、と自問する。

 もう投げ出してしまいたいのに、そうする気になれないのはどうしてだろう。手放せば楽になれる。そう分かっているのに。

 無意識に拳を握る。

 その時、「はーい、チョンもちょっと落ち着こうか」というのんびりとした声が投げ込まれた。

「錦城……叔父上」

 目を上げた先にいた人物の名を、ぼんやりと呟く。

 永豊君は、一つ吐息を漏らしてホンウィの胸倉から手を離した。

「ごめんね。チョンは少しだけ席外してくれる?」

 にっこり笑って続けた錦城に、やはり吐息だけで答えた永豊君は、黙ったまま部屋をあとにする。

 弟が扉を閉じるのを見届けると、錦城はホンウィに柔らかく笑い掛けて腰を落とした。

「おはよ。よく眠れた?」

「……さあ」

 ホンウィも布団の上にポスンと小さく音を立てて座る。

 俯いたホンウィの頭を、錦城が『よしよし』と言うように撫でた。

「……何だよ」

「ううん。考えてみれば、ホンウィはホントーはまだ子どもなんだよなぁって」

 恐らく、これを平時に言われたら、反射で「子ども扱いすんな!」と言い様、頭に乗っている彼の手をけている。けれど、今日ばかりはそうする気になれない。

 できることならこのまま、ただの十歳の子どもになってしまいたかった。両親を失ったばかりの、幼い少年になって、本当に泣き疲れるまで引き籠もっていたい。

 その内心を、知ってか知らずか、錦城は穏やかに淡々と続けた。

「それなのに国の頂点に立って号令掛けないといけないなんて、大変だよなぁって思って。まあ、僕もホンウィの年にはもう結婚してたから、王族なんてそんなモンかなって、あんまり違和感持ったこともないけどね」

 もっとも、と挟んで、錦城は半ば独白のように言葉を継ぐ。

「僕は、ほぼ成人するまで両親とも生きてたからね。ホンウィの本当の気持ちや辛さは想像するしかないんだけど」

「……何が言いたいんだよ」

「ううん、別に。多分、僕の言いたいことはチョンと大体同じだよ。君も耳にタコができちゃうだろうから敢えて言わない。でもね」

 のんびり口調の言葉を切って、錦城はホンウィの手を取る。

なんにも迷惑だなんて思わなくっていいから。フィジ兄上……君の父上が亡くなった時にも言ったかも知れないけど、君は一人じゃないんだよ。首陽兄上の分は戦力半減かもだけどね。本当に困ったら言って? 僕でできることは何でもするからね」

「……王以外の王族がまつりごとに首突っ込むの、大臣たちがいい顔しねぇんだけど」

 それに、一つそれを許すと、首陽が口出しするのも容認しなくてはならなくなる。

 ホンウィが、話を聞くという行為以外で、錦城や永豊君らを頼るのを躊躇ためらっていたのは、そういう理由もあった。

 しかし、錦城も首陽に負けずしたたかだった。

「嫌だなぁ。誰も政の手伝いするなんて言ってないよ? 正直面倒くさいし」

「は?」

「僕がやれるのはただ話を聞いて、場合によっては一緒に考えて、あとはホンウィのやりたいことを手伝ってあげることくらいかな」

 一瞬呆気に取られたが、聞く内にホンウィの視線は胡乱なモノになった。

「……何だよそれ。結局政の手伝いに見えちゃいそうなんですけど」

 しかし、錦城は気分を害したふうもなくニッコリと笑ったまま言う。

「そんなことないよ。例えばホンウィの相談に対して、僕が何か言ったとするでしょ? でも最終的な判断はホンウィ自身がするんであって、僕じゃない。外からの意見を入れてまた考える材料にはするだろうけど、決定するのはホンウィなんだから。まあ、相手が大臣でもおんなじだと思うけどね」

「……すっげー屁理屈……」

「どう取るかはホンウィの自由だし、大臣たちにも自由さ」

 錦城は、変わらずニコニコと笑っている。

 それを見ていたら、ホンウィも釣られるように頬がゆるんだ。


***


「――でね、早速質問なんだけど」

 と錦城が口を切ったのは、彼の私邸での朝餉が終わりに差し掛かる頃だった。

「差し当たって、ホンウィはこれから何をするつもり?」

 クッの最後の一口を飲み干して、ゴクリと喉を鳴らす。直後、ホンウィは無言で椀を円盤ウォンバン〔膳〕へ戻し、口をひらいた。

「……ひとまず……この半月でやろうと思ってるのは、ホン貴人の証拠固め……かな」

「証拠?」

「ホン貴人が義姉あね上……顯徳ヒョンドク王妃様を殺した証拠固めだよ。だろ?」

 永豊君ヨンプングンに確認するように言われて、ホンウィは小さく頷く。

「もしあの人が……本当にったって言われても驚かないけど、もし本当に母上を……俺の生みの母上を殺したなら、もうあの人を母とは呼べない。乳離れまで面倒見てくれたのとはまったく別の問題だ」

 伏せた目の先に、まるでホン貴人がいるかのように、ホンウィは円盤を睨み据えた。

「うん、それは分かるけど……その調査、取り敢えずチョンは加わらないほうがいいと思うな」

「どうして!」

 錦城の言に、反射で叫んだのはチョン、こと永豊君本人だ。

 早くも噛み付きそうな顔になった弟に、錦城は宥めるような視線を向けると、「だってさぁ、考えてもみなよ」と挟んでおっとりと続けた。

「仮にホンウィの思惑通り、ホン貴人の罪状が明らかになって、彼女の垂簾聴政が沙汰止みになったとするでしょ。そしたら、代わりに垂簾調整するの、君の母上しかいないじゃない」

「あ」

 錦城の言わんとすることに、永豊君も気付いたらしい。

 ホン貴人の対抗馬となるはずの惠嬪と、彼女の息子である永豊君とは、本来別個に考えられるべきだが、この国ではそうはいかない。

 親の不始末は子の不始末、その逆もまたしかりなのだ。

 そもそも、何らかの罪を犯した際、親兄弟に連座制が適用されるのがいい例である。

 第一、ただでも惠嬪が垂簾聴政の候補に挙がったことに対して、大臣たちの反応はかんばしくない。ひとえに、彼女の元々の出自の問題なのだが、今回の件の場合、もしホン貴人の罪状固めに、対抗馬の惠嬪の息子が加わっていたと知れたら、大臣たちは大喜びで『公平性を欠く』という難癖を付け、惠嬪も排除に掛かるだろう。

 そうしてめでたく、惠嬪も垂簾聴政の候補から外されることになる。

 それはホンウィ自身、望むところではない。

「……ごめんな、ヒョク兄。せっかく手伝うって言ってくれてたのに」

「……いいよ。理屈は分かる。黙って見てるだけってのも、本当はしょうじゃねぇんだけど」

 永豊君は、肩を一つ竦めて湯呑みを傾けた。彼の顔は、納得はしているが納得し兼ねるという、何とも矛盾且つ複雑な表情だ。

「だから、代わりに僕が手伝うよ」

「錦城叔父上が?」

 はじかれたように顔を上げると、錦城の柔らかな笑顔と視線が合う。

「うん。僕だったら別に、血筋的には惠嬪様とは繋がってないし、問題ないよ。それにホンウィ、この半月、宮殿にもって大人しくしてるって大臣たちと約束したわけじゃないんでしょ?」

「まあ……そうだけど」

 奥歯に物が挟まったような口調に、錦城は敏感に何か察してくれたようだ。

「何が心配?」

 率直に訊ねてくる。

首陽スヤン叔父上が……何か妨害してくるんじゃねぇかって」

 あの叔父は、今も着々と、ホン貴人を垂簾聴政の座に据え、彼女を操るべく動いているだろう。そんな首陽が、こちらがホン貴人を退しりぞける動きをすれば、黙って見ているわけがない。

 今だって、ホンウィはもちろん、ホンウィの側に付きそうな人間すべてを見張っているかも知れないのだ。

 その懸念を告げると、錦城も「そうだねぇ」と難しそうな顔をした。

「そうじゃない、とは言い切れないけど、それ怖がって何にもしなかったら思う壷でしょ。それともホンウィは、半月無駄に王宮に籠もって過ごした挙げ句に、大苦手な上、顯徳王妃様を殺したかも知れないホン貴人と、そのあと毎日顔合わせたいの?」

「無理!」

 即座にブンブンと首を横に振る。

 錦城の最後の言葉が現実になるのを想像すると、それだけで背筋が冷えた。

「今になったらあんな女から母乳貰って育ったことだけでも無理なのに、毎日(ツラ)突き合わすとか……いやいやいやいやないないないない、絶っっ対無理だっっ!!」

 言うかんに、持っていた箸は宙を飛び、ホンウィは自身を抱き締めるようにしながら小刻みに震え、ブンブンと首を降り続けている。

 それを眺める永豊君は、少々唖然としていた。話を振った錦城も眉をひそめ、弟の耳元で「僕、何か怪談でも話したかな?」と囁く。

 兄の問いに、永豊君はホンウィへの同情を禁じ得ないという表情で答えた。

「……恐怖話じゃねぇけど、近いモンあるんじゃね? 俺でもあの女はちょっと無理だもん。何が問題って話通じねぇところが」

「わざわざ目の前でヒソヒソ話すんなっ! 全っ部聞こえてっし!!」

 顔を寄せ合った叔父たちに人差し指を突き付けながら、ホンウィは昨日とは違う意味の半泣きで叫んだ。


©️神蔵 眞吹2021.

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