第十章 見え隠れするモノ【前編】
ホンウィは、昨日と同じ順路で康寧殿へ戻った。
白い礼服か、赤い常服を着るかで迷ったが、白いほうを選んだ。まだ、納棺の儀が済んだばかりだ。今日明日くらいは、喪服を着ていないと、礼に反する。
手早く着衣を着替え、そっと表の扉を開く。この白い格好でわざわざ裏手から出たら、却って目立ってしまうからだ。
その前には、昨日と同じように人がいた。昨日は都承旨がいたその場所に立っているのは、二人の女性だ。
「ああ、殿下」
こちらを見たその内の一人が、いそいそとこちらへ足を運んだ。匂やかな顔立ちが、どこか泣きそうな微笑を刻む。
彼女たちも、白い礼装に身を包んでいた。
「これは……母上方」
ホンウィも、扉から滑り出た。
木靴に足を突っ込みながら、母と呼んだ女性に足早に歩み寄る。
「殿下。このところ、お話もまともにできず、申し訳ございませんでした。お元気でいらっしゃいましたか?」
「見ての通りです。母上方もお変わりなく、何よりでございます」
「殿下。お久しゅうございます。お元気そうでよかった」
「惠嬪母上も」
惠嬪、ことヤン・ヨジンは、祖父・世宗の側室だった女性で、永豊君の生みの母だ。
祖父の側室と言っても、当年四十二とまだ若い。
祖父は、生まれてすぐに実母を亡くしたホンウィの養母として、惠嬪を選んだ。しかし、惠嬪が最後に子を産んだのは、その時点で七年も前のことだった。
当然、乳が出るはずもない。
そこで、乳母として白羽の矢が立ったのが、目の前にいる女性で、父の側室の一人である貴人〔側室の位の一つ〕、こと洪贇雅だ。彼女は、ホンウィの生まれる三ヶ月前に女児を生んでおり、乳母としては適役だった。
もっとも、その三ヶ月違いの異母姉は、三つの時に亡くなっている。その為、その時までは一緒に育ったはずだが、その姉のことはよく覚えていない。
「それで、母上方は、何用でこちらへ?」
儀礼通りの挨拶を終えると、ホンウィはもう気が急いていた。
早く、資善堂に行って、御医と永豊君の話を聞かなければならないのに。
しかし、ホンウィのその言葉に、惠嬪は顔を曇らせた。ホン貴人は、もっと露骨に、落胆と憤慨の表情を見せる。
「まあ、殿下。せっかくこうして母が訪ねて参ったのですよ。招じ入れて茶を出すくらいの気は利かぬの?」
「あ、それは……申し訳ございません」
しかし、「さあ、どうぞ」と続けるほど、今は暇ではないのだ。
加えて、惠嬪はともかく、このホン貴人が、ホンウィは少々苦手だった。彼女が赤子の自分に乳を与えてくれたことは事実だし、感謝もしている。けれど、それとこれとは、ホンウィには別の問題だった。
「さあ、殿下。中へ入りましょう。久し振りにお話したいですわ」
「あ、あの……でも」
「でも? でも、何です?」
どう言ったら、角を立てずに帰って貰えるだろうか。
その技術は、十一年弱生きただけのホンウィにはまだない。
考えあぐねる間に、「パク尚宮」とホン貴人が大殿の筆頭尚宮に声を掛けてしまう。
「殿下を、中へお連れして。それから、茶菓を三人分用意して持って参れ」
「はい、内宮様」
「あ、ちょっ」
「内宮」
焦ったホンウィが言い掛けると同時に、惠嬪が口を開く。
内宮、というのは、ホン貴人のことだ。
正式に王妃の座に就くことはなかったが、父の生前、実質的にその役割を果たしていた彼女は、今はそう呼ばれている。
「何でしょう、惠嬪様」
「殿下は、今日は何か別にご用がおありのようです。出直しましょう」
「えっ? そうなのですか、殿下」
「は、はい。申し訳ございません。急いでいるのです」
助かった、と惠嬪の言葉尻に乗る形で、縋るようにホン貴人を見上げる。
「まあ、そのようなことを言って……」
これで引っ込んでくれるか、と思えば、ホン貴人は更に食い下がってきた。
「いけない息子だこと。母に逆らおうなど、許しませんよ。それに、殿下はまだ幼いのです。難しい政は、大臣たちに任せておけばよい。さあ、これで御用とやらはないも同然ですね。母とゆっくりお話しましょう」
「そんな、母上……困ります」
「何がお困りなのです。何もお困りになる必要はございませんよ。母と世間話をするくらい、政よりよほど易しいはず。さ、中へ」
「内宮」
すると、惠嬪が先刻よりも冷ややかな声音で割って入った。
「殿下は、確かにそなたが乳を与えたが、今や国王殿下です。いつまでも、赤子のままではない。さ、殿下。お急ぎに。お話はいつでもできますゆえ」
「感謝します、惠嬪母上」
ホンウィは、惠嬪に一礼し、さっとその場をすり抜ける。
「あ、殿下! お待ちなさい!」
背中にホン貴人の声が追い掛けてくるが、ホンウィはほとんど駆けるようにしてその場を離れた。そのあとへ、例によって尚宮や内官が続く。
(……あー、ウザい)
はあ、と重い溜息を吐く。そう脳裏で吐き捨てた相手は、随行の者たちではなく、ホン貴人だ。顔が向こうから見えないのをいいことに、思い切り表情を歪めて舌を出す。
わずか三歳の我が子を失くしたのは同情するし、その分の愛情が全部、我が子と同じように乳を与えたホンウィに向いているのも理解はできる。
だが、必要以上の束縛が、ホンウィには正直鬱陶しかった。彼女は、ホンウィが自分の思う通りにならないと、気が済まないところがある。
祖父・世宗の命で、宮殿を出ることになった時も、一悶着あったのだ。その時のことを思い返すと、それだけで疲れてしまう。しかし、乳離れまで育てて貰った手前、無碍にすることもできない。
面倒臭、と脳裏で吐き捨てる間に、資善堂を囲う塀が見えてくる。
ホンウィは、その正面へ回り、重光門と震化門を抜け、資善堂の敷地へ入った。
少し前まで自身の宮だったのに、それがもう随分昔のことのように思える。
ホンウィが姿を見せると、そこを警備していた軍士が、持っていた槍を引いて頭を下げた。
その内の一人が、中に向かって王の訪れを告げようとするが、ホンウィはそれを、手を挙げることで遮る。
「……永豊叔父上は、どちらへ入られた?」
囁くように訊ねると、「あちらです」と軍士がやはり小声で示す。
それは、広縁の奥の扉だった。
「そこは物置だが……九人全員あそこへ?」
「はい。オンドル部屋は、恐れ多くも世子様ご夫妻が住まわれる場所です。罪人には相応しくないかと」
「そうか。分かった。ご苦労」
「は」
小さく軍士が頷くのを横目で見つつ、ホンウィは木靴を脱いで、そっと広縁に上がった。
資善堂は、世子の住まいと言っても、康寧殿よりずっとこぢんまりとしている。
建物の表面積は、横幅・十一間〔約十九・八メートル〕と少し、縦幅・八間〔約十四・四メートル〕と少しで、内七分の三が広縁と物置だ。
両脇の二間ずつが、世子夫婦の居住空間であるが、ホンウィは世子の内に結婚しなかった為、ここを一人で使っていた。
独りで住むのに、個室はちょうどよい広さだが、思えば合計九人をここへぶち込んだらかなり窮屈だったかも知れない。
今からでも都承旨と交代して貰うべきだろうか。
含元殿のほうが、一間が広いから、九人を放り込んでもここを使うよりは余裕がありそうだ。
などという、少々明後日なことを考えながら、ホンウィは扉へ耳を近付けた。
しかし、室内はシンと静まり返っている。
御医たちは、まさかの黙りに徹しているのだろうか。あり得ない話ではない。
首陽がここを出て来たのを見た時は、頭に血が上っていたのは否めないようだ。少し時間を置いたことで、冷えた頭で考えると、今ここへ乗り込んだのは、どうも判断を誤った気がして来た。
「……分かった。また日を改めよう」
そう言ったのは、永豊君の声だ。
避ける間もなく扉が開き、それが耳を近付けていたホンウィの側頭部へぶつかる。
「痛っ!」
覚えず声を上げると、顔を覗かせた永豊君が、目を丸くしてこちらを見下ろした。
だが、その驚きの表情は、すぐに苦いモノに変わる。
永豊君は、側頭部を押さえたホンウィとしばし目を合わせていたが、ホンウィを室内へ招き入れることなく扉を閉じた。
そして、ホンウィを促してその場をあとにする。
二人が広縁を外へ移動するのを見て、軍士たちがもう一度槍を引いて頭を下げた。
「引き続き、見張りを頼む」
木靴を履きながら、永豊君が口を開いた。
「今後は、殿下の許可がなければ、王族であっても中へ入れてはならぬ。分かったな」
冷ややかな声音に、軍士の顔がやや青ざめる。
「は、はいっ! 肝に銘じます」
ホンウィは、怒ったような歩調でその場を離れる永豊君を、小走りで追った。
重光門を抜け、資善堂の敷地を完全に出たところで、ホンウィは「叔父上!」と声を掛けた。
「永豊叔父上、お待ちを。一体何が」
「殿下」
余所行きの言葉遣いの問いを、永豊君がやはり表向きの呼称で遮る。
「ここでは誰が聞いているか分かりません。康寧殿で話をいたしましょう」
「待っ……てください。康寧殿はダメです」
「ダメ?」
足を止めた永豊君は、ホンウィに向き直った。
「何がダメなのです」
ホンウィは、辺りを見回して、随行の者以外に人がいないのを見澄ますと、永豊君の腕を引いた。
「……母上が来てんだよ」
彼の耳元へ口を近付けてボソリと言う。
「母上? って言うと、内宮のほうか」
「そう」
ホンウィは、無意識に眉根にシワを寄せた。
「それで遅かったわけね」
永豊君は納得したように頷く。
彼も、ホン貴人のホンウィに対する、ある意味での執着の強さに関してはよく知っているのだ。
「ああ。惠嬪母上が一緒じゃなかったら、今頃まだ康寧殿に釘付けだったぜ」
「ウチの母上も一緒に?」
「うん」
すると、永豊君が「なら大丈夫だろ」と言って、内緒話をする為に屈めていた上体を上げた。
「どういう意味?」
「いえ。母親自慢に聞こえたら申し訳ありません。我が母は、あれで結構口は立つほうでございます。今頃は巧いこと言って、内宮様を連れて引き上げておりますでしょう」
女官や内官の耳を意識したのか、永豊君の口調が余所行きに戻る。
今一つの不安を抱えつつ、ホンウィは永豊君について康寧殿へ進路を取った。
だが、永豊君の予想に反し、ホン貴人も惠嬪もまだそこにいた。
表から来たものだから、避けることもできない。しかも、その場には彼女たちのみならず、首陽大君も一緒だった。
錦城大君もいる。
「……おやおや、皆様お揃いで」
ポツリと漏れた永豊君の呟きは、恐らくホンウィの耳にしか入らなかっただろう。
「首陽叔父上……錦城叔父上も、どうされたのです」
ひとまずホンウィは、自分が最初に口を開いたが、妙な緊張で口の中はカラカラだ。
(俺は何も知らない……何も見てない、聞いてない)
脳裏でひたすら繰り返していないと、取り返しの付かないことを口走りそうだった。
「私も、首陽兄上に呼ばれて参ったので、まだ詳しいことは」
答えたのは、錦城だ。
「申し訳ありません、殿下。大口を叩いておきながら、まだ何も掴めておらぬのです」
「いいえ、錦城叔父上」
ホンウィは淡い微笑を浮かべて、首を横に振った。
「とんでもない。叔父上たちとお話したのは、まだつい昨日のことではありませんか。何も掴めておらずとも当然です」
口ではそう言いながら、そのつい昨日の話がとんでもなく遠い日の記憶のように思えた。
まだ、一日しか経っていないのか、と思ってしまう。その一日の間に、本当に色んなことがあった。
「それが、そうでもないのです」
口を挟んだのは首陽だ。
「本当ですか、首陽叔父上」
言っていて白々しい気分になる。だが、こちらが何か掴んでいることを、なぜか首陽には悟られてはいけない気がした。
「立ち話もなんですから、中へどうぞ。永豊叔父上もよろしければ」
「そう言えば、永豊君は何故一緒なのだ」
「たまたまそこで会ったのです、首陽兄上」
不意に話を振られた永豊君は、しれっと、ごく普通の表情で答える。
自分も同様にできていればいいと思うが、生憎自信はまったくない。
「失礼ですが、母上たちはお引き取りくださいませんか」
「いや、内宮にもいて貰おう」
意外にも、ホン貴人を引き留めたのは、首陽だ。
「惠嬪にはどうぞ、お帰りを」
「何故です、首陽大君様」
名指しで退去を求められた惠嬪は、いつもの凛とした様子が嘘のように、珍しく苛立ちを露わにした。
しかし、首陽がこれに動じるはずもない。
「そなたは、父上のご側室。つまり、先々代殿下の妃嬪であろう。対して、内宮は殿下の乳母であり、先王殿下のご側室であり、実質的な王妃でもあった方だ。明日よりは、殿下の垂簾聴政を担っていただくゆえ、重要な話し合いの場に臨席する権利はある」
「は?」
思わず、間抜けな声を出したのは、ホンウィだ。
「ちょっ……と、待ってください、叔父上。それは、どういうことです?」
まだ随行の者がいる手前、余所行きの口調で問う。
「垂簾聴政ですって? その権限があるのは、代々の王の正妃だけのはずです」
「仰る通りです、殿下」
首陽もまた、表向きの口調で頭を下げた。
「しかし、先代殿下には、その正妃がおられなかった。ご存命であられれば大王大妃〔太皇太后〕となられていたはずの我が母も、すでにこの世におられません。ですが、内宮は、正式にその地位に就かなかったとは言え、これまで王妃としての役割を果たしていました。亡き先代殿下も、一度は王妃にと考えられた方だ。十二分にその資格はおありです」
「それは……でも」
「とにかく、中で話しましょう。ああ、茶菓は用意せずともよい」
首陽はさっさと話を進めるべく、パク尚宮に顔を向けた。
「込み入った話になるゆえ、人払いを徹底せよ。我々がここを出るまで、誰も取り次いではならぬ。分かったな」
「はい、首陽大君様」
何がなんだか分からない。
今――たった今、ここで何が起きているのだろう。
それに、今はなぜか、首陽が遠い気がした。
いつもなら、人前でこうして敬語で話していてさえ、感じる温かみは砕けた口調で接している時と同じだった。そうだと思っていた。
けれど今は、どうしようもない壁と溝を感じる。それとも、ホンウィ自身の心持ちの所為だろうか。ホンウィが、首陽に疑惑を感じているからそう思ってしまうだけで、首陽は変わっていないのだろうか。
たった一日で、何かが――何かは分からないが、確実に変わってしまったモノがある気がする。
そんな焦燥と喪失感を覚えながら、ホンウィは、雲を踏むような心地で、康寧殿の中へ歩を進めた。
***
自室に入る瞬間、軽く深呼吸した。
首陽と話す時はいつだって楽しくて、もっともっと一緒に過ごしたいと思っていた。父と同じくらい大好きで憧れて、心から信頼して慕っていたのに、今日はひどいわだかまりしか感じない。
隠さねばならないことが多過ぎて、それを気取られないように話す自信もない。
(……落ち着け。俺は、まだ何も知らないんだ)
そう言い聞かせるが、実行するには記憶力には自信があり過ぎ、逆に演技力には自信がなさ過ぎる。
(クソ……何で祖父様は俺を旅芸人の一座に放り込んでくれなかったんだ)
目の前に祖父がいたら、見当違いの非難だと言って顔をしかめただろう。だが、今この瞬間にはそう思わずにいられない。
もしも、旅芸人の中で育ったら、演技力だけは嫌でも磨かれただろうに。
「……大丈夫か?」
すぐ後ろから来た永豊君が、耳元へボソリと落とす。
「……多分」
そうか、と返す代わりに、彼はさり気なくホンウィの肩先を軽く叩いた。あまりここでグズグズと留まっていては怪しまれる。
ホンウィは、それに返事をするように、室内へ歩を進めた。
上座へ座ると、続いて入室した合計四人も、それぞれにホンウィに礼を捧げてから腰を落とす。
「それで首陽叔父上。何か分かったのですか」
ホン貴人の手前、ホンウィは余所行きの口調で、前置き抜きに問うた。
「はい、殿下。実は先ほど、資善堂へ行って参りました」
知ってるよ、と脳内で返し「それで?」と先を促す。
「結局、本人に直接確認したほうが早いと思いましたのでな。いえ、何のことはない。本当に単純な医療過誤のようです」
「と言うと?」
「先ほど、チョン御医と、ほかの二名にも訊ねましたら、やはり本当にあの施した治療が正しいと思ってそのようにしたと。もし、それが事実であれば、あの者たちの罪は、先王殿下を死なせたことではなく、医術の知識の浅さにあります。もちろん、その延長線上で国王を死に至らしめたことも重罪ではありますが」
ホンウィは、沈黙を返した。
首陽が今言ったことは、本当に正しいのか。正しかったとしても、医官と口裏を合わせてはいないか。
「……では、その……領議政たちや安平叔父上と談笑していたことは、確認されたのですか?」
「ええ、殿下。そのことに付いては、覚えがないようです。都承旨の見間違いかと存じます」
「左様ですか……」
ホンウィは、なるべく淡々とした口調に聞こえるように意識してそう返す。
「分かりました。後日、そのことも含め、改めて審議をしたいと思います。お骨折り頂き、ありがとうございます、叔父上」
すると首陽は、いつもと変わらぬように見える笑顔で「何の」と首を振った。
「骨を折ったなど、滅相もない。ただ、御医たちに疑問を投げかけただけでございます」
ですが、と挟んだ首陽の微笑には、今まで見たことのない昏いモノが一瞬混ざった気がした。けれど、それは瞬きの間に消え失せる。
「審議に殿下が臨まれる必要はございますまい」
「兄上?」
錦城が首を傾げ、永豊君も眉根にシワを寄せる。
「叔父上。それは先刻仰っていた、母上が垂簾聴政をするというお話と、何か関わりが?」
「左様です」
首陽が答えると、ホン貴人も微笑して相槌を打つように頷いた。
「殿下。これからはこの母が、お傍でお支えしましょう。決してお寂しい思いはさせませんわ」
「母上」
投げ返した声音は、自分でも一瞬ヒヤリとしたほどの冷たさを伴っている。
「申し訳ございませんが、席を外していただけませんか」
ホン貴人に向けて言っていながら、ホンウィの視線はまっすぐ首陽へ向けられていた。
それが却って、逆らってはならないと、普段空気の読めない彼女にも突き付けたらしい。ホン貴人は、それでもチラリと首陽に伺うような視線を送った。
首陽に目で頷かれると、ようやく彼女は「では、わたくしはこれにて」と頭を下げ、退出して行く。
その態度は、彼女にとってホンウィは王ではなく、やはり我が子という名の所有物なのだと、理解させるに充分だった。
彼女の気配が康寧殿から完全に去るのを確認してから、ホンウィは首陽に向き直る。
「……どーゆーことか、説明してくれよ。昨日までそんな話してなかったじゃねぇか」
口調を普段のそれに戻すと、ホンウィは珍しく首陽へ険しい視線を向けた。
「お前はまだ父親を亡くしたばかりだ。一度に色んなことを話すのはよくないと思ったまでだ」
首陽の口調も、普段の叔父のモノになる。そうすると、それまで感じていたわだかまりは嘘のように溶けた。
何かが変わったのかも知れないと思ったのは、やはり単なる思い込みだったのか。
「それにしたって、兄上の独断でしょ?」
同様に、今日になって垂簾聴政の話を聞かされたらしい錦城も、これまた彼には珍しく不服そうに問う。
「同感だな。議政府にも諮らないで、内宮には勝手に話通しちまったのかよ」
永豊君は、もっと露骨に顔をしかめている。
「あの女の思い込みの強さは、首陽兄上だって知らないわけじゃねぇだろ?」
「それは否定しないがな。だが、本来この国は、王権が一番にあるべきだ。議政府やほかの官庁とて国政を担ってはいるが、あくまでも王の補佐に過ぎぬ。その補佐役の顔色を、王のほうが伺ってどうするというのだ」
「そりゃ、まあ……」
正論で返されて、永豊君が口ごもった。怯んだ隙に畳み掛けるように、首陽が言葉を継ぐ。
「兄上は、ご臨終の際、領議政を始めとする大臣たちにホンウィの補佐をせよと遺言したらしいが、それは間違っている。父上も同様だ。父上や兄上のご判断は、王権を弱めることだ。父上たちとて、我が孫、我が子や国を思って決断されたのだろうが、病で気弱になられ、判断を誤られることがないとは言えぬ」
首陽の口調には、祖父や父への反感や苦々しさが滲んでいた。
ホンウィとしては、それに不快感を覚えなくもなかったが、首陽は首陽なりに国の将来を憂えているのかも知れない。
それをまた敏感に読み取ったのか、首陽は少し困ったような、宥めるような表情でホンウィを見た。
「……すまぬな、ホンウィ。私とて、決してお前の祖父上や父上の決定を軽んじるつもりはないのだ。だがな。王族がこれをきっかけに、臣下に軽んじられたり侮られたりするようなことがあっては、王室の今後の沽券に関わる。分かってくれるな」
「……まあ……理屈は分かるけど」
「垂簾聴政をと考えたのも、それが理由だ。右参賛からチラと聞き及んだのだが、ホンウィよ。お前、昨夕の御前会議の場で、身分性別に関わらず、人は皆平等だと言い放ったそうだな」
「ああ。間違ってるか?」
これにはさすがにムッとするまま、ホンウィは首陽に睨むような視線を向けてしまう。
すると、それを受けた首陽は、宥めるような表情を保ったまま、困ったように微笑した。
「いいや。それも一つの考え方であろう。個人の考え方に、正しいも間違っているもない。考え方が違う者からすれば、間違っているということになろうがな」
「じゃあ、首陽叔父上からすれば、俺の考えは間違ってるんだな」
「ホンウィ」
やや咎めるように名を呼んだのは、錦城だ。しかし、ホンウィは肩を竦めて投げるように言った。
「いいんだ、別に。特権階級層には受け入れられない考え方なのは理解してる」
ただ、それに『頭では』という注意書きが要る、とホンウィは今悟った。
これは元々、祖父の教えだ。だから、祖父の息子たちである叔父たちにも理解して貰えるに違いない、と無意識に思っていたのだ。それだけに、叔父たちに感じた失望と落胆は、思いの外大きかった。
そんなホンウィを、変わらず宥めるような顔で「ホンウィ」と首陽が呼んだ。
「その考え方自体は立派だ。ことに、為政者は民と同じ目線で国を治めなければならぬ。その頂点にいる王としては、必要な考え方でもあるだろう。だが、いきなり浸透させようとしても、大臣たちには特に抵抗が大きい。それも理解できているか?」
「まあな」
「ならば、当分はその考えを口に出してはダメだ。お前がひとまず、その考えを撤回したと示す為にも、お前はしばらく国政に口を直接挟まぬほうがよいかも知れぬ」
「その為に、垂簾聴政を母上にさせろって言うのか?」
この時になって、初めて首陽が「まあ……」と言い淀むように視線を一瞬泳がせた。
「簡単に言えばそういうことになる」
「悪いがお断りだ」
ここで即答すると思わなかったらしい。首陽はまたも珍しいことに、小さな目を瞠った。
「ホンウィ?」
「叔父上が俺の為に考えてくれたのは分かってる。けど、垂簾聴政するのがあの人だってのは、納得できないね」
©️神蔵 眞吹2018.




