第十二章 狭間で揺れる思い
「な、んだって……?」
覚えず、唖然とした。
相手の言ったことが、耳を素通りして脳に留まらない。
「冗談だろ? 目撃者がいないって、そんなバカな……」
言ったのは、永豊君だ。ホンウィもまったく同じ思いだったが、それを口に出せない。舌が動かなくなったような錯覚に陥る。
言葉は聞こえているが、意味がうまく呑み込めなかった。
「いえ」
しかし、コンは無情にも『嘘であって欲しい』と思う報告を肯定し続ける。
「正確には、目撃者は何人もおりました。ですが、実際に裁きの場に出て証言するとなると、皆一様に拒否するのです」
「どういうこと?」
温厚な錦城叔父の声も、通常より一段低い。
「目撃者は何人もいるって言ったよね。その目撃者と証言は控えてあるんでしょ?」
「無論です、錦城大君様」
「じゃあ、その内容をまず報告して。何か考えるのはそれからだ」
普段、一見『ぽえーん』として見える錦城も、これで一国の王子である。
それに、コンを除けば室内にいる中では最年長だ。やはり、経験が違うのだろう。一時の衝撃から立ち直るのも、切り替えも早い。
しかし、それでもコンはまず、ホンウィの意思を確認した。
「……殿下。よろしいでしょうか」
「……ああ。続けてくれ」
それだけやっと絞り出して頷くと、コンも目礼を返して口を開く。
「承知致しました。細かい証言や証言者など、纏めたモノは司憲府で管理しております。必要なら後程お届け致します。ですが、証言者の人数に対して、証言は一つのことに纏められますので、今、わたくしの口から申し上げます」
前口上を終えると、コンは一呼吸置いた。そして、躊躇うような間ののち、言葉を継ぐ。
「まず、結論から申し上げます。思政殿の南回廊で御医と話をしていたのは……都承旨、カン・メンギョンと……首陽大君様でした」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
調査の過程で、薄々予測していたことだった。けれど、決して認めたくないことでもあった。
そうではないかと気付いていながら、今この時まで、はっきりとした言葉で形にして来なかった。
呼吸を思い出したような吐息が、短く漏れる。ちゃんと座っていられるのが不思議なくらいだ。
「……それで……そのことを、公式の場で証言するのを皆が渋ってるのは、どうして?」
問うたのは、やはり錦城だ。
口を開くと同時に立ち上がった彼は、ホンウィの傍へ来て、宥めるように肩を抱いてくれた。
「……それを話してくれたのは、一人だけです。ですので、それが果たして真実かどうかは、現状、測り兼ねるのですが」
「構わないよ。その人は、何て言ってたの?」
問いを重ねながら、錦城はホンウィの抱いた肩を、優しくさすってくれる。幼子に、大丈夫だよと言い聞かせるように。
「遣いが……来たそうです。司憲府の調べが進む前……三日前のことだとか」
「三日前に、遣い?」
「はい。その者が言うには、遣いは、もし先王殿下が亡くなられた朝のことを誰かが訊きに来たら、答えても構わないが命の保証はないと申したそうです」
「何だよそれ。完璧に脅しじゃん」
呆れたように永豊君が呟く。
「左様です。ただの脅迫ですが、相手が王族となると洒落になりませぬゆえ」
「それで、その遣いって誰?」
「漢城府参軍、洪允成だそうです」
「漢城府の参軍?」
漢城府とは、都内の司法・行政全般を担っている部署で、参軍はその中の、正七品相当の役職だ。
「はい。彼はほかにも、先代王殿下の頃に、通禮門奉禮郎に兼任を命じられております。今も、その職は解かれておらぬはずです」
通禮門というのは、国家儀礼担当部署を指し、奉禮郎は、従六品相当の役職である。主に、外交を伴う公式行事の際に、世子に付き従うのが職務だ。
だが、ホンウィが世子だったのは、たった二年の間のことで、外交を伴う公式行事は経験がない。
「……ほかにも、父上から佐郎の職を賜ってたな」
「ホンウィ?」
「殿下。ホン・ユンソンをご存知で?」
「……ああ。首陽叔父上が、父上から陣書の撰述の仕事を任されてたことがある。その時に、一緒に陣書を書く仕事をしてるんだって、確か首陽叔父上に紹介されたことがあったんだ。今思い出したけど」
まだ心から信じていた頃の首陽が紹介してくれた男の顔は、ぼんやりとしか覚えていない。けれども、印象として、どこか得体が知れないと感じたことだけは、鮮明に記憶に刻まれている。
「佐郎ってコトは、六曹のどこかにも勤めてるってコトだよね」
「陣書……つまり兵法系の書の編纂、ということは、恐らくは兵曹でしょう」
佐郎というのは六曹の中の、正六品相当の役職で、ユンソンが兼任で就いている官職の中では一番高い地位だ。
「……如何なさいますか、殿下」
コンが、渋くなりっ放しの顔をこちらへ向け、錦城も腕を緩めてホンウィに視線を落とした。
ホンウィは、コンから目を逸らすようにして、軽く瞼を伏せる。
(どうするって)
そんなモノは決まっている。
首陽とチョン・スヌィ、カン・メンギョンに対して調査結果を突き付け、黒幕を吐かせる。そして、然るべき裁きを与えて、父を死なせた罪を償わせるのだ。
それを命じればいいだけなのに、ホンウィは口を開くのを躊躇う。
せめて、容疑者の中に首陽が混ざってさえいなければ、とっくにそうするように命令している。
(何でだよ)
脳裏の中にいる首陽に問うても、答えは返らない。
膝に置いた拳を、きつく握り締め、唇を噛む。
(そもそも……本当に首陽叔父上は、父上を殺す企みに荷担したのか?)
考えてみれば、ここで得られた証言は、首陽がメンギョンとスヌィと、思政殿の南回廊で話をしていたという事実に関してだけだ。
「……話の内容までは……分からないよな」
「申し訳ございません。そこまでは」
「だよな……」
尚も逡巡したあと、ホンウィは錦城の身体をそっと押しやりながら立ち上がる。
「ホンウィ?」
「ありがと、叔父上。もう大丈夫だから」
半ば、自身に言い聞かせるように言って、コンに視線を転じる。
「コン」
「はい、殿下」
「悪いが今から司憲府にとって返して、証言を纏めた記録と、軍士を必要なだけ引っ張って来てくれるか」
「どういう意味でしょう」
「司憲府にチョン・スヌィ、ピョン・ハンサン、チェ・ウプとカン・メンギョンを移送して尋問する」
「ほかの医官たちは」
「連中は証言しようにもできねぇだろ。正真正銘、何も知らねえんだから。義禁府と台諫の決定をそのまま執行する。この辺は、御前会議の場で言わないと実行はできないけどな」
「分かりました」
「尋問の場には俺も立ち会う。移送の準備ができたら知らせろ」
「承知いたしました。では、御前失礼を」
コンは、キビキビと頭を下げて、執務室を退出した。
しばしの沈黙を挟んで、錦城が口を開く。
「……ホンウィ」
「ん」
「本当に平気?」
「……ヘーキだって言ったら嘘だけどな」
クス、と自嘲気味の笑いが、無意識に零れる。
「だとしても、これが現実なら見るしかねぇだろ。今、逃げたら……この事実から目を背けたら、父上が殺されたってことまで有耶無耶にしなきゃならなくなるんだ」
だからしっかりしろよ、と内心で自分を叱咤し、唇を噛み締めた。
父も首陽も――ホンウィにとっては同じくらい、秤に掛けられぬほど大切な二人なのに、どうしてどちらかを捨てねばならない状況に陥っているのか。
誰か、これは夢だと言ってくれたら、どれだけ救われるだろう。
今すぐ自分ですべきことを放棄して、目も耳もふさいで小さくなっていられたら、どれだけ楽だろうか。
胃が捩れて目眩がしそうだ。
「……ホンウィ」
「ん」
「兄上には……どうする? 来て貰うの?」
ホンウィと目を合わせるように、錦城が床に膝を突いた。
瞬時、ホンウィは目を泳がせて、錦城に視線を戻す。
「……やめとく。首陽叔父上がいたら、得られる証言も得られなくなるかも知れないし」
「どんな証言が得られぬと言うのだ」
それまでここにいなかった――今もっとも避けたかった人物の声がして、思わずビクリと身体が震えた。
錦城が素早く立ち上がって身構え、永豊君が椅子を蹴った。一拍遅れて、椅子が引っ繰り返る派手な音が響く。
「あ、」
「首陽、兄上」
「何だ。ユとチョンも一緒だったのか」
柔らかく微笑しながら、首陽は二人の弟たちを諱で呼んだ。
「どうした。ホンウィもそんな、幽霊でも見たような顔をして……私に聞かれたくない話でもしていたようだな」
別にそうじゃない、と言おうとしたが、どうにか呑み込んだ。
(落ち着け)
こういう時に、立て板に水と喋るのは逆効果だ。自分で自分の反撃の機会を潰すようなモノである。
瞬時、目を閉じて、ホンウィは必死で仮面をかぶった。いつも通りの、無邪気な甥の仮面だ。
「……珍しいな。首陽叔父上が執務室まで来るなんて」
「いや、何。近くを通り掛かったのでな。それにしても、凄い量だな」
「……あー……この上疎?」
「何の上疎なのだ」
「こないだの『人間は身分性別に関わらず平等』発言に対する上疎。好きに上げろー、とか言っちゃったらホントーに上げてくんだもん。しかも見ての通りてんこ盛りで」
「それで、ユとチョンは呼んだのに、私は呼ばなかったのか?」
「あー……だって、叔父上はあんまりよく思ってねぇみたいだったから……」
「そんなことはないぞ。お前が考えを改めたのなら、いくらでも代筆くらい手伝う」
ホンウィは、一瞬眉をひそめた。
「……改めるって」
「そうだ。人間は身分も性別もわきまえねばならぬ。それにお前が気付いたのなら、もう大丈夫だろう。私も肩の荷が下りる」
今度こそ絶句した。またしても、舌が動かなくなった錯覚が戻る。
「ホンウィ?」
「……ああ、いや……改めるも何も、俺はそういう批答を書いてるつもりはねぇんだ」
「何?」
咎めるように問い返されて、瞬時迷った。
ここで、正直に言ってもいいのだろうか。そうしてしまったら、首陽のほうに何か、こちらを警戒させる要素を与えてしまうのではないか。
そう思った途端、ハタと自問した。
(警戒させる? 叔父上に、俺を?)
警戒とは、何だろう。何を、警戒するのか。首陽がホンウィを警戒する必要などないはずだ。
先日、永豊君から聞いた、首陽が王位を欲しがっているという話は、敢えて頭の隅へ追いやる。まだうまく呑み込めなくて、聞かなかったことにしたかったのかも知れない。
「ホンウィ」
呼ばれて、我に返る。沈黙が長すぎたのだろう。
何も知らない、今まで通り無警戒に無邪気に振る舞う甥ならどうするか、をその一瞬で考え、口を開く。
「だってそうだろ? 仮にここで大臣に合わせて謝ったらどうなる? そうしたらもう俺は一生、自分の考えを通すことなんてできなくなるじゃねぇか」
「ホンウィよ。それこそ間違いだ。王が自分の考えを通すというコトは、時に独裁を生む」
「それくらいは分かるよ。でも、それは時と場合によるんじゃねぇの? 叔父上も言っただろ。王が大臣の顔色を窺ってるようじゃ、王権を弱めるって」
すると、首陽が珍しく虚を突かれたような顔をした。
「……まったく……いつまでも幼いと思っておったに」
苦笑して、首陽はホンウィの肩をポンポンと叩くと、膝を突いてホンウィと目を合わせた。
「だがな。この場で己の考えを通せるのは、力のある王だ」
「俺は違うってのか?」
「そうは言っていない。でも、お前はまだ子どもだからな。こういう時は相手に調子を合わせるほうがいい。年を重ね、力を付けたら徐々に味方を増やして、自分の考えを貫く。それが賢いやり方だぞ」
反論しようと開いた口からは、呼気が漏れただけだった。
父の件を別にすれば、確かに首陽の言い分は正しい。今突破できないと分かっている壁に、正面から愚直に体当たりをするのは、まさしくバカのすることだ。
「……分かった。肝に銘じとく」
首陽は満足げに微笑すると、ホンウィの頬を軽く撫でた。
「なら、上疎の件は、あとで私も手伝おう。それより、私がいては何の証言が得られぬという話をしていたのだ?」
ホンウィは覚えず、内心で舌打ちした。
(めちゃめちゃ巧く話逸らしたと思ったのにっ)
やはり、人生経験の差は如何ともし難いのか、それとも、単に記憶力の問題か。首陽もこう見えて、意外に文武両道型なのだ。
「……別に……大した話じゃない」
「だが、私がいては困る話だったのだろう?」
「違うよ。ただ……叔父上に不利な証言が出て来たから、はっきりするまで耳に入れたくなくて」
「……ホンウィは優しいな」
クスリと小さく笑って、首陽はもう一度ホンウィの頬を撫でる。
「けど、大丈夫だ。どんな証言が出たかは知らぬが、私には何も後ろ暗いことなどない。誰が悪し様に私を貶めようと、お前や親しい者が信じてくれるなら、恐ろしいとも思わぬ」
「叔父上……」
「だから、本当のことを聞かせておくれ。何の話だったのだ?」
ひたすら優しい目をする首陽を見つめていると、これまで聞いた話がすべて夢だったのではと思えてくる。
やっぱりこの人は、信頼に足る叔父ではないのかと。王位を狙っているなんて、祖父や永豊君の思い違いではないのか。
自分以外の意見を伺おうにも、錦城はホンウィの少し後ろに下がってしまっているし、永豊君は真後ろだ。顔を振り向ければ、首陽にも丸見えになってしまう。
「ホンウィ?」
自然、視線は下へ向いた。唇を噛み締める。
涙が出そうだった。疑ってごめん、と言ってしがみつきそうになるのを、どうにか堪える。
「……叔父上」
「ん?」
「父上の……死因に関することなんだ」
「そうか。兄上のご逝去に関わることなら、私にも関係がある。どんな証言が出たのだ」
「今は……まだ言えない」
「ホンウィ」
「これから……関係者を司憲府へ移送して尋問するんだ。だから、もう少し待ってくれ」
できるだけ、毅然と見えるように意識して目を上げる。
困ったようにこちらを見る首陽の視線が痛いような気がしたが、懸命に逸らすことなく見つめ返した。
首陽が何か言うより早く、「殿下」と外から声が掛かる。
「何だ」
「失礼致します。殿下」
入ってきた尚膳は、軽く頭を下げて続けた。
「大司憲様がおいでです」
「分かった、すぐ行く。外で待つように伝えよ」
言うと、尚膳は再度頭を下げ、退出する。
「叔父上。せっかく来てくれたのに、ごめん。行かないと」
「……そうか。そうだな」
「錦城叔父上もヒョク兄も、散らかしたままで悪い。今日はもう帰ってくれて構わない。書類もそのままにしといてくれ。あとで片付けるから」
錦城と永豊君が、何か言葉を返す前に、ホンウィは執務室をあとにした。
©️神蔵 眞吹2018.




