◆ 5話 ◆
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
綾名は翔太のアパートに戻ると、小さな仏壇に跪いた。
木目が綺麗な家具風の仏壇は翔太の勉強机の横に奥まって置かれていて、扉が閉められているとそこが仏壇だとはわからなかった。
線香の火を見ていると、ひとつふたつと綾名の脳裏に浮かび上がる昔のこと。そうして今のこと。お兄さまは今、どんな生活をしているのだろう……
ふと気がつくと仏壇の横に綺麗な包み。
「これは?」
「ああ、母の形見。中は指輪」
「見てもいいですか?」
「ああ、もちろん。是非見てやって」
紫の袱紗、菱形のような印が金の刺繍で入ったその布を開くと手の込んだ作りの木のケース。その中にはキラリと光るプラチナの指輪。シンプルでもどっしり太くて品格が溢れるデザインだった。
「凄いですこれ。きっととってもいいものだわ」
「ありがとう」
「優しいお母さまにとってもお似合いだったでしょうね」
お世辞とかお兄さまの手前とか、そう言うことは一切抜きで綾名はそう思う。彼女がこの家に来たのは数えるほどしかなかった。いつも彼のお母さまは仕事でいなかった。公園で一緒に遊んでいるとき何度か会っただけ。細面の美人でひんやりと優しい、そんな不思議な魅力の人だった。
指輪に彫られたイニシャルはMM。浮かんだ疑問を口にすることは躊躇われ、やおら美しくもどこか悲しい指輪を元に戻すと綾名は立ち上がる。
「……では、台所お借りしますね」
翔太の家に戻る途中、綾名はお泊まり先の友達へ連絡をした。晩ご飯は食べてから行くとメッセージを送った。するとすぐに電話が掛かってきて、綾名と友達は揉めに揉めた。友達は一緒に晩ご飯を食べようと待ち構えていたのに綾名がドタキャン申請をしたからだ。友達は相当お怒りだった。しかし綾名もこのまま翔太と別れたくなくって、彼と一緒に食べようと思って必死で説得した。
「で、結局ファミレスで一緒に食べることになったって。その友達ってどんな人なの?」
「松友瑠璃花さん。一見取っつきにくいけど喋ると面白い子ですよ」
綾名は答えながら、駅前のスーパーMで買った卵をボウルに開け始める。
「何作るの?」
「それは出来てのお楽しみ!」
スーパーMに着いたのは夕方5時前、シールの値引きは6時から。明日の朝ご飯にと綾名の勧めで買ったのは「広告の品」の食パンだ。何の変哲もない、ただ安いだけが取り柄の食パン。しかし、あとは「わたしに任せてといてよ」と綾名は発展途上の胸を張った。
翔太の家の砂糖を使い、粉をふるいに掛けたり混ぜたり火に掛けたりを繰り返す綾名。なかなか手慣れたものだ。
「家でも料理とかするの?」
「勿論しますよ。女性のたしなみって母に仕込まれました」
曰く、春日家の凋落はかなり昔からのことだそうで、綾名が小3年の時、家政婦にはお暇して貰ったそうだ。最後の使用人、高畑も去り、今の春日家は広大なお屋敷に3人住まい。料理よりも庭の手入れが大変と綾名はぼやく。
やがて甘い香りが狭い部屋に充満する。
「はい、あとはこれを冷蔵庫で冷やせばできあがりです。2~3日で食べきってくださいね」
壁の時計はもうすぐ6時30分、約束の時間は7時だ。
翔太は綾名の力作をぺろり味見して「おおお」と大げさに感動すると、にんまりとしながら冷蔵庫に入れる。そんな反応に凄く嬉しくなりながら、綾名は翔太の勉強机に座る。そこには1台のノートパソコン。
閉じられた銀色のノートパソコンの外装は傷だらけだった。
「あ、それ中古で買ったんだ。ビックリするくらい安かったんだぞ! 幾らだと思う?」
「えっと、5万円?」
「残念! その5分の1なんだ、凄いだろ!」
どうやら貧乏人というものは「如何に上等で凄いものか」を自慢するより「如何に驚くほど安く買ったのか」を自慢する種族のようで、その「凄いだろ」に自虐の色は微塵も感じられなかった。綾名は見栄っ張りな自分の父親とは違うなと思う。
「パソコンで何してるんですか?」
「あ、ほら友達との連絡とかゲームとか、あと小説」
「ああ、ネット小説って結構面白いのありますよね」
「あ、うん。だね」
歯切れが悪い翔太の反応に??マークを浮かべながらも今度は机に並ぶ教科書を眺める。さすがは高校生、難しいことをしている。応用物理、数学Ⅲ、世界史、化学、政治経済、英語長文読解、古典…… 綾名は何となくその背表紙を綺麗に整える。ふと教科書の間から大きくはみ出した二つ折りの紙が気になって抜き出した。
「模試結果?」
大手教育会社主催の全国入試模擬試験の結果だった。悪いと思いつつその内容が勝手に目に飛び込んできたんだから仕方がないよね、と綾名は自分に言い聞かせる。校内順位1位、偏差値74…… 綾名も通うことになった翔太の高校は毎年国公立大に百人以上の合格者を送り出す進学校だ。お勉強すっごく出来るんだ。そう言えば昔、公園で場違いにも教科書広げてることが多かったなと思い出す。
けど、あれっ? 何これ、どうして空白?
「ねえお兄さま、これ」
「あっ、それはっ…… って、まあいいよ。たいしたことないし」
「何がたいしたことないんですか? 一番じゃないですか! イヤミですか!」
「いや、たまたま」
「またまた~! お兄さまやっぱり頭いいんだ! でも、どうしてここが空白?」
綾名の指先、それは志望校欄。それが全部空白。五つも書く欄があるのに全部空白、真っ白、がらんどう。綾名はつい最近高校受験をしたから分かるけれど、志望校はチャレンジレベルの目標校から安全レベルの滑り止めまで自分の位置を確認できるように欄が幾つも用意されている。けれどもひとつも書いてないって、いったいどういうこと?
「ああ、どうせ行けないからさ、大学。書くだけ無駄」
「ええっ?」
どうして? お金の都合? だったら奨学金とか助成金とかは? そんな思いが綾名の脳裏をよぎる。しかし彼女は言いたい言葉を飲み込んだ。わたしが考えることなんかとっくに考えたに違いない、そう思った。でも、そうであれば…… 別の疑問が頭をもたげる。やおら、そんな綾名の脳内を見透かしたかのように翔太は。
「一応ちゃんと勉強はしてるんだよ。あいつアホだから大学行けなかったんだ、な~んて言われるのは悔しいからね。ほんとにどうしようもないプライドだよ、勉強したってその次がある訳じゃないのにね。たははは……」
「奨学金とか助成金とか、方法は色々あるんじゃ……」
思わず飲み込んだはずの言葉が出る綾名。
しかし答えは予想通り。
「もうこれ以上田舎の祖母に迷惑は掛けられないんだ。今でも無理してお金を送ってくれてるしこれ以上の心配は掛けられない。こんなぼろアパートだって住むのに金が掛かってるし」
「そうですか。ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にして、綾名は自分のバッグから今日買った1枚の宝くじを取り出す。そうしてそれを前の壁に虫ピンで貼り付けた。
「当たったら半分こ、ですよね」
「ああ、お互いにな」
翔太の言葉に頷くと、綾名はその小さな紙切れに向かって胸の前で手を組んで、ゆっくり瞳を閉じた。
お兄さまにいいことが訪れますように。
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店主謹白




