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第十一章 見え隠れするモノ【後編】

垂簾スリョン聴政チョンジョンやるのがあの人だってところは受け入れられない。その辺りも全部引っ(くる)めて、考える時間が欲しい」

 やや跳ね付けるように言うと、珍しく眉尻が下がりっ放しの首陽スヤンは、すくい上げるようにしてホンウィを見た。

「ホンウィ。私は何も、彼女に丸投げするなどとは申しておらぬぞ」

「ならどうするってんだよ」

「これまで内命婦ネミョンブ〔朝鮮王朝版大奥〕をまとめて来た手腕はあるが、国政となると彼女も未経験だ。当分は私が彼女を補佐する」

「首陽叔父上が?」

 ホンウィは眉根を寄せた。

 宥めるようにこちらを見つめる首陽の真意が、まったく読めない。本当に単純に補佐をしてくれようとしているだけなのか、それともほかに何か意図があるのか。

 たった一日で、首陽の言葉の裏を考えてしまうようになった自分に嫌気が差す。

「……そう、か。首陽叔父上がいるなら、安心だな」

 そうして、笑顔の仮面で彼に接しなくてはならないと感じるようになった、自分にも。

 それに気付いているのかいないのか、首陽もまた安心したような微笑を返す。彼の微笑が仮面かどうかの判断さえ、ホンウィには付かない。

「でも、あと数日でいいから、好きにやらせて欲しいんだ」

「どういう意味だ」

「父上の、死因の件だ。これだけは、自分の手でケリを付けたい」

「ホンウィ。だからそれは」

「叔父上が聞いてくれたことは考慮するし、信じてる。だから、……頼む。最後までやらせてくれよ」

 先刻の首陽を倣って、ホンウィは縋るように、首陽を見た。

 首陽も、こちらの真意を測っているのか、じっとホンウィを見つめ返す。やがて、彼は睨み合いに根負けしたとでも言いたげに、「分かったよ」と吐息に乗せて言った。

「では、最終的に結論を出す時には呼んでくれ。それに、何かあったら必ず相談するんだぞ。何でも力になる」

「うん。ありがとう」

 それに頷くかのように首陽は腰を浮かせ、ポンポンとホンウィの肩を叩く。

 離れていく掌は、今まで通り、優しくて温かかった。

 一瞬でも疑ったことが、恥ずかしくなるほどに。

 けれど、結局その場でホンウィが更に何か言うより先に、首陽はきびすを返して退出して行った。


「何か……あったのかな、兄上」

 首陽の背を見送って、ややあってから、錦城クムソンがポツリと呟く。

「何かって?」

 ホンウィが訊ねると、錦城は心配げな表情でホンウィに向き直った。

「だって、いくらホンウィの為だって、ホンウィに黙って何かするようなこと、今までなかったでしょ?」

「ああ……」

 これまでの首陽らしくない言動、それに感じる違和感――それらが、この一日で生まれた疑惑を、限りなく膨張させる。けれど、たった今、肩に触れていた温かさも嘘じゃない。

 ホンウィは、無意識にその肩に触れて、握り締める。

(どうしたらいい。何を信じれば)

 唇を噛み締めた。

 今まで、こんなことを悩むなんてなかった。信じるという単語さえ考えたことがないほどに、首陽は信頼に値する叔父だったのだ。

「それに、垂簾聴政に内宮ネグンを推すなんて、人選違いもいいトコだよ。確かに、内命婦を差配してた手腕は認めるけど……」

「錦城兄上」

 不意に、それまで黙っていた永豊君ヨンプングンが、冷えた声音で兄を呼んだ。

「悪いけど、兄上も席外してくれる」

「チョン?」

「ヒョク兄」

 錦城とホンウィの呼ぶ声が、見事にかぶる。

 しかし、永豊君は頓着することなく、錦城に視線を向けた。

「この様子なら、錦城兄上は信用しても大丈夫だと思う。だけど、錦城兄上から首陽兄上に伝わらないって確信が、俺はまだ持てないから」

「それ、どういう意味?」

 錦城が、心底怪訝そうな顔つきで首を傾げる。

 永豊君は、もう彼から逃れるように目を伏せてしまっていた。弟から答えを得られないと見たのか、錦城はホンウィに視線を向ける。だがホンウィも、肩を竦めるしかない。

 ホンウィには、永豊君の懸念が痛いほど分かっていた。それを説明することすら、懸念を現実にするかも知れない。これ以上の会話はできなかった。

 詳細は分からずとも、こちらの意図を敏感に察したらしい。「分かったよ」と言って錦城も立ち上がった。

「でも、ホンウィ。これだけは言わせて。僕は、いつだって君の味方だから。本当に困ってどうしようもなくなったら……味方がもう少し欲しいなって思ったら、でもいいよ。きっと声を掛けてね。僕でできることはするから」

「……うん。ありがとう」

 すまない、という意の含まれた謝辞に、錦城は気付いただろうか。

 ほんの少し、寂しげなモノが潜んだ微笑を返して、錦城もその場をあとにした。

 しばしの沈黙を挟んで、先に口を開いたのはホンウィだった。

「ヒョク兄」

「ん」

「さっきの、どういう意味だよ。確かにもう首陽叔父上を警戒すべきだってのは……そうしたくはないけど俺にだって分かる。だけど」

「ユウォル」

 ホンウィの話を遮るように口を開いた永豊君は、いつになく険しい目をしてこちらを見た。

「さっきは言わなかったけどな」

「さっき?」

「ホラ、宮殿に戻ってから資善堂の前で首陽兄上を見かけた時だよ」

「あ、ああ。何を言わなかったって?」

「いや……何か、お前が変に気ィ回してくれたから、それこそ黙ってるのが思いやりかと思ったけど、この際だからはっきり言うぞ。俺は、昔から首陽兄上をあんまりよくは思ってねぇんだ」

「へ?」

 ホンウィは、また思わず間抜けな声を出した。それに頓着することなく、永豊君は続ける。

「あくまでも俺の所見だから、お前に同じように思えとは言わない。だけど、俺の目から見た首陽兄上は、ぶっちゃけ二重人格者だ。仮面をかぶるのがモノっ凄く巧い。お前はまだ小さいから分かんないだろーし、俺も十二、三歳くらいまではうまい具合に騙されてた。その点は率直に言って、兄弟ん中でも随一だと思う。安平アンピョン兄上はその辺下手くそだな。ま、ある意味分かり易いとも言えるけど」

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。それ、本気でどーゆー意味?」

 慌てて問い質すと、永豊君は、呆れとも憐れみとも取れる流し目をくれた。

「今後はもうちっと観察眼養えよ。そりゃ、お前の年にしちゃお前の洞察力は飛び抜けてるほうだけど、ちょっと素直すぎる」

 褒めているのか貶しているのか、判断に迷う一言を挟んで、永豊君は言葉を継ぐ。

「俺は上の兄上たちとかなり年が離れてるし、その分一緒にいた時間は少ない。特に、十歳頃からは外にいたから、尚更な。だから、確たることは言えねえけど。正妃の王子として生まれて、王位にまったく興味がないのは、錦城兄上と永膺ヨンウン兄上くらいのモンだ。隙あらば奪いに掛かるのがはっきり分かるのは、首陽兄上と安平兄上。それ以外は様子見で、保身図ってる。側室腹の奴もな」

「嘘だ、そんな……!」

「だーから、別に信じる信じないはお前の勝手だって言ったろ」

 表情を変えずに、永豊君はヒラヒラと寝かせた手を縦に振った。

「但し、王位に興味はないのは確かだけど、永膺兄上はアテにするなよ。アイツは昔っから首陽兄上にべったりだから」

 通常、この国で兄に向かって『アイツ』呼ばわりは不敬もいい所だ。しかし、永膺大君と永豊君は、兄弟と言っても同い年で、四ヶ月ほどしか違わない。これが仮にまったくの他人、友人同士の関係なら、『アイツ』呼ばわりでも不思議はないような差しかないから、たまにこんな物言いにもなるのだろう。

「……つまり、首陽叔父上たちと敵対しろってことか。それとも、味方を増やせって話か?」

 すると、彼はニヤリと唇の端を吊り上げる。

「さすがに察しがいいな。両方だけど、後者の比率のほうが高い」

 反応できなかった。

 今はもう、疑うべき要素が無視できないほど膨れ上がってはいるが、つい昨日まで信じ、頼りにしていた人と敵対するなんて、すぐには感情が付いて来ない。

 それを察したのか、永豊君は息を吐いた。立てた膝に頬杖を突いて言う。

「まあ、その辺は追々整理付けとけよ。生半可な気構えじゃ、あっという間に王位から引きずり下ろされるぜ」

 過激な発言が出ても、容易には呑み込めなかった。唖然とした口調のまま、疑問を音にする。

「……何で……ヒョク兄はそんなこと……叔父上たちから直に聞いたわけじゃねぇんだろ?」

「まあな。兄上たちとは確かにそういう話はしなかったけど、お前にくっついて宮殿出ることになったからってんで、父上から直接聞いた」

「……祖父じい様から?」

 盛大に眉根を寄せると、永豊君は頷いた。

「ああ。お前はまだ、今より小さかったろ? いずれ時期が来たら俺から話してやれって、父上に言われてた。十四の時かな。種明かしされたら、思い当たる兄上の行動はいくつもあったし」

「……例えば、どんな……」

「“自分はこんなに滅茶苦茶優秀です、だからフィジ兄上じゃなく自分を世子セジャにしてください”っていう自己主張が必要以上に激しいっていうか……王室で狩猟会があった時なんかに、結構率先して獲物を仕留めようとしたりとか。それを首陽兄上と安平兄上が競ってやったモンだから、食事がしばらく肉料理ばっかだったりしてさ」

 思わず吹き出した。

 主張しようとしたのは、明らかに武術の腕だろう。しかし、その結果、必要以上に獲物を捕り過ぎる結果になったのであろうことは、想像にかたくない。

「あんまり肉料理が続いて、水刺間スラッカンの筆頭尚宮(サングン)も、料理のネタが出尽くして万策尽きたから殺してくれって言い出すし、いい加減みんなも飽きた頃に、民にも下げ渡してやればって誰かがボソッと言って、そしたら『何でそれを早く思い付かなかったんだ』って父上が怒り出したことがあって」

「い、いい、もうっ……ヤバい、腹筋が捩れる」

 口元を押さえても笑いが止まらなくなってしまった。

 こんなに笑ったのは、父が亡くなってから初めてだ。

「……そんなにツボにハマった?」

 呆れたような問いに答えることもできず、ホンウィはしばらく文机に縋るようにして突っ伏し、肩を震わせていた。

「ッッ……はっ、はー……あー、笑った。何それ、おかしすぎ。つか、陰謀の話じゃなかったのかよ」

「まあ、陰謀の一端って言えば一端だけどな。笑い止まったトコで、話戻していいか」

 冷たい目線と、同じ温度の声音で問われて、ホンウィは首を縮める。

「……はい、スイマセン」

「……お前としては、どうするつもりなわけ?」

「どうって」

「さっき、首陽兄上に言ってただろ? フィジ兄上のご逝去の件は、自分でケリ付けたいって」

 その一言で、まだ笑いの残滓に浸っていた脳内は、一瞬で現実に戻った。

「……大司憲テサホンの報告次第かな。結果が出るまでに三日ぐらい要るって言ってたろ」

「ああ」

「あとはヒョク兄の報告の内容も、考慮するのに要る材料だけど」

「俺?」

「さっき、どうだったわけ? 資善堂で御医オウィたちと話したんだろ」

「あ、ああ……」

 途端、永豊君は不自然に目を泳がせる。

「正直に言えよ。これ以上何言われたって驚きゃしないし衝撃受けたりもしない」

「……連中は、だんまりだった」

 目を伏せたまま、深刻な声音で永豊君は続けた。

「何も言わねえんだ。首陽兄上と何を話していたのか、全然何も。俺の質問さえ、耳に入ってないんじゃねーかって錯覚するくらいだった」

「……ま、ある程度予想付いてたけど」

 ホンウィは、肩を竦める。

「なら、あとは大司憲の報告を待って決める。それまでに……ちゃんと心の整理もするよ」

 言うと、永豊君はどこか心配げな目をして、吐息と共に言った。

「色々言っといてなんだけど……無理すんなよ。何かあったら呼べ。俺でも、ウチの母上でも、錦城兄上でもいいから」

「あれ、錦城叔父上、解禁?」

 おどけたように問えば、永豊君もようやくいたずらっぽく微笑して釘を刺した。

「口止めは忘れるなよ」


***


 それから三日。

 このかんをホンウィとしては暇に過ごすつもりは更々なかったのだが、違う意味でまったく暇ではなかった。

「……何かあったら呼べ、とは言ったけどよぉ……」

 地を這うような声音を落として、机に突っ伏していた顔を上げたのは永豊君だ。

「残務処理に呼べなんて言った覚えはねぇぞ!!」

 ダンッ! と机に彼の拳が振り下ろされ、積まれた上疎がバサバサと無惨な音を立てて床へ崩れる。

「だーって、こればっかりはほかの大臣とか首陽叔父上に頼むわけいかねーしさぁ」

 ホンウィは、もう何通目か、数える気にもならない批答ピダプを書き上げた紙を、空いた場所へ置いた。墨を乾かす為だ。

 批答とは、臣下の上疎に対する王の返答書のことである。

 先日、夕刻の会議のうっかり発言に、重ねてうっかり『上疎でも何でも好きに上げろ』などと言ってしまった所為で、その三日後、つまり一昨日の朝のことだが、執務机に上疎がてんこ盛りになっていたのだ。

 それも、王個人の執務机だけではなく、執務室の机全部にだ。何に対するどういう嫌がらせかと、一瞬本気で思ったくらいだ。

 ざっと見たところ、内容はすべて『人は身分性別に関わらず平等』発言に対する苦言(と上疎を書いた本人たちは思っているだろうが、ホンウィにとっては違う)だった為、ホンウィは早々にこれに一人で批答を書くことを放棄した。

 何かあったら呼んで、と言ってくれた人間が、確か二人ほどいたので、ホンウィはその日の昼間の内に集合を掛けたのである。

「まあ、仕方ないよねぇ。僕ら、自分で墓穴掘っちゃったんだもの」

 クスクスと笑いながら、ホンウィの書いた回答例の通りに代筆作業に精を出しているもう一人――錦城が、書き上げた一枚をやはりホンウィと同じように空いた場所へ置く。それから、返信を書き終えた上疎を、処理済みの箱へ放り込んだ。

 その処理済みの上疎を入れる為に用意した箱は、すでに二箱分が一杯になっている。

「悪いな。錦城叔父上まで巻き込んで」

 ホンウィも、処理が済んだモノを箱に投げた。が、上疎の巻物で溢れ返ったそこから、放り込んだ上疎は弾かれる。

 仕方なく、床へ転がったそれを箱に入れる為に立ち上がったホンウィを、錦城の明るい声が追った。

「いーのいーの。どうせ暇してるんだもん」

 他方、永豊君は、比較的整った顔立ちを盛大にしかめている。

「おいコラ、ユウォル。俺には詫びの言葉はねぇのか」

「どーもスイマセン、永豊叔父上」

「こんな時ばっか、ざーとらしい叔父上呼びすんなッッ!!」

 再び永豊君の拳が机に落とされ、上疎がもう一度雪崩を起こす。

「あーもー、ヒョク兄。ちゃんと未処理の上疎拾っとけよ。そろそろ処理済みと混ざって面倒くさくなるから」

「誰がうっかり発言した所為だよ!」

「スイマセン俺です、永豊叔父上サマ」

「だーから、ざーとらしい叔父上呼び、やめろってんだろ!!」

 はいはい、と適当になしながら、ホンウィは立ち上がったついでに、処理済みの書類を未処理のモノから引き離す作業に入った。

「……にしてもコレ、どー見てもあん時あの場にいた大臣のだけの数じゃねぇよな」

 持ち上げようとした箱はさすがに重く、ホンウィはひと箱目をズルズルと引きずりながら眉根を寄せる。

「こーゆー時は、出仕してない儒者とか、成均館ソンギュングァン〔全寮制の国立官吏養育学校〕の学生巻き込んじゃうのが大臣の常だからねぇ」

 錦城の口調は、最早諦念のそれである。しかし、その年齢にしては大人びていると言われるホンウィも、この事態に錦城ほど達観はできなかった(但し、錦城も二十六とまだ若いはずだが)。

「……大臣ってどんだけ暇なんだよ。国中の儒者や儒学生にコトの内容触れ回るだけでも時間掛かんだろーに」

 現に、上疎がてんこ盛りになるまでに三日を費やしている。

「父上の死因突き止めるのとか医官の処罰よりも、ガキに嫌がらせするほーが大事なのかよ」

 ケッ、と吐いた息は、王ではなくまるで貧民街のゴロツキだ。

「まあねぇ。そう言っちゃうと、身も蓋もないけどねぇ」

 クスクスとまた小さく笑った錦城が、手を止めて振り返る。その顔には、決して嫌味でない苦笑が浮かんでいた。

「大臣たちの思惑としてはそんなややこしいことじゃないよ、多分」

「どーいう意味だよ」

「つまりね、大臣たちは自分と価値観の違うあるじには従いたくないわけ。でも、その辺の王族とか両班ヤンバンならともかく、相手は国王殿下でしょ? 国王が相手じゃ、気に入らなきゃ、仕事辞めるか死ぬかの二者択一だけど、そーゆーわけにいかないし、かと言って、今回のホンウィの発言の内容認めちゃったら、下手すると自分たちの特権も失い兼ねないじゃない。だったら、国王の考えを改めさせればいいって、ただそれだけの話なのさ。自分たちにとっては都合のいいことに、相手は王って言ってもまだほんの子ども。言って聞かせれば充分(ぎょ)せるって思ってるんだよ」

「大臣全員か? だとしたら連中、そーとー観察力ねえな」

 ククッ、と嘲るような笑いを零したのは、永豊君だ。

 今度は、錦城が「どういう意味?」と訊ねる。

「だーって兄上。コレが簡単に御される玉か?」

 肩を竦めた永豊君が、『コレ』と言いつつ立てた親指でホンウィを示す。

「野生馬っつーか荒れ馬っつーか、馬ならまだしも、虎の子って言ってもいいくらいなのに」

「うーん。僕もそうは思うけど、いかんせん見た目がねぇ。大人し過ぎるっていうか、どっちかってゆーと子猫でしょ」

「……中身まで大人しい子猫かどーか、試すか、叔父上方」

 好き勝手言い始めた叔父たちに、胡乱げに目を細めたホンウィが、地を這うような声音で言う。すると、錦城はあっけらかんと笑った。

「あはは、遠慮しとくよ。僕、どっちかって言うと文官寄りだから」

「俺もどっちかって言うと文官寄りだからー」

 錦城に倣った永豊君の口調は、棒読みだ。

「ヒョク兄は嘘吐け。息抜きがてら表出ろ」

 箱を運ぶ為に屈めていた腰を伸ばしたホンウィは、先刻の永豊君のように親指を立てて外を示す。直後。

「殿下。今よろしいでしょうか」

 そう、外から声が掛かった。

「……何だ」

「失礼致します」

 姿を見せたのは、ホンウィの即位後、新しく尚膳サンソンに任命された林圭均イム・ギュギュンだ。ちなみに尚膳とは、内官ネグァンの最高位であり、王の身の回りの世話をする者の一人である。

「殿下。只今、大司憲がお目通りを願って来ておりますが」

「そうか。通してくれ」

「はい」

 一礼してキュギュンが立ち去ったあと、程なくコンが姿を見せた。

「殿下」

「悪いな、散らかってて。例の報告だろ?」

「はい、あの……」

 コンは、ざっと室内へ視線を走らせた。彼の目は、まず最初に上疎と批答に埋没した室内を通り、次いでホンウィ、永豊君の順に動いて、最後に錦城で止まった。

「錦城大君(テグン)様と永豊君様は、何をなさっておいでで?」

「見ての通りだ。残務処理に呼び出されたんだよ」

 重い溜息を吐きつつ、雪崩を起こした上疎を拾う為に立ち上がった永豊君が呆れたように言い、いたずらっぽく笑った錦城が相槌を打つ。

「そうそう。意地の悪ーい大臣たちの上疎に溺れて死にそうだって、可愛い甥っ子に助け求められたら、断れないでしょ?」

「はあ……例の『人は皆平等』発言への諫言ですか」

「よく分かったな」

 処理済み書類の箱をもうひと箱、部屋の隅へ引きずったホンウィは、パンパンと手を叩いて振り返った。

「それとも、あんたも諫めたいクチか? 国の根幹が揺らぐって」

 ニヤリと唇の端を吊り上げて問うと、コンは意外にも「いいえ」と首を横に振った。

「部分的には賛成ですよ」

「部分的?」

「ええ。例えば、奴婢は人として扱われないでしょう。両班がたとえ奴婢を殺しても、奴婢は『モノ』ですから、実質は殺人を犯したとしても、罪に問われない。個人的にはどうにも、もどかしい思いをしておりましてな」

「なるほど。で、反対部分は?」

「身分秩序は、変えるべきではない。とわたくしは考えておりますが、その考えを、殿下は軽蔑なさいますか?」

「別に。両班階級の連中には、それがジョーシキなんだろ」

 肩を竦めて言うと、ホンウィは執務机へ足を向ける。

「それで? あんたがここへ来た本題を聞かせて貰おうか」

 先日の反省から、椅子の上には、布でしっかりと纏めた書物が置いてある。その上へ座ると、顔を上げてコンを見た。

 すると、彼は表情を硬くして、瞬時目を伏せる。

「……何か、問題でも?」

 重ねてただすと、コンは目を上げた。

「恐れながら……ありのままを申し上げてもよろしいでしょうか」

「ああ。事実を一つでも隠されると、あとで面倒になる」

「では、ご報告致します。あの朝、思政殿サジョンジョンの回廊で御医を見た者は……おりませんでした」


©️神蔵 眞吹2018.

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