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第六章 その女性、厄介につき【後編】

「ユウォルはユウォルなりにホン貴人クィインを苦手だなって思う理由があるんだろー?」

「あー……えっと、七歳くらいの時だったかな……何かの……いや、世孫セソンとして冊封チェッポンされる式典の為に、王宮に戻ったことがあってさ……」

 冊封、というのは何らかの爵位を授けられる儀式のことだ。

 当時のホンウィの場合、世孫として正式に地位に就くことを指した。


 その式典に出席する為に、この時ホンウィは王宮へ一時帰宅していた。

 当日に戻るのでは遅い。

 禮曹イェジョが主導する準備は二日前から始まるが、ホンウィは数日前に宮殿に戻った。式典の手順を確認したり、他にも色々と準備がある。

 宮中入りしたホンウィの居所の前に、ホン貴人――当時は良媛ヤンウォンだった彼女が待ち受けていた。それが、ホンウィの意識としては、彼女にまつわる一番古い記憶だ。

 ちなみに、良媛とは世子の側室の位で二番目の地位だ。

『ああ、ホンウィ……いえ、世孫。久し振りね』

 しかし、当時のホンウィは、ホン良媛のことは薄ぼんやりと覚えていただけだたった。ホン良媛の産んだ姉が亡くなる少し前にホンウィは宮中を出たのだが、それまでもホン良媛は惠嬪ヒェビンの元で過ごしていたホンウィをちょくちょく訪ねて来ていたから、まったく忘却の彼方というわけでもなかったのだ。

『よく戻って来ました。母のことは覚えていて?』

 ホンウィは、彼女と共にいた惠嬪に戸惑った視線を向けた。母、と言われて混乱した。

 生みの母がすでに亡いことはホンウィも惠嬪や父、祖父から聞かされて知っていた。そんなホンウィにとって、母と言えば惠嬪のことだった。

 ホンウィの戸惑いを察したのか、惠嬪がいつものように膝を屈め、ホンウィと目線を合わせた。

『世孫様。ホン良媛は、赤子の頃の世孫様に乳を与えてくださった方ですよ。ご挨拶なさい』

 そう説明されれば、“乳母”を指しているということは分かった。

『ホン良媛様。ご機嫌麗しゅう存じ奉ります』

 ホンウィは、ホン貴人に向き直って挨拶した。すると、彼女は悲しげに顔を歪めた。

『まあ、世孫』

 言うなり彼女は、惠嬪を押し退けるようにしてホンウィの前に膝を突いた。

『そのように他人行儀な……母ですよ。そなたとわたくしは実の親子ではないの。“母上”と呼びなさい』

 縋るように言われて、ますます困った。彼女は母ではないのだ。困惑のままに『良媛様』と呟くと、上腕部を掴んでいたホン良媛の手に力が入る。

『世孫。母をそのように軽く扱うとは、許しません。世子様に言ってきつく罰していただかなくては』

 彼女の爪先が、衣服を通しても食い込んでくるのが分かる。痛い、離してくださいと言いたいが、彼女の狂気じみた目と視線が絡んで、抗議は喉元でわだかまった。

『分かったな。わたくしを何と呼ぶのが正しいか。さあ、世孫。正しく呼びなさい』

『良媛。そなたこそ慎みなさい』

 凛と言って、惠嬪がホン良媛の肩先を押さえた。

『世孫様ですよ。そのような不遜な物言いは許されぬ』

『惠嬪様こそお分かりではないのです!』

 キッと惠嬪を振り向いた良媛が、振り向きざま惠嬪の手を撥ね除けた。

『この子はわたくしの子です! わたくしがこの胎を痛めて産み申し上げた、世子様とわたくしのお子です! それを横から取り上げたのは、惠嬪様ではありませんか!』

 興奮気味に立ち上がった良媛は続ける。

『見てください、この子を! 惠嬪様が取り上げ、わたくしから引き離したばかりに、この子はわたくしを忘れてしまいました! 母とすら思っておりません!! 何と嘆かわしいことでしょう……ああ、こんなことになるのなら、首をはねられてもこの子を手放すのじゃなかった!』

 言い終えるなり振り返った良媛は、出し抜けにまたしゃがみ込んだかと思うと、ホンウィをきつく抱き竦めた。

『もう決して放しませぬ。これからは、この母がきちんと教育し直してさしあげます。さあ、世孫。そなたの母は誰?』

 今なら何か返す言葉を思い付いただろうが、当時のホンウィはただただ戸惑った。今思えば、その戸惑いは恐怖に近かったかも知れない。

 強い言葉で拒否していいのかいけないのか、あなたは母ではないと言ってもいいのか否か、とっさに判断が付かなかった。

『そなたの母は、顯徳嬪ヒョンドクビンだろう。なあ、ホンウィ』

 程良く脳内が真っ白になった頃合いをまるで見計らったように、のんびりとした声音が割り込んだ。

『あっ……!』

『殿下』

 反射的にか、ホン良媛は再度立ち上がった。惠嬪は、唐衣タンウィの前裾に手を入れて頭を下げる。

 良媛がホンウィから離れた隙を上手に突いて、やってきた祖父・世宗セジョンはホンウィを抱き上げた。

『久しいなホンウィよ。重くなったなぁ』

『殿下。あまりご無理をなさいませぬよう。世孫様ももう七つでございますゆえ』

『何を言う。七つの子どもくらい抱えたとて、腰痛症になったりせぬぞ』

 ははは、と豪快に笑いながら宮へ入る世宗に、惠嬪も微笑しながら続いた。


「……で、そのあとはどうなったのー?」

「さあ」

 ホンウィは、肩を竦めた。

 その場に取り残されたホン良媛――今の貴人がその後どうなったかはよく知らない。

「ただ、そんな一幕があったんで、俺はそれから宮殿には近寄れなかったんだ」

「帰れなかったってコトー?」

「ああ。そのあと俺が公式に宮中に里帰りしたのは、祖父様の葬儀に出席する時と父上が即位した時、それと自分の世子冊封の儀の時かな。ほかに帰る時は全部非公式に裏から帰って裏から出て、みたいな感じで……」

「でも、変だよねー」

 ふとまた思い付いたように、壽春君がポツリと言う。

「何が?」

「だってさぁ。そういうちょっと異常な振る舞いした人、そのまま宮中に置いとくかなぁ。フィジ兄上の正妃って顯徳ヒョンドク王妃様の前に二人いたけど、二人ともおかしなコトやってすぐ叩き出されてたじゃん」

「……そうなのか?」

 ホンウィは初めて聞く話だった。永豊君のほうを見ると、彼も肩を竦めている。

「さぁな。俺も生まれる前の話だ」

 無理もない。永豊君とホンウィの父は、兄弟と言っても二十歳離れている。そして多分、ホンウィの父が最初に結婚したのは、父が十歳前後のことだろう。知らなくても当然だが。

「ヒョソ兄もヒョク兄と大して年違わないのに、何でそんなこと知ってんの」

 すると、壽春君は「ふふっ」と笑った。

「さっきキミが言ったんでしょー? ボクは宮中の情報通だって」

「今は宮中にいないから知らないって言ったクセに」

「宮中にいる間ならいくらでも知る術はあるんだー。それが過去のことでもねー。病弱王子をナメて貰っちゃ困るよー」

 そんなことをふんぞり返って言われてもこっちが困る。ホンウィは、この件についてこれ以上壽春君を追及するのをやめた。

「まあ、何でホン貴人が未だに宮中に居座ってられんのか、真相はあとで調べることにして……」

 はあ、と溜息を挟んで言葉を継ぐ。

「想像でよければ見当付くよ」

「へえー。何?」

「あの時……俺が世孫冊封の儀の為に宮中に戻った時にその場にいた内官ネグァンとか女官が、あのあと全員宮中から消えたらしい」

 その為、彼女がやや異常に見える振る舞いをしたのを、今宮中にいる内官や女官は知らないのだ。だからこそ、彼女は今でもきちんと内命婦ネミョンブを差配した王妃の代行者として、宮中で崇められている。

 永豊君が息を呑んだ顔になり、壽春君は「ふぅん……」と面白がるような声を漏らした。

「彼ら彼女らが殺されたのか、追放されただけなのかは分からないけど……その場にいた人間で、今無事でいると確認できてるのは惠嬪母上だけだ。彼女が口噤んでんのは、父上か祖父様に何か言われたか頼まれるかしたからだろ」

「なるほどー。ユウォルの場合、それが彼女を敬遠する理由だね?」

「まあな」

 好きだの嫌いだのという一言では現せない理由だ。

 彼女が、乳母でも父の側室でもなければ、できる限り避けまくって顔を合わせないようにするところなのに。それどころか、これこそ王族権限を濫用することが許されれば、とっくに追放処分にしている。

「分かったよー。じゃあ、房子パンジャに訊いてみるといい」

「房子?」

 ホンウィと永豊君が同時に言った。

 それにまた、面白がるような微笑を浮かべて、壽春君は頷く。

「そ。房子が女官……主に尚宮サングンの身の回りの雑用をするだってのは、二人も知ってるでしょー」

 大別して宮中で働く女性は、ひとくくりで『宮女クンニョ』という範疇になる。センガクシ、もしくはアギネインと呼ばれる女官見習いや内人ネインから正五品チョンオプム尚宮までの地位にある女性はもちろん、水汲み作業に従事するムスリや、内医院ネイウォンの医女まで『宮女』とされている。

 房子と呼ばれる婢もだ。

全房子オンバンジャに訊くのが情報量的にはお勧めだけど、彼女らは宮中の住み込みだからねー。半房子パンバンジャのほうが、通いの分どっちかっていうと口は軽いかもー。但し、守秘義務の範囲内での話だけどー。王命って言えば多分あっさり吐いてくれるよー」

「ヒョソ兄がホン貴人のことで、何か知ってることはないのか?」

「ボクが知ってるコトなんて、噂程度のコトだよー」

 相変わらずののんびり口調の割に、表情は真剣だった。

「でも、覚悟が要るかもよー」

「……何の」

「多分、ユウォルは知らないままでいたほうがいいコトー。恐らく、ウチの父上も知らないかもー」

「祖父様も?」

 眉根を寄せて問うホンウィに、壽春君は沈黙を返す。ただ、表情だけは変わらない。むしろ、挑み掛かるようなそれだ。

 本当に知りたいか、と――内容を知りたいかどうかよりも、知る覚悟を問われているような気がする。

 ホンウィは、瞬時躊躇(ためら)った。伏せた目の下で視線が泳ぐ。

 玉座に就いて十日余りの間に、見たくなかったことを沢山見てきた。知りたくなかったことも知ってしまった。

 この座にいる限り、今後もそれは続くだろう。もし本当に首陽叔父がこの座を欲しているのなら――ホンウィ自身だけのことを考えれば、明け渡したっていいと思う。

 けれど、今のホンウィにはそれにすら責任が付きまとう。あっさりと譲ってしまうということは、民の幸せすらあの叔父にゆだねるということだ。

 特権階級や自分の利権のことしか考えていない、あの叔父に。

 刹那、閉じた目を上げた。

「……それは……それを知ることは、あの人を垂簾聴政の場に引っ張り込まない為に必要なことか」

 一瞬、ヒタと壽春君と視線が絡む。

「そうだねぇ。彼女のこと、きちんと調べたいと思うならねー」

「……王としては……ってことだよな」

「うん。ボク個人としては、可愛い甥には、あんま辛い現実は見せたくない。けど、その甥は、ボクの甥である前にこの国の王で、民の父だからねー」

 言われて、クッ、と自嘲の笑いが漏れる。

「あの人を遠ざけたいのは、俺の個人的感情かも知れないぜ?」

 王としてではなく――君主としてではなく、ホンウィ個人として彼女が苦手なのだ。

 すると、壽春君はまた少し口の端を吊り上げた。

「それも分かってるよー。ただ垂簾聴政って、言わば王の代弁者じゃない? 彼女のやったコトが王の代理として相応しいかどうかは、王本人としても見極める必要があるんじゃないかなぁ」

 それが、ホンウィ個人として知りたくない事実を含んでいたとしても、ということなのだろう。恐らく、壽春君の誇張ではなく本当にそうした事実があるのだと分かっている。

 それを知るには覚悟が要る。首陽のしたことだって、誰かが「嘘だ」と言ってくれたらどんなにいいかと未だに思っているのだから――

 しかし、それを知るのを先延ばしにはできない。多分、半月後にホンウィが臨席する御前会議では、それも話題に上るだろう。それまでには調査を終える必要がある。

 もう一度目を閉じて、必死に頭を空にする。

(今から俺は――『ホンウィ』という個人じゃない)

 王だ。王という公人なのだ。個人的に衝撃を受けて動揺している時間はない。

 軽く深呼吸して目を上げる。

「……分かりました」

 敢えて公の場の言葉遣いに切り替える。

「教えてください。壽春叔父上がご存じのことを」

 すると、壽春君もどこか虚を突かれた顔をした。が、それは一瞬のことで、「分かった」と彼が答えた時には、その表情はいつもの微笑に戻っていた。

「どうもねぇ。フィジ兄上の最後のご正妃――つまり、ウンソ義姉あね上だけどね」

 真面目な声音で言った直後には、その口調はもう元ののんびりとしたそれに戻っている。それが微妙に深刻度合いを薄めたが、その後、壽春君の口から飛び出た言葉の衝撃を、緩める役には立たなかった。

「殺されたみたいなんだよねー。彼女に」

「彼女……って」

「ホン貴人」


***


 彼女が何をやらかしても、驚愕には値しない。

 彼女ならやるだろうな、という諦念に似た思いしか浮かばなかった。

 ホンウィにとって衝撃だったのは、父のみならず、生みの母までもが、誰かに人生を強制的に終わらされていたという事実だ。

 正直、どう受け止めていいか分からない。

 顔も覚えていない母が、殺されてこの世を去ったことの理不尽に、焦げるようなもどかしさと動揺こそ覚えても、まだ悲しみは感じなかった。

 憎しみも、怒りも――まだ混乱していて、どんな感情を持っていいかも、持つべきなのかも分からない。ただただ、頭が真っ白になってしまっている。

「――……ル。おい、ユウォル!」

 怒ったような声と共に、肩を後ろに強く引かれて、ホンウィはようやく我に返った。反射で声のしたほうを降り仰ぐ。

「……あ、……え、と……」

 呆けたような、脈絡のない言葉が口を突く。

 見上げた先には、永豊君が心配と少しの苛立ちとをない交ぜにしたような顔で、こちらを見下ろしていた。

 彼の背後には、夕暮れが近くなった空が広がっているのが見える。

 いつ壽春君の屋敷を辞して来たのだったか。ついさっきのことだというのに、よく覚えていない。

「……大丈夫か」

「……あ、うん……」

 本当はあまり大丈夫ではない。大丈夫、と平気な振りの仮面をかぶり、口調を装えばいいだけなのに、それをする余裕すらない。

 そんなホンウィの精神状態を、永豊君は見抜いていたようだ。

 呆れたような吐息と共に、彼は膝を突いてこちらと視線を合わせると、ホンウィをそっと抱き寄せた。

「……バカ。やせ我慢しなくていい。辛いなら辛いって言え」

「別に……」

 やせ我慢などではない。ただ少し、頭が呆けてしまってるだけだ。

 だが、それを口に乗せる元気すらない。

 沈黙したホンウィの肩を、幼子を宥めるように永豊君の掌が優しく叩く。言葉を覚えたての年頃の幼子にされるような宥め方にも、腹は立たなかった。

「……ヒョク兄」

「ん?」

「俺……」

 どうしたらいい? という言葉が無意識に出掛けて、慌てて口を閉じる。

(……ダメだ)

 今ここで誰かに頼ったらダメだ。

 即位してまだいくらも経っていないのに、こんなに早く誰かに寄り掛かることを覚えてしまっては、王として一人で立てなくなってしまう。

 しかし、永豊君はホンウィが何か言葉を呑み込んだのを察したようだ。

「……ユウォル」

 耳元で名を呼んだ永豊君は、ゆっくりと身体を離した。互いの顔が見える距離になると、彼はヒタとホンウィを見つめる。

「……何だよ」

「何溜め込んでる?」

「別に溜め込んでなんか」

「前にも言ったよな」

「何を」

「言いたくないなら、言わなくてもいい。でも、それじゃ誰もお前を助けられないぞ。俺も含めてな。何を思ってるか、口に出してくれないと分からないんだって」

 沈黙を返すしかない。確かに、言われた覚えがある。

 あれは確か、首陽スヤンが父を殺した陰謀に加担しているかも知れないということが露わになり始めた頃だ。まだ数日しか経っていないのに、もう随分昔のことのような気がする。

 そっと吐息を漏らして、目を伏せる。

「ユウォル」

「……分かってるよ」

「何を」

「やることなんて、分かってんだ。どうしたらいいかなんて、ヒョク兄に訊かなくたって……」

「じゃ、それを言えばいい。何でも手伝うぜ」

 しばたたいた目を永豊君に戻すと、不敵に唇を吊り上げた彼と視線が合う。

「……いいのかよ」

「何が?」

「万一ヒョク兄も一緒に動いてんのが首陽叔父上に知れたら」

「バーカ」

 途端、額を指先ではじかれた。

いってっ! 何すんだよ!」

 反射で目を閉じ、額を押さえながら立ち上がった永豊君をめ上げる。永豊君は、腰に手を当てて呆れたようにホンウィを見下ろした。

錦城クムソン兄上だって言ったろ? 俺らもうヨチヨチ歩きの赤ん坊じゃないんだ。いくらフィジ兄上が亡くなって首陽兄上が一番の長兄になったからって、首陽兄上の顔色伺ってホイホイ従う年じゃねぇよ」

「それは……そうだけど」

 唇を尖らせながら返すと、永豊君は歩みを再開しながら、「お前さ」と言葉を継ぐ。

「自分がガキだって最近自覚したことねぇだろ」

「はあ?」

「口では自分でもガキ(そう)だって言ってるけど、腹ん中じゃ、もう自分は王なんだから誰にも頼っちゃダメだ、とか思ってねぇか?」

 綺麗に図星を指されては、ぐうの音も出ない。

「だけどよく考えろ?」

 数歩後ろを歩いていたホンウィに肉薄するように引き返してくると、永豊君は腰を屈め、立てた人差し指をホンウィの鼻先へ突き付けた。

「お前、まだたった十年生きただけなんだぜ。母親は生まれてすぐ、ついこないだ父親も亡くしたんだ。まだ部屋に籠もって泣き喚いてたって責められる謂われもない年だぞ」

「……だから何だよ」

 覚えずムッとして、ホンウィは永豊君を半ば睨み据えた。

「俺は立場上それは許されないんだよ。年齢は関係ないね」

「ま、世間の理屈じゃそうだな」

 クス、と苦笑を漏らした永豊君は膝も緩く曲げてホンウィと目線を合わせたまま続ける。

「だけど、俺らの前なら我慢しなくていいんだ。俺でも錦城兄上でも、オクランでもミョンオクでもいい。泣きたきゃ泣き付いたって恥ずかしいこたぁない。甘えたっていい。王である前にお前はガキで、一人の人間なんだ。我慢も溜め込むと、その内壊れるか爆発するかのどっちかだぜ」

「だから何でそう……」

 言い返す内に鼻の奥がギュッと痛んで、たちまち目の中に涙が溜まる。

「……バカヤロ……!」

 どうして甘やかすんだ。何でそう、涙腺を緩めてくれることを言うんだ。今誰かに寄り掛かったら俺は二度と立ち上がれなくなるかも知れないのに――

 と言った文句は、嗚咽に遮られて音にならなかった。次から次へと涙が溢れて止まらなくなる。

 父の納棺の儀の前夜、姉の腕の中で嫌と言うほど泣いた。頭が腫れ上がって痛むほどに泣いた。

 だからもう、涙なんて残っていないと思っていたのに。

 永豊君の腕が、優しくホンウィを抱き寄せる。

 柔らかく背を叩く掌に追い打ちを掛けられるように、ホンウィは彼にしがみついて、何日か振りに声を上げて一頻り泣きじゃくった。


©️神蔵 眞吹2021.

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