第五章 その女性、厄介につき【前編】
「ま……あ、世子様――いえ、殿下」
その邸の大門をくぐると、出迎えた女性が腰から優雅に上体を折った。
彼女がホンウィを呼んだ声を聞いて、庭先にいた私奴婢たちも一斉に仕事の手を取め、女主人と同様に礼をする。
「お久し振りです、叔母上。お元気そうで何よりです」
奴婢たちの手前、ホンウィはよそ行きの口調で女性に答えた。
「父の納棺の儀の折りはゆっくりご挨拶もできず、ご無礼いたしました」
「とんでもない。過分なお言葉、傷み入ります」
女性は、顔を上げて微笑を浮かべる。
気の強そうな顔立ちは、血の繋がりなどないのにどこか貞安翁主を彷彿とさせた。
「永豊君様も、ようこそ」
「義姉上。ご機嫌麗しゅう」
共に来た永豊君も、女性に頭を下げる。
「さ、お二人ともこちらへ。旦那様にご用なのでしょう?」
一通りの挨拶を終えると女性が身体を半身にし、舎廊房を示した。舎廊房は、一般的な両班屋敷の中では、その家の主の居所である。
「突然押し掛けて申し訳ありません。先日の貞安の誕生日祝いに、壽春兄上が顔を見せなかったもので気になって」
きょうだいが全員集まったというようなことを、先日錦城叔父は言っていたが、あとで永豊君が話してくれたところによると、壽春君も欠席だったようだ。
壽春君は、ホンウィの養母である惠嬪の真ん中の息子で、永豊君には同母の兄に当たる。
「何を仰います。どうぞ、お入りくださいませ。後程お茶をお持ちしますわ」
一礼した女性――壽春君の妻・鄭和晋はきびすを返し、一旦二人の前を辞した。
チマの裾が、クルリと花弁が舞うように回って彼女の動きのあとを追う。
彼女の後ろ姿を見送って、ホンウィは永豊君と舎廊房の前へ足を運んだ。
「兄上。チョンです」
沓脱石の前で永豊君が声を掛けると、「うん、いるよー」とどこかのんびりした声音が返ってくる。
あの叔父は、いつもあんな感じだ。王族としては型破りな祖父の息子だけのことはあるというか、ホンウィ個人の印象としては民間の俗世とも違うところで生きているように見える。
行こう、というように顎をしゃくる永豊君に頷いて、ホンウィも靴を脱いだ。
***
室内は見知ったそれだ。
ホンウィも外で育った関係上、ここへは時折お忍びで出歩く祖父と共に何度か訪れたことがある。
「やあ。よく来たねー、チョン。ユウォルも久し振りー」
奥行き三間〔約四・五メートル〕、幅二間〔約三・六メートル〕ほどの室内の奥に、そう言った人は座していた。
王族の居所だというのに、室内は白と黄土色で纏められた、実に素朴な造りだ。
彼の背後には山を象ったような意匠の背もたれがあり、その更に後ろには屏風絵がある。
ゆったりと四方枕〔脇息〕にもたれた壽春君が、何かの書物を片手に、空いた手を挙げた。
整った顔立ちに、うっすらとアバタがあるのが、どこか痛々しい。
幼少期、身体があまり丈夫でなかった彼は、軽い風邪から麻疹、疱瘡まで満遍なく罹患している。幼子が不意に亡くなってしまうような現在の医療状況で、よくまあ今の年まで生き延びたものだと、他人事ながら感心してしまう。
「昨日ねぇ、首陽兄上も来たんだー」
書物を閉じて脇に置きながら言われたことに、ホンウィはピクリと身体を震わせた。それが、壽春君に分かったかどうかは定かではない。
錦城と同じく、いつも浮かべられた笑顔がある意味での無表情になっている。
「座ってよ、二人とも」
言いながら壽春君は立ち上がって、上座をホンウィに譲った。
身分的には、国王であるホンウィのほうが、立場が上だからだろう。
「……孝緒兄が上座でもいいんだぜ?」
奴婢の目を気にしなくていい空間に来たので、ホンウィは言葉遣いを崩した。『ヒョソ』は、壽春君の字だ。
「ここは私的な場なんだし」
「んー、ダメだよ。万一、誰か奴婢でも来たらどうするのー。妻にだって見られたら、ボクの立場がないしー」
チチチ、と舌を鳴らしながら壽春君は立てた人差し指を左右に振った。
クス、と小さく苦笑を返して、ホンウィはそれ以上言い争わずに上座に腰を下ろす。
壽春君は、こういう人だ。一見すると、どこか世間体を気にしているだけのように思える時もあるが、相手に気を遣わせない術を心得ている。
「それで、何の用ー? ユウォルがここに来るのって、即位してから初めてだよねぇ」
外でも付き合いがあった関係上、壽春君もホンウィのことは字で呼ぶ。
「悪い。父上の納棺の儀の時、ヒョソ兄ともあんま話できなかったよな」
肩を竦めて言うと、壽春君も微笑した。
「冗談だよー。ユウォルってばホント、そーゆートコ生真面目だよねー」
「兄上っ」
咎めるように永豊君が割って入る。
「言う通りコイツ冗談があんまり通じねーんだから、脱線すると長いぞ」
「そーゆーヒョク兄は一言多いんだよ」
ボソリと言うと「何だとコラ」と案の定ドスの利いた声が返ってくる。
「あー、はいはい、そこまでにしてー。あと一回でも罵り合う空気が出たら、二人とも叩き出すよー」
口調がのんびりしてるので聞き逃しそうだが、先日錦城に似たようなことを言われたのを思い出す。母親こそ違えど、やはり兄弟だ。さり気なく台詞にトゲがあるところがそっくりである。
ともあれ、ホンウィと永豊君が互いに舌戦の矛を収めたのを見て取ったのか、壽春君が気持ち前に乗り出すように上体を傾けた。
「何か用事があるんでしょー? 大事な用事ー」
トン、と静かに胡座をかいた足の前に、壽春君は手を突く。
「今宮中、結構大変なんだってー?」
「……首陽叔父上に聞いたのか」
ホンウィは顎を引いて静かに問い返した。
別段、壽春君とは仲が悪い訳ではない。むしろ、永豊君に次いで親しいと言っていい。外で暮らしていた時から、この家でではないが、彼とも度々顔を合わせていた。
だが、これからする話は、言わば作戦会議のようなものだ。自然、身構えてしまう。
「うん。まー、首陽兄上だって本当のコトなんか全部話してくれるわけないよねー。あの人が話してくれたのは、自分に都合のいいところだけー」
クスクスと何かを面白がるような笑いを合いの手に、壽春君は肩先を上下させた。
「で、ユウォルは何が聞きたいのー?」
「……ヒョソ兄も相変わらずだな」
ホンウィも苦笑を浮かべて、肩を竦めた。
「じゃあ、単刀直入に訊く。父上の側室たちが不自然に昇格がないのは何でか知らないか?」
「フィジ兄上の側室の昇格ー?」
「ああ。心当たりとか、何でもいいんだ。何か知ってたら教えて欲しい」
「何でボクに訊くのかなー」
「誤魔化すなよ。ヒョク兄に聞いたことあるぞ。昔、ヒョソ兄は宮中の情報通だったって」
すると、壽春君は面白がるような微笑を引っ込めて真顔になった。彼の視線が、チラと自身の弟に向けられる。
しかし、彼は永豊君に何か言うことなく、視線をホンウィに戻した。
「父上……つまり、キミには祖父上だけど、ボクの父上が亡くなった時、ボクは宮殿を出たんだ。父上の側室だった母上と一緒にねー。キミだって知ってるでしょー。フィジ兄上の側室のコトなんて、兄上が在位中の後宮のコトじゃないー」
宮殿を出たボクが知るはずないでしょー、と言外に含まれた意は、ホンウィにも分かる。だが、ホンウィは食い下がった。
「父上の在位中のことじゃなくても、世子時代のことでもいいんだ。何か、側室同士の争いとか、なかったのか?」
「面白そうな話題だねぇ」
クス、とまた小さく笑いが漏れる。
「じゃあ、キミが知ってるコトをまず教えてよ」
「俺?」
「そう。自分の父上の側室について知ってるコトはある?」
問われて考え込んだ。
「ホン貴人……は、俺の乳母で……」
「それだけ?」
「姉上がいた。腹違いの……三ヶ月だけ上の姉上だったけど、三歳の時に亡くなったから、その姉上のことはほとんど覚えてねえ」
「ほかの側室はー?」
「ヤン司則は敬淑姉上の母上だ。変だなって思ったのは、ヤン司則が東宮殿付きの女官の地位から動いてないなって気付いたからで」
「本人もフィジ兄上も存命だった時にってコトだよね?」
「うん。ヤン司則は敬淑姉上のほかに、もう一人王女を産んでる。俺の妹だ。あの妹が生まれたのは父上の在位中だったのに、妹を懐妊した時も産んだ時も、昇格がなかった」
「貴人と司則以外の側室はどう?」
「ほかに……父上の子を産んだのは、鄭昭容と……チャン尚宮が今懐妊中だ。チョン昭容は俺が五歳の時に弟を生んでる。その弟も産後程なく亡くなったらしいけど……」
生まれた子が男児であることが判明した時点でチョン昭容こと鄭美準には昇格の宣旨があってもおかしくなかった。
もっとも、彼女が子を産んだ当時、父はまだ世子の位にいた。入宮当時、世子の側室の、下から二番目の位・承徽だった彼女は、男児を産んだ功で世子の側室最高位・良娣か、世子の正妃である世子嬪に昇格していても不思議はなかったのだが、父が世子の間はずっと承徽の位のままだった。
「チャン尚宮も臨月なのに、まだ承恩尚宮からの昇格はないし……」
「ねえ、一つ疑問なんだけどー」
ふと、壽春君が思い付いたように口を開く。
「そもそも何で、ユウォルはそんなコト調べようと思ったのー?」
いつの間にか俯いていたホンウィは、目を見開いて顔を上げた。一瞬の間が空く。
「……首陽叔父上から聞いたなら知ってると思うけど……」
再度、伏せた瞼の下で暫時視線を左右させ、躊躇いがちに口を開いた。
「ホン貴人の昇格と垂簾聴政の話が持ち上がってる」
「うん、聞いてるー。首陽兄上は、大方本決まりのコトだって言ってたけどー?」
「垂簾聴政賛成派には考えとくとは言ったけど、俺は認めるつもりはねぇんだ」
「あれれ、どうしてー?」
「分かってるだろ。あの人……苦手なんだよ」
ホンウィはその整った容貌を思い切り歪めた。
苦手な人間と巧くやっていかなければならないことも出て来る――そう覚悟はしているつもりでも、その範疇から外れる人物もいる。ホンウィにとって、ホン貴人はまさにその一人だった。
「できればフツーに顔合わすのだって御免蒙りたいくらいなんだぜ。死ねとまではさすがに思わねぇけど」
「ふーん。珍しいねぇ。ユウォルがそんな風に特定の人物毛嫌いするの」
「兄上ってもしかして、ホン貴人とあんま顔合わせたことないだろ」
そこへ、永豊君が口を挟んだ。
「うん。多分あんまりないー。こないだのフィジ兄上の納棺の時も、結局口も利いてないかもー」
「結構ユウォルにべったりなんだよ、あの人」
永豊君も、若干顔をしかめながらホンウィを立てた親指で示す。
「コイツがウチの父上の教育方針で宮殿出ることになったのだって、何割かはあの人が原因なんだぜ」
「そうなのー?」
「それは俺も知らなかった」
思わず言うと、永豊君はホンウィにも呆れたような一瞥をくれた。
「そもそも、お前の養母として最初に指名を受けたのは、ウチの母上だったんだよ。だけど、いくら信用がおけるからって、七年も前に子ども産んだっきりの人から乳が出るわけないだろ? どうしたってほかに母乳の出る女性を探さないといけなかった。最悪、余所から連れてくるとしても身分ある奴の奥さんじゃないと、大臣たちは納得しない。そんな状況の時、三月前に赤ん坊産んだのが分かってて、しかもそれがほかならぬ世子様のご側室だったらどうなる? 王室だったら飛び付かないわけいかないじゃん」
「その辺は俺も知ってるけど……その経緯に何か問題あんの?」
苦々しげな説明には、彼女を苦手としているホンウィも首を傾げた。別段、不自然なところはなさそうだが。
「経緯自体には問題ないんだけど……お前さぁ。不思議に思ったことねぇのか」
永豊君は、思う様眉根を寄せて反問した。ホンウィはますます首を傾げるしかない。
「何を?」
「お前が産まれた当時、王室には顯徳王妃様より先に子ども産んでた女がもう一人いただろ」
「えっ……あっ!」
言われて思い当たる。
つい先日、先に十一の誕生日を迎えたばかりの、二ヶ月だけ上の叔母――貞安翁主の母親が、まさに永豊君の言うところの、『顯徳王妃より先に子を産んだ女性』その人だ。
祖父の側室の一人、淑媛・李時華である。
「じゃあ何で……祖父様は、惠嬪母上には俺の世話を言いつけたのに、イ淑媛には乳母になるように指示しなかったんだ?」
「したさ。最初はむしろ、父上はイ淑媛にだけ乳母になってもらう腹積もりだったらしいんだ。けど、大臣から『世子様のご嫡子に乳を与えるのに、出産間もない方が世子様のご側室にもいらっしゃるのに、その方に乳母を頼まないのは筋が通りません』って意見が出たみたいで、最終的にはイ淑媛と、当時良媛に上がってたホン貴人に、応分に乳母の役目を申し付けた。でも、段々ホン貴人がお前を独占したがるようになったんだ。イ淑媛に嫌がらせしたり、陥れるって脅迫までして」
「はあ?」
ホンウィは思い切り眉根を寄せた。
「嫌がらせや脅迫ってそんな……いくら何でも、当時の王殿下の側室にか?」
「品階的には問題なかったろうよ。世子より王のが立場が上だから、側室陣もそうだって錯覚しそうだけどな。当時、良媛だったホン貴人は従三品。対してイ淑媛は従四品だ」
二階級上の品階をチラ付かされれば、イ淑媛に為す術はなかったかも知れない。
「だけど、イ淑媛も黙ってやられてたわけじゃない。早々に、ウチの母上に相談した。そうしたら、母上は昭憲王妃様にチクった。それで最初は、昭憲王妃様がコトを収めようとしたらしい。何せ、内命婦の長は王妃だからな。でも、ホン貴人は、当時は良媛でありながら王妃にさえ従おうとしなかった。お前を、胎を痛めて産んだ子だって言い張ってな。それで父上の耳にも入って、父上が間に入らざるを得なくなったみたいだ。そのあと、何がどうなったのか、俺も詳しくは知らないけど、結局はホン貴人に全面的にお前の乳離れまでを任せることになったらしい」
開いた口が塞がらない、という気分を、ホンウィは即位してから何度目かで味わう羽目になった。
「……何でヒョク兄は、それを今まで俺に黙ってたわけ?」
思い切り眉根を寄せて唇を尖らせると、「訊かれたことなかったからな」とあっさり返される。
そう言われれば、文句の言い様もなかった。話題に上ったことがないのだから、仕方がないと言えば仕方がないだろう。
「……とにかく、イ淑媛にも話を聞いたほうがよさそうだな」
吐息混じりに、無意識に漏らす。
「そう言えば、乳離れの時も一悶着あったよねぇ」
どこかのんびりとした壽春君の呟きに、ホンウィは「まだ何かあんのかよっ!」と思わず叫んで永豊君に向き直った。
彼は、「まぁな」と肩を一つ竦めて言葉を継ぐ。
「乳離れしていざウチの母上に主導養育権が移ろうって時になって、ホン貴人は半狂乱になった。あの人の言葉そのまま言うけど、『この子はわたくしの子です。なのに何故惠嬪様にお任せせねばならぬのです。世子様。殿下にお取りなしくださいませ。この子はわたくしと世子様のお子ではないですか!』ってな」
「まー、それまでお乳あげてたんだから、情が移っちゃうのも仕方ないよねぇ」
「にしたって、我が子同然に思ってたとしても実際に言うか? 公式に養子縁組みしたわけでもねぇのに、『この子はわたくしと世子様のお子』だなんてさ」
「……あの人なら言うかも」
ホンウィは溜息を吐いてボソリと言った。
あの乳母が、支配欲と独占欲が強いのは薄々察していたが、昔からだったらしい。
首陽叔父が口にした、『我が子同然に思っている』というような言葉とは、若干意味合いが違う。本気で自分が胎を痛めて産んだと思い込んでいるのだから、タチが悪いのかどうなのか。
生まれてすぐ母を亡くした自分に乳をくれたのは感謝しているし、我が子のように愛してくれているのも分かる。だから無碍に撥ね付けられないというところが、掛け値なしに厄介なのだが。
「とにかく、俺は俺が見たことからしか判断できねぇから、父上の本当の考えは分からない。ただ、その一件から、早い内にホン貴人からユウォルを離したほうがいいとは思ってたらしいぜ」
「へえ……」
思わず、他人事のような声が出る。
これも前々から思っていたが、祖父の観察眼はちょっとタダモノではない水準だ。
すると、「へぇって何だよ、へぇって」とすぐさま永豊君にツッコまれた。
「何だよって言われても」
「まるで他人事みたいだぞ?」
「んー……その辺の裏事情、あとから聞かされてもそうなのかって思っただけって言うか……」
ホンウィは、無意識にうなじの辺りを掻きながら続けた。
「祖父様に直接聞いたわけじゃねぇし」
「父上なりにお前に気ぃ遣ってたんだよ。もしかして、ホン貴人を実の母親のように思ってたら、可哀想だって。母を悪く言われていい気分のする息子はいないからってな」
「……そっか」
とは言え、ホンウィが宮殿を出たのは、物心付くか付かないかの頃だ。
ふと気付いた時に養母として傍にいたのは、惠嬪のほうだった。その為、祖父の友人である元・内禁衛の武官宅で世話になっている間は別として、ホンウィの中での養母はホン貴人と惠嬪、というよりは惠嬪だけだ。
「それでー? チョンの言い分は分かったよー。けど、ユウォルは?」
「俺?」
「うん。ユウォルはユウォルなりにホン貴人を苦手だなって思う理由があるんだろー?」
「……あー……」
改めて問われて、ホンウィはかすかな記憶を手繰り寄せた。
©️神蔵 眞吹2021.




