◆ 1話 ◆
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城ヶ丘高校へ通い始めて2週間、綾名は順調に学校に馴染んでいった。
旧友のサトもいたし新しい友達も出来たし部活も楽しいし、時々お兄さまとも会える。
勿論、銀嶺院はお嬢さまばかりの女子校だったから、その変化に戸惑いがない訳じゃない。しかも綾名は瑠璃花と並んで嶺花会と呼ばれる銀嶺院高等部の生徒会から指名が確実視されていた人気者だった。だから未練がない訳じゃない。けれども向日葵様とあだ名される持ち前の明るさは城ヶ丘でも遺憾なく発揮された。級友の信頼も厚く投票によるクラス委員の重責も仰せつかった。だけど家では毎晩耐えきれずに枕を濡らしていたのだ。どこかで心が空中分解してしまいそうだった。綾名は6月の誕生日に結納を交わさなければならないのだ。それも、想う相手とは違う人と。だからこそ学校では余計に明るく振る舞ったのかも知れない。
今日は両親が豪華列車に乗って一泊旅行に出る日。
綾名は朝から両親と一緒に駅へと向かった。
「綾名は本当に親孝行のいい娘だ」
「そうね、こんなに綺麗で優しいし、母さんも自慢に思うわ」
朝から両親は上機嫌、それはそうだろう、こんな豪華な旅は10年ぶりなのだから。じゃあ10年前の旅行はと言うと豪華客船の旅だった。夏休みに7泊8日。綾名はまだ5歳の時、大きな船の華麗な雰囲気は覚えているけど、何を食べたとか何が美味しかったとか、何が面白かったとか、そんな記憶はどこかに飛んでいって全く残っていない。しかし両親は寄港した街で珍しいフルーツをお腹いっぱい食べたとか3日目のロブスターがブラボーに大きくて美味しかったとか、水平線に消える夕陽を見ながら飲んだシンガポールスリングはロマンティックが100万ボルトだったとか、今でもよくため息混じりに漏らす。
ウキウキと嬉しそうな父と母を見ながら大きなスーツケースひとつを引っ張って最寄りの駅まで歩く。よそいきのパンプスは少し歩きにくいけど運動靴にはしなかった。だってお気に入りのスカートに似合わない。昔だったらじいやが車で送ってくれただろう、じいやが去った後でもタクシーで駅に向かうところだ。だけどそうはしなかった。
大阪駅に着くと隣接するホテルへと入る。ホテルの上層階には列車専用の出発ラウンジが設けられていて、優雅にグラスを傾けながらチェックインをするらしい。当然荷物もそこで預けるのだとか。ホテルのエレベータを降りるとスーツケースを係員に預けた綾名は、ラウンジの丸テーブルでスイーツに舌鼓を打つ老夫婦を横目に父と母に笑顔で「いってらっしゃい」。人生最良の日だと嬉しそうなふたりに大きく手を振ると、綾名は再び駅の雑踏に戻っていった。
時間は朝の9時を過ぎたところ、デパートもブティックも本屋もレコードショップもファンシーショップもまだ閉まっているこの時間、綾名は大きな駅を急ぎ足で横切ると話題の巨大商業ビルへと向かう。広い高架を渡ると長い行列で賑わうケーキ屋さん、綾名は急ぎ足のままビルの中に入ると待ち合わせの案内板の前に立った。
待ち合わせ時間まであと45分、さすがに早すぎた。当然お兄さまはまだいない。
「ちょっと散策しようかしら」
今日はお兄さまをお買い物にお誘いした。
お買い物はエプロンひとつ、学校の部活で使うもの。ホントは近場にも売っている。しかし買い物は口実なのでこの際どうでもいい。そう、今日はデート。正真正銘のデート。前にも1回デートしたけれど今日は本格的。だって朝の待ち合わせから始まるんだもの。デートの語源は「会う予定の日」だって読んだことがある。待ち合わせ、もっと昔風に言うと逢い引き、と言う意味。だから突然アパートに押しかけて、突然今からデートしましょ、って頼み込んだ前回のは厳密にはデートじゃない。でも今日は一から百までデート、生まれて初めての本物のデートなのだ。綾名の服装に気合いが入っているのもその所為だ。
今晩は両親不在だからお金も持たされている。綾名も少しは楽しみなさいって1万円も貰った。これが今日のデート費用。
「このケーキ屋さんって、こんなに行列出来るんだ。何だかゆっくりできないな」
長蛇の列のプレッシャーを背後に感じながらゆっくりとケーキを堪能、ってできない。だって気の毒だもの。けれどこのビルの食べ物屋さんはどこも人気だと言う。お洒落で話題のお店が集結してるんだけど…… って、あれっ?
お店を見て回る綾名の眼にひょろりとのっぽで飄々と歩く後ろ姿。
「お兄さま?」
早足で後を追いかけた綾名はグリーンの上着にタッチする。
「お兄さまっ!」
「ふぎゃっ!」
ネコがしっぽを踏まれたみたいな叫び声。
驚いたように振り向いた彼は綾名を見ると胸に手を当てる。
「あ…… 綾名!」
「ビックリしました? ふふふっ!」
待ち合わせまでまだ40分、この新しい商業ビルの事前調査中だったと言うお兄さまは赤いチェックのシャツにジーンズ姿。
「ご両親はもう出発したの?」
「いいえ、多分まだラウンジです。発車時刻は10時過ぎですから」
綾名はさっき見てきた贅沢なラウンジの様子を伝える。ああ、そうらしいね、ネットで見たことがあるよ、と言うお兄さま。ふたりはアテもなくビルのエスカレータを上る。
「今頃珊瑚ちゃんは瑠璃と一緒に遊園地に行っているはずですね」
「そうだったね、瑠璃ちゃん楽しんでるかな?」
「珊瑚ちゃん、お兄さまと行きたいって何度もごねたらしいですよ。瑠璃が言ってました」
ふたり笑いながら店を見て歩く。
「あのね、今日はここに軍資金があります。全てあのチケットを譲ってくれたお陰です。ですから今日はこのお金で遊びましょ!」
「えっ、でもそれは……」
「いいんですっ! これから綾名の最良の一日が始まるんですから」
そう、今日と明日、わたしの両親は贅沢三昧な旅に出る。人生最良の日だって言っていたけど、それはわたしにとっても同じ事。わたしにとっても人生最良の日。お父さまお母さまごめんなさい。綾名は少しだけ悪い子になります。でも絶対後悔はしません。
にこりと微笑むとお兄さまは小さく息を吐いて手すりから階下を眺めた。ここ3階からは1階2階の店舗が見える。昼過ぎにはもっと混み合うだろう。
「ここはどこも込んでるから、あっちのホテルに行かないか? 美味しいケーキがあるらしい」
ふたつ返事で一緒に歩き出す。
1階から外に出ると閑散とした広場、ビルの谷間のそこにも明るい春の日差しが降り注ぐ。
「あ、あの、お兄さまっ! あの宝くじが当たったら、綾名の恋人になってくれますか?」
「はっ?」
驚いた顔のお兄さま。
あの時買った宝くじが当たったら、どちらが当たっても半分こ。綾名の家の危機も救われる。一条家に頼る必要もない。勿論お断りした二岡さんとか三藤さんとか四宮さんに気兼ねしなくてもいい。全ては綾名の自由。そうしたら綾名は……
「恋人って、僕なんかで?」
「宝くじが当たったらお兄さまも大学生になってポルシェだって買えますよ!」
「ありがとう。嬉しいよ。だけど綾名はまだ15だよ。宝くじに当たったら自由を謳歌すればいい」
「イヤです! 15だろうと20歳だろうと30歳だろうと関係ありません。だって決めたんですから」
慌てて決めなくても、と言うお兄さま。だけどそれは違う。ある日わたしの縁談は突然に決まっていた。今だって結納の日まで残された時間はたったの2ヶ月だ。世の中って明日はどうなるか分からない。それにお兄さまだってモテるじゃないの。でももしかしてお兄さま、わたしのこと……
綾名は自分の顔が上気しているのを感じていた。恥ずかしいことを言っている。心臓が飛び出しそうだ。だけど言わなくちゃ!
「あの、綾名ってばとてもお得だと思いますよ。きっと尽くしちゃいますよ。お勉強も頑張りますしお料理だって頑張りますし、あまり怒りませんし、元気が取り柄ですし……」
「分かってるよ、綾名がいい子だってことくらい。そりゃあ僕だって綾名と一緒にいられれば最高に決まってる。今こうして一緒にいられることだって夢じゃないかと思う」
「だったら!」
「ああ、宝くじに当たったら、ね」
違う。わたしが言いたいのはそうじゃない。
「お兄さま、あの宝くじは当たります。だから……」




