◆ 3話 ◆
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
安アパート、8畳一間のテーブルには冷めかけた紅茶。
松友弥太郎が帰って行くと翔太は椅子の背もたれに体重を預けた。まだ頭の整理が出来ない。出来るわけがない。天上人・松友弥太郎はこう言ったのだ。
「一緒に暮らさないか」
今まで父のことは努めて考えないようにしてきた。それはきっと母を苦しめるから。それが突然何の前触れもなく目の前に現れたのだ。
あまりのことに何を言っていいのか分からなかった。
どうして母を捨てたのか?
どうして今現れたのか?
そもそも僕の父である証拠はどこにあるんだ?
しかし、彼の説明には説得力があった。母の指輪に入っていたマーク、MMというのは名前のイニシャルだと言う。Mは母の名、真由子のM。そうしてもうひとつのMは松友のM。何より指輪を包んでいた袱紗のマークは松友家の家紋だったのだ。
仏壇にある指輪が「まだ知らぬ父」から貰った物だと言うことは昔から薄々気がついていた。そうでなければ母があんなに大切にするはずがない。だけどその贈り主を探そうとは思わなかった。期待もしていなかったし恨みもしていなかったから。幼い頃、父について尋ねた翔太に、母は素晴らしい人だと言った。悪口も恨み言も聞いたことがない。だから翔太もそのことは口にしなくなった。
「はあ~っ」
だけど、だからって「わたしが父です」と言われて「はいそうですか」、なんて言えるはずもない。不思議だけど怒っている訳じゃない。疑っているわけでもない。でも納得もできない。
暫く放心していた翔太は椅子から立ち上がると仏壇の前に座った。母に聞こうと思った。母さんはあの学者先生を恨んでないの? 僕は一体どうしたらいい? 母さんの気持ちが知りたい……
でも、写真の中の母はいつものように笑っているだけ。瞼を閉じると食卓で向かい合う優しい母の笑顔が蘇る。
(よかったわね)
母の口癖。
テストで100点取ったときも、逆上がりが出来たときも、友達の誕生パーティーに呼ばれたときも、いつも優しくそう言ってくれた。風邪を引いたときでさえ「よかったわね、治る病気で」って言われたっけ。
「ははははは……」
きっと母さんはそう言うんだよね、よかったわね、って。
でも僕、やっぱり納得できないよ……
ピンポンピンポン
ピンポンピンポン
ピンポンピンポン
呼び鈴の連打に壁の時計を見る。
珊瑚ちゃんが来る時間だ。
「はい」
ドアを開けると赤い服を着た金髪の女の子の笑顔が炸裂した。
「お兄ちゃん、こんにちは!」
「あ、はい、こんにちは」
彼女の後ろにはゴージャスなお姉さんと初老の紳士も立っていた。
「じゃあお邪魔するわね。高畑は帰ってもいいわよ」
「しかしお嬢さま、ここは殿方のお宅ですぞ」
「父も言ったでしょ、私と珊瑚だけでいいって。父の言うことが聞けないの?」
「……今回ばかりは仕方ございません。では、外で待っております」
高畑は翔太を睨みつけると悔しそうにそう言って自らドアを閉じた。
「いいの? 待たせて」
「いいのよ、勝手に付いてきたんだから。わたしはお茶でも頂くわね」
勝手に流しに立つとポットに水を入れるゴージャスの君。
「あ、それなら僕が……」
「そんなことより、青柳さんはとっとと珊瑚に勉強を教えて頂戴」
「契約はしてないけど」
「じゃあ今すぐサインして」
コンロの前に立つゴージャスの君に睨まれる。
一方、今日の主役の珊瑚ちゃんは翔太の部屋を物珍しそうに見て回っていた。窓の外の地面を覗いていたかと思うと翔太の勉強机に座る、やがて開いたままだった仏壇を見つけた。
「これは?」
「ああ、仏壇だよ」
「おばあちゃんの?」
「えっとね、僕のお母さんの」
「お母さんの? じゃあ、お父さんと暮らしてるの?」
食卓の椅子を珊瑚ちゃんに勧める。ティーポットにお湯を注いでゴージャスの君もやってくる。
「青柳さんはお父さんもいないんだよ」
別に言う必要もないと思ったんだけど、ゴージャスの君は容赦ない。
「えっ、そうなの? じゃあお手伝いさんは?」
いるわけないじゃん! と言うツッコミをぎりぎりで堪える。
「僕はね、ひとり暮らしなんだよ」
「でも、ひとりだったら寂しくない? 困ったりしない?」
珊瑚ちゃんの顔は真剣だった、だから嘘を言うのもどうかと思った。
「大丈夫だよ、寂しかったり困ったりは、ちょっとだけかな」
「あのね、お兄ちゃん……」
肩に届く金髪を左右で真っ赤なリボンに結った女の子はさっきまでの真剣な顔を花のように綻ばした。それはまるで遙か昔の記憶を呼び覚ますような笑顔。
「あのね、だったら珊瑚が妹になってあげる。寂しいときは一緒に遊んであげる! 困ったときは助けてあげる!」
デジャブ?
いや、ちょっと待て。
さっきの話からすると彼女は本当に僕の妹なわけで。
そうだ、頭がテンパッて回ってなかったけど、ゴージャスの君も僕の妹なわけで。だけどきっとそのことを彼女たちは知らないはずで……
「ねえお兄ちゃん、珊瑚じゃダメ?」
「ううん、とっても嬉しい。ありがとう珊瑚ちゃん」
わあい、と喜ぶ珊瑚ちゃんを見ていると耳元で声がした。
「だったら私も妹ってことね」
驚いて振り向くと瑠璃花お嬢さまが澄まして立っている。
「半分だけ」
「半分だけ?」
「でしょ?」
あ、そうだ、僕と彼女は父親は一緒だけど母親は違う。
って、知ってるんだ!
しかし、きっと驚いた顔をしているだろう僕に軽いウィンクを投げたゴージャスの君は安物のマグカップに紅茶を注ぐ。
そう言えば、この部屋で母の指輪の見たのは彼女の方が先だった。あの時、袱紗に自分の家の家紋が入っていることにも気がついていたんだろう。
ってことは、まさか……
あからさまに顔に出たのだろうか、ゴージャスの君は唇に指を立ててこの話題を封印した。珊瑚ちゃんは何も知らない、ってことだろう。
「じゃあお勉強始めようか」
「うんっ!」
珊瑚ちゃんに教えるのはとても楽しかった。彼女がとても聡くて数式の意味も漢字の意味も何でもすんなり理解してくれるってこともあるけど、でも一番の理由はそうじゃない。それは彼女が僕のことを慕ってくれるから。そして僕も彼女が可愛くて仕方がないから。勿論、彼女が僕の妹だった、と言う事実も大きく背中を押しているんだと思う。
予定の2時間はあっという間に過ぎた。
帰って行く珊瑚ちゃん、瑠璃花お嬢さま、そして高畑さんに手を振りながら、混乱していた気持ちからもやもやしたものが沈殿して透き通っていくのを感じた。
そうだ。
もう迷わない。
翔太は教えて貰ったばかりの「父」の番号をコールした。




