◆ 3話 ◆
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お邪魔します」
電子ロックの鍵を開けるとお兄さまがそんなことを言う。
「全然お邪魔じゃありませんよ! わたしがお願いしたんですから!」
冗談めかして言いながらお兄さまを茶室へと案内する。庭園がよく見えるように窓を開けると春の爽やかな風が心地よい。
「庭、広いんだね。花もたくさん咲いてるんだ」
「せっかくですから一服しましょう。少しお待ちくださいね」
廊下から自分の部屋に行って荷物を置いた。本当は格好つけて和服に着替えたかったんだけどお兄さまを待たしちゃいけないからぐっと我慢。鏡を見てから茶室に戻る。
電熱式の茶釜でお湯を沸かしながら茶器を取り出していると。
「お茶? 作法とか全然知らないよ」
「いいんですよそんなこと。座布団使ってくださいね」
お茶もお花も女子のたしなみと習わされた。女子のたしなみってたくさんあってホントにイヤになる。最近はお金がなくなってやめちゃったけど、代わりに母が教えてくれる。きっと春日家は特殊なんだろうと思う。でも銀嶺院の友達はだいたいそんな感じだったし、特に瑠璃は凄かったし。一流の家庭教師が毎日ずらりと勢揃いだって。肩が凝って仕方がないだろうに。
茶菓子のおまんじゅうを差し出すとお兄さまは「頂戴します」と言ってお辞儀をした。
「これ、すごく美味しいね」
茶菓子が終わると薄茶を点てる。お兄さまはお辞儀の後、茶碗を右手で正面に置き、また頂戴しますとお辞儀をする。さっき作法とか全然知らないって言ったのに、ちゃんと知ってる!
「お兄さま、嘘を言いましたね!」
「何が?」
「作法とか全然知らないって。知ってるじゃないですか!」
しかしお兄さまったら悪びれる様子もなく、お母さまが教えてくれたんだと白状する。でも実践は初めてなんだ、って言うけれど結構サマになってるところが怪しい。
「ま、僕には無意味な知識だけどね」
笑いながらお茶碗を傾けぐぐっと飲み干した。なかなか見事な飲みっぷり。わたしだってお茶の主人になるのって初めてだからちょっとだけ緊張してたけど、何だか気が楽になった。
「それでは今から春日邸ツアーにご案内しますね」
「春日邸ツアー?」
「はい、今日一日お過ごし戴くこの家のご案内です」
お兄さまと茶室を出ると庭沿いの廊下に出る。自慢の庭園を横目に見ながら居間に入る。居間から屋内の廊下を通り台所、食堂、客間、床の間、おばあちゃんがいた部屋、両親の部屋、タンスの部屋、父の書斎、女中さんがいた部屋、と見て回る。
「一体幾つ部屋があるの?」
「えっと台所と食堂は入れないで14部屋、かな。裏に蔵もありますけどね」
「凄いね、庭も広いし」
「瑠璃の家には遠く及びませんよ。あそこは家というより城、ですから」
最後は綾名の部屋にご案内。ちょっとドキドキ恥ずかしいけれど昨日念入りに掃除もしたし、本当は見て欲しいし。
お兄さまは白い本棚の前に立った。これ知ってるとかこれ面白そうだとか、そんなことを言いながらいくつかの本を手に取る。カーテンを開けると空は青空、まだ夕刻前だ。
「椅子、使ってくださいね」
「ありがとう。あっ、これって」
今度は机の横に飾ってあるトロフィーに目をやるお兄さま。ラケットを模った金色のトロフィー。2Lのペットボトルくらいの大きさの、ちょっとだけ立派な物。
「それは中学の選手権の時のです」
「やっぱテニス上手いんだ。優勝って」
地区レベルの大会だし、まぐれだしって言うと今度はその上の賞状に視線を移す。絵画コンクールの賞状とかお茶の免状とか、バレエの発表会の写真とかが額に入ってこれ見よがしに並んでいる。
「書道も県の大会で入選って」
「小学生の時のですから」
「凄いな綾名。何でも出来るんだ」
「そうでしょうか?」
そんなことが何の役に立つのだろう。一億円と引き替えて貰えるのだろうか? 逆にお金を使うものばかりじゃないの? そんな捻くれた考えがよぎる。でも悲しいかな、綾名にはその捻くれた考えこそが現実に一致していた。トロフィーも盾も賞状もどんなに輝かしい過去も、綾名が望む未来を約束してはくれなかった。綾名が望む未来、それは好きな人と一緒に笑顔で暮らすこと、たったそれだけ。だけどそれがどんなに困難なことか……
どうしてだろう、そんなことを考えると急に目の前が霞んで見えた。
いけない……
「真っ白で、とても可愛いらしい部屋だね」
「そうですか?」
お兄さまは話題を変えた。
「ベッドもあるんだ。僕のよりずっと大きいじゃん」
「はい、セミダブルなんです。いつも広々と寝てるんですよ」
お兄さまが椅子に座るのをみると。綾名はベッドにちょこんと腰掛けた。
今、この家にはお兄さまと綾名のふたりっきり。
綾名の部屋にお兄さまとふたりっきり。
それなのにお兄さまは何もしてこない。
綾名は全て覚悟の上だというのに。
手を繋ぐとかぎゅっと抱きしめるとか、キスとか、それから……
お兄さまはまだ物珍しそうに部屋をキョロキョロと見ている。そして時々綾名と目が合うとすぐに別の方を向いてしまう。
「そうだ、せっかくだから晩ご飯は食べていってくださいね」
「そんなの悪いよ」
「だって今日は綾名ひとりなんですよ。寂しいじゃないですか。ねっ?」
「いいの?」
「はい決まり! じゃあお買い物に行きましょう! 何を作りましょうか? 好きなものを言ってくださいねっ」
父が知ったら激怒すると思う。でも、父と母が旅行に行くと決まったときから綾名はこうすることを決めていた。勿論、晩ご飯だけで離れたりしない。今晩は誰も帰ってこないのだ。自分の家だしアリバイ工作の必要もない。今晩はふたりっきりでいられるのだ。わたしは悪い子だ。とてもとてもいけない娘だ。だけどこれが最初で最後。神様だってマリア様だってきっと分かってくださるはず。
そうして。
お兄さまとふたりで買い物をして料理が出来上がったのはもう夜7時過ぎだった。




