◆ 1話 ◆
古びたアパートの一室で菓子パンを頬張る貧乏高校生。
貧乏人にはお金がない。
お金はなくても人間だ、時間が経てばお腹も空くし、どうせ食べるんなら美味しいものの方がいい。だから日々のメニューに知恵を絞るし、安く買う工夫も凝らす。
今春高3になる青柳翔太、食べ盛りの彼もそんな貧乏人のひとり。
朝のパンは駅前のスーパーMで、夜の値引きシールが付いてから。
自慢じゃないけど、それが貧乏の誇り高き彼の密かなモットーなのだ。
今朝も半額シールが眩しい大好物の「たっぷり美味しいクリームパン」を堪能していると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あいっ??」
今、高校は春休み、だから彼の灰色の脳細胞も春休みモード全開だった。
頭の中はボケボケのまま。
「あいなんしょ……」
「ごきげんよう。お久しぶりですっ!」
「?!」
思わず息を飲み、目をぱちくりさせる翔太。
気品ある純白のブラウスにベージュのスカート。
背中に届く濡れ羽色の髪をサラリなびかせ、黒タイツの細い足をすらり揃える少女は、その美貌を大きく綻ばして彼を見る。
「んぐっ…… って、綾名、さん?」
「はいっ、お兄さまっ!」
台所と8畳間ひとつの狭くて古い彼の安アパートを訪れるものは郵便配達か、はたまた道に迷った子猫だけ。
だから、突然の「妹」の訪問に翔太の眠気は吹っ飛んでしまった。
「ど、どうしたの綾名さん、こんな朝から」
「綾名さん、ではありません。綾名、です。約束でしょ!」
空は青く、春の風に少女のプリーツスカートがひらり。
「約束?」
「そうです。6年前のあの時に!」
少女に優しく睨まれると、翔太は慌てて彼女を呼び捨てる。
「ああ綾名! そうだったね、約束したね、綾名」
「そうですよ、お兄さまっ!」
拗ねたり睨んだり花開いたり、万華鏡みたいに表情豊かな女の子。昔と変わらないくりっと印象的なその瞳に翔太は6年前の「約束」を想い出した。
6年前。
あれは新学期、桜が咲き誇っていた頃だった。
半ズボンを穿いた翔太はまだ小学6年生。
学校帰りの商店街にお腹の声が「ぐううううっ」と響く。
いい匂い。
お肉屋さんの牛肉コロッケ、1個たったの50円。
パチパチ油が跳ねる揚げたてコロッケは翔太の胃も心もくすぐるけれど、彼のポケットには10円玉すら入ってない。
「美味しいんだろうなあ……」
お肉屋さんから少し離れて、じっと佇む黒いランドセル。
勿論、翔太の家がいくら貧しいと言ってもコロッケくらい食べたことがある。それどころか青柳家の晩ご飯にはお母さんの手作りコロッケがよく出てきた。今日もコロッケ、明日もコロッケ、3日続けてコロッケだったこともある。けれども学校帰りに待ち伏せるこのお肉屋さんコロッケはそれとは別物に思えた。決してお母さんのコロッケが不味いというわけではない。それは母の愛情と栄養満点、おからのコロッケも野菜たっぷりのコロッケも王道ポテトのコロッケもどれもとても美味しかった。しかし、買い食いの魔力とでも言うのだろうか、このお店のコロッケはそれとは違ってとびきり魅惑的に見えるのだ。
油の中から1個、また1個と浮かび上がるコロッケ。
「中学生になったら買ってみようかな……」
と、ぼんやり眺める視界を遮ったのは真っ赤なスカートの女の子。
「おじさん、コロッケちょうだいな!」
睫の長いキラキラしたその女の子はお金を手渡し愛くるしく微笑んで。
「おじさんはいつも格好いいね~っ! だから美味しいコロッケもう1個おまけしてくださいな?」
おばさんが言うと図々しい言葉も、彼女が言うと天使のささやきに聞こえるから不思議だ。
「あははは。綾名ちゃんには叶わないや。はい。でもこれは綾名ちゃんにだけ特別。他の人には内緒だよ」
「うんっ、ありがとうっ!」
綾名と呼ばれた女の子はお肉さんにぺこりとすると翔太の方へ駆けてきた。そうしてコロッケがふたつ入った紙袋を差し出すと。
「ねえ食べたいんでしょ?」
それは公園でよく見かけるとびきり可愛い女の子。
「あ、でも僕お金ないし」
「じゃあさ!」
彼女は大きく勝ち気な瞳に光を宿して零れるように微笑んで。
「このコロッケぜんぶあげる。だからね、今日からわたしのお兄ちゃんになりなさいっ!」
「はっ?」
「わたしが妹になってあげる!」
「えっ?」
「わたしは春日綾名。これからは名前で綾名って呼んでね、お兄ちゃんっ!」
想い出すたび頬が緩んでしまう、嬉し恥ずかし6年前の約束。




