◆ 3話 ◆
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の午後、綾名は家族3人で一条弘庸とその両親に向かい合っていた。
彼の父は髪の毛は薄いがエネルギッシュな感じの、脂ぎった「おっさん」だった。一方の母親はスラリと綺麗な人で40後半なのに30歳くらいにしか見えない。まさしく「おっさんと美女」だ。弘庸さんは間違いなく母親似だろう。
「では、あとは若い人同士と言うことで」
「そうですわね、ほっほっほっほ……」
綾名の父母に続いて一条弘庸のエネルギッシュな父と女優のような母が去っていくと、残されたふたりの間に短い沈黙が訪れる。
「これから美術館に行きませんか? 印象派の特別展が開かれているんですよ」
印象派……
綾名はよく父に連れられ美術館に通った。だからそれなりの知識はあるつもりだ。でも本当はマンガの原画展の方に興味がある。父には言えないけど先日好きなイラストレーターさんの小さな小さな展示会に行ったときは感動した。
一条に「ええ」、と小さく肯きながら、さっきまでは借りてきたネコだった綾名が口を開いた。
「あの、一条さんはどんな本がお好きですか?」
「本?」
「はい本です。小説とか」
少し考えた一条。
彼が口にしたのは誰もが知っている近代文学の作家。
「でもね、科学系の文庫を読むことが多いな」
「じゃあマンガはお読みになりませんか?」
「マンガは読まないなあ…… 子供の頃、お母さまがダメだって」
「そうですか」
お母さま、か。
一条さんは決して悪い人じゃない。優しくて礼儀正しい紳士だ。家柄もよくて頭もよくて将来を約束された良血馬。傍から見たらわたしは凄く幸運に見えるだろう。いや実際そうなのかも知れない。
美術館へはタクシーに乗って出向いた。モネ、ルノワール、シスレーそしてドガ。艶やかで華やかな印象の絵画たち。一条弘庸は時折立ち止まり綾名に絵や画家の説明をしてくれた。好きな画家はと聞かれた綾名は真っ先にシャガールとユトリロの名を思い浮かべた。家にあるリトグラフを思い出したのだ。でも好きな画家を自由に言えと言われたらやっぱりゴッホかな。綾名がそう答えると、ゴッホはポスト印象派だから今日はなくて残念だったね、と一条さん。
「楽しい?」
「あ、はい」
ちょっと堅苦しい。
いや、これが普通かも知れない。顔合わせの後にいきなりマンガ原画展はないだろう。でもお兄さまだったらきっと連れて行ってくれる……
いけない。いまそれを考えるのは失礼だ。
そうは分かっていても勝手に脳裏に浮かんでしまう。
あの夜、お兄さまは最高の想い出を作ってくれた。
生涯最高の一日を。
だから今は前を向かなくちゃ。
美術館を出るとアフタヌーンティーと相成った。
美味しい紅茶にケーキやクッキー、サンドイッチもある。
銀のプレートに盛られたスイーツをレース模様の白磁に載せて美味しくいただく。
なんて優雅な空間、なんて贅沢な時間、だけど……
一条さんはずっと紳士的で、さっき見た絵画の話、先週行ったコンサートの話、それに大学の先生には変わり者が多い話とかテニスサークルの新入生が面白い話とか、色んな話をしてくれた。綾名を退屈させないようになのか、単に上機嫌だからなのか。でも綾名には何かが足りなかった。
わたしはこの人を、一条弘庸さんを好きなのだろうか? 愛していけるのだろうか? 将来何があっても、例え彼の毛が薄くなっても禿げてしまっても…… 綾名は何度も自問自答を繰り返した。もしかしたら今は無理でも全ては時間が解決してくれるのでは、きっとそうなんだ、と自分に言い聞かす。
でも……
最後、別れる間際に綾名は何故か宝くじのことを思い出した。
あの抽選日がもうすぐだ。
お兄さまにはあのくじは絶対当たると言ったけれど、そんなこと本気で思っている訳じゃない。そうしなければお兄さまが遠慮すると思ったから。だけど、もしかしたら本当に当たるかも知れない。いや、確率は皆平等だ。だったら当たってもおかしくない。当たるんじゃないかな? そうだ、当たるんだ。絶対当たる。そんな気がするのだ。何故なら綾名の直感が訴えるからだ、わたしはお兄さまと結ばれるんだと。
だから……
その夜、綾名は翔太に電話を掛けた。
宝くじの抽選日にお兄さまのお部屋に行く約束をするために。
そしてふたりでお祝いをするために。




