◆ 2話 ◆
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
昔と変わらない「お兄さま」の笑顔に綾名の心はぴょんと跳ねた。
「少しお邪魔してもいいですか?」
「あっ、どうぞどうぞ、たくさんお邪魔してください」
翔太は慌ててパパッと部屋を片づけながら。
「あの約束からもうすぐ6年が経つんだね」
「ですねっ! あの時わたし、4年生だったんですよね」
綾名は懐かしい部屋を見回す。少しくすんだ白い壁。くたびれたフローリングの部屋には奥からシングルベッド、勉強机にタンスに本棚、手前にはふたりがけの食卓。昔ベッドはなかったんじゃないかな。だからか8畳ほどの部屋はとても窮屈に見える。
翔太が窓を開けるとそこは、隣家のきばんだ壁に伝う灰色の排水パイプ。
「狭いし、ボロいし、見晴らし最低。おまけにゴキブリの赤ちゃん出てくるしさ。よかったら場所変えてどこかに行こうか?」
「いいえ、ここでいいですよ。ゴキブリ赤ちゃんは勘弁ですけど、ね」
綾名がにこり微笑むと、翔太は食卓の椅子を勧める。
「座ってよ、いま紅茶入れるからさ」
「あっ、それならわたしが」
「いいよ、ここは僕んちだから」
ポットを火に掛けた翔太は、綾名が足下に置いたボストンバッグを何度もチラ見する。どうしたんだろう、と綾名が不思議に思っていると、彼の口から飛び出した言葉は単刀直入でストレート果汁100%だった。
「まさか家出してきた、な~んて言わないよね?」
あっ、そう言うことか! と納得の綾名。
「勿論です! ちゃんと両親の許可は取ってます。えっへん」
「はあ~っ!」
大きく嘆息した翔太は、そのまま笑い始めた。
「あははははっ、よかったっ! いやマジ家出かって心配したよ」
確かに、朝から前触れもなく巨大なバッグを抱えた女の子がやってきたら誰だっていぶかしく思うだろう。心配を打ち消そうと綾名は説明を付け加えた。
「今晩はお友達の家でお泊まり会なんですよ」
「へえ~っ、楽しそうだな」
「はい、きっと楽しいです」
答えながら綾名の瞳は遠くを見つめる。
(想い出すなあ、楽しかったなあ、あの頃……)
あの頃の「お兄ちゃん」は公園でブランコを押してくれたりお勉強を教えてくれたり、いじめっ子を追い払ってくれたり。本当の兄妹のように仲良くしてくれた。綾名はおませで快活な女の子だったけど「お兄ちゃん」にだけは甘えて我が儘も言ったと思う。「お兄ちゃん」はいつも優しかった。悲しいときは綾名の頭を優しく撫でてくれた。嬉しいときは一緒にフラメンコを踊ってくれた。落ち込んだとき、手品を見せてやるって公園のハトを追いかけ回してくれたこともある。真面目だけどひょうきんで楽しかったお兄ちゃん。
しかし綾名が中学生になるとふたりは疎遠になった。綾名が遠くの名門・銀嶺院女子中学に通い始めた、と言うのもあるけど、お互い無邪気な子供じゃなくなったのかな? とも思う。たまに会うことがあっても挨拶こそすれ一緒に遊ぶなんてことはなくなった。もう3年近くそんな感じ。「超」が付くお嬢さま学校に通う綾名はいつしか「お兄ちゃん」を「お兄さま」と呼ぶようになっていた。けれども久しぶりにお話をした「お兄さま」は昔とちっとも変わらなくて、ここに来てよかったって綾名の心は飼い犬みたいにしっぽを振って嬉しくなる。
(大丈夫、お兄さまにならなんだって打ち明けられる!)
「あのっ、わたしの話、聞いてもらえますか?」
「ん? もちろん」
台所の蛍光灯は片方が消えていた。
その下でマグカップを拭う翔太に向かい、綾名は努めて明るくハッキリ元気な声で。
「実は去年、父が事業に失敗して、大きな借金を背負ったんですよ」
「えっ?」
思わず振り向いた翔太に綾名は慌てて手をヒラヒラ横に振り。
「いえいえいえいえ大丈夫! 最後まで聞いてください。借金は一億円近くあって、代々受け継いだ大きなお屋敷も抵当に入ったんです。それでわたしに縁談が来たんですよ。あのね、わたし、一億円の結納金で嫁ぐことになりました。すごいでしょ、一億円ですよわたしったら! 一億円って言ったらクリームパンなら100万個、コロッケなら何と200万個! 食べきれないくらいの凄いお金! 16歳の誕生日に、綾名は婚約の運びとなりましたとさ。めでたしめでたし」
最後、絵本の読み聞かせのようにまとめた綾名、めでたしめでたしの物語なのに、どうしてか目を伏せずにいられなかった。
「で、相手はどんな人?」
「まだ会ったことはないのですが……」
「えええ~っ! 会ったこともないってそれって人身売買?! そんなの許されるの! 会ってもないのに婚約って、そんなのおかしいだろ! それより綾名は? 綾名はの気持ちは? 綾名はどう思ってるのさ?」
まくし立てる翔太、しかし綾名は軽く笑い飛ばした。
「ふふっ、大丈夫ですよ! お相手は一条家の嫡男さまなんですよ。ご存じでしょうか、大阪にある情報IT企業グループ・アイファンドのオーナー一族さま。これって誰もが羨む玉の輿なんです。すごいでしょ! それにわたし、今のままじゃ大学も諦めなきゃいけないんです。だけどその人と結婚したら好きな大学にも行かせてもらえるんですって。ねっ、いい話でしょ?」
大げさにドヤ顔をすると、小さな胸を張る。
まあ胸が小さいのは仕方がない、綾名はまだ15だから。
「……で、今日のお願いって?」
「実はわたし、その一条家の嫡男、弘庸さまがどんな方か知らないのです。国立K大学に通われる秀才で趣味はテニスと音楽鑑賞らしいけれど。あ、お写真も拝見してます。長身で白い歯がまぶしい色黒のイケメンです」
にこりと笑顔で傾ぐ。
「凄いな綾名。心配して損したよ、おのろけ聞かされた感じ!」
「もうお兄さまったら! そんなにのろけてませんよ」
「だってアイファンドって業務用ソフトで急成長した優良企業だよね。ホントにすっごい玉の輿じゃん」
もうっ、もっと心配してもいいんじゃないのっ? とばかりに綾名はちょっとだけ膨れっ面。
そんな気持ちを知ってか知らずか、翔太はマグにティーバッグを突っ込んで、何も言わずに持ってくる。
「あっ、話が逸れました。それで、お願いというのはですね……」
「うん」
「これから彼に会いに行くのに、一緒についてきて欲しいのです」
「僕に?」
「はい」
「どうして僕?」
「そんなの決まってます!」
綾名が想い出したのは縁談を聞かされた時のこと。
一億円の結納金で嫁いでくれないか、と父に頼まれた瞬間、綾名の脳裏に浮かんだ情景。それは翔太にコロッケを突き出し兄になるよう迫ったあの時の記憶。どうしてだか分からない。けれど綾名はお兄さまに会いたいって思った。会って伝えたい、色んなお話をしたい、相談に乗って欲しい。何をって言われてもよく分からないけれど会いたい。ともかく会いたい。それはもう絶対に。
「だってお兄さまは綾名のお兄さまでしょ! 可愛い妹の旦那様は見ておかなくちゃいけないと思いません?」
よく考えると支離滅裂な論法だ。血の繋がりもない、この3年ほどは一緒に遊んだこともない、昔50円のコロッケで結ばれたお安い兄妹の絆。それが突然やってきて、縁談相手に会ってだなんて。しかも凄い玉の輿。嫌がらせなのか当てつけなのか?
しかし翔太は即答した。
「わかった、行くよ。だって僕のたったひとりの可愛い妹の頼みだもんな」