出会い
恐かった。ただひたすら走った。
景色がまるでジェットコースターのように流れていく。
着物は汗で背中にベッタリと張り付き、日澄を不快な気持ちにさせた。
普段まったく走らない足は不足の事態に絡まりそうなほど動いた。自分の息遣いを耳にしながら日澄はただ前だけを見て走った。
何でこんなことになってしまったのだろう。
学校でのイジメに耐えられず、授業中に学校を飛び出した。
私をゴミでも見るようなクラスメイトの視線、クスクス笑い。
見てみぬふりをする担任教師。全てが嫌になった。
父親代わりになってくれている、村で唯一のお寺の住職の玄海さんにも打ち明けることが出来ず、日澄は孤独だった。
悔しさと惨めさで涙が出てぼやける視界の中をそのままに、ひたすら村を歩いた。
気づいたら普段は禁じられている橋を渡り、化け物、と村人が呼んでいるものの住処に入ってしまっていた。
まずいと思った時はすでに遅く、それでも涙は消えずにとうとう日澄はしゃがみ込んで、ただただ泣きじゃくった。
すると、突然空気が一変した。
なにかとてつもなく邪悪なものが背後にいる。
日澄は幼い頃から空気に敏感だった。それは周りの空気を読み、いつも人に気を遣って生きてきた日澄だからこそ感じられるものだった。なるべく嫌われないように嫌われないように、いつも気を配っていたはずなのにこの有り様だ。
日澄は情けなさでますます涙が滲み出てきた。
「なぜ人間がここにいる…。」
突然のしわがれ声、男とも女ともつかない声が日澄の背後から聞こえてきた。
日澄はピクリと肩を震わせる。
見てはいけない 見てはいけない。
心の中では分かっているのに、興味が恐怖を勝って、ついつい後ろを確認してしまう。はっと息を呑む。
そこには全身緑色のゴツゴツとした岩のような皮膚に、恐竜のような顔、おでこからはこれまた緑色の長い触覚が伸びている。
瞳は地獄のように深い深い黒だ。
言葉を操る舌は血のように赤く、鋭く尖った歯が日澄を更に震え上がらせた。下半身は消えかかっており、化け物というよりは幽霊みたいだった。腕だけはハッキリと見えるがイボのようなものがついている。
「どうせお前も私達を殺しにきたんだろう。」
「ち、ちがっ!」
「うるさい!!」
日澄の背後の木の幹に鋭く尖った爪が突き刺さる。
ガッと音がして、それが死命宣告のようだと日澄は思った。
このままでは殺される。私は貴方達を殺しに来たわけじゃない。
言葉はヒューヒューと空気音にしかならなくて上手く出てこない。日澄はくるりと後ろを向いてがむしゃらに走った。
結局逃げることしかできない自分が情けなかったが、本能には逆らえなかった。
「待てエエェェ!!」
化け物は地面を揺らすような大声で追いかけてくる。
嫌だ、恐い、死にたくない、玄海さん助けて!!
そこで冒頭に戻るのだ。森の中をひたすら走り、足は疲労で震え、もう一歩も進めないと思うのに、頭は逃げることでいっぱいだった。
「あ!」
日澄は足元に転がっていた小枝にひっかかり盛大に転んでしまった。
「捕まえたぞぉぉぉ!!」
化け物は振り返った日澄に覆いかぶさり、その強靭な両腕で首を締め上げてきた。キリキリと死に近づく音がする。
「くっ…お願いっ、や、めて…。」
涙目になりながら声を絞りだす。もう終わりかもしれない。
ぼやけた頭でそんなことを考えていると、突然化け物の瞳からは涙がぽろぽろこぼれ始めた。
「お前たち人間は私達が自分達と違うというだけで忌み嫌い、悪さをした仲間を次々と殺していった。私の家族も食べ物を盗みに村の畑へ入っていったところを殺された。ただお腹が減っていただけだというのに。理由も聞かないで殺すなんてあんまりじゃないか。おかげで私は一人ぼっち。ずっとずっと寂しかった。」
寂しい。その言葉を聞いてはっとした。日澄達の住む村では橋を隔てて、昔から化け物が住む森と日澄達が住む村とに分かれていた。そして村では、何度も化け物と人間との紛争が続いていたのだ。玄海さんに聞いた話では10回目の紛争で、お互いの長が、橋をお互いに渡らず、お互いの生活を脅かさないことを約束したのだという。
「それでもまたいつか同じことが繰り返されるんじゃないか」と限界さんは心配をしていた。日澄は眼の前の涙を流す化け物を見て、胸を押しつぶされそうになった。心臓をロープか何かできゅうっと縛られたかのように苦しかった。
化け物、と日澄達は呼んでいたが、姿形は違えど、悲しくて涙を流すことに代わりはなかったのだ。それを今更ながら思い知ったことに日澄は恥じた。そして、死んでいった目の前の化け物の家族を思い、自然に涙があふれた。
「なぜ、お前が泣く?」
涙は消えたがまだ潤んだままの瞳で彼女、いや彼?は言う。
「だって…私達のせいだから…。ごめんなさい。」
日澄は泣きじゃくった。一人ぼっちの寂しさはよく分かっていた。それでも日澄には玄海さんがいる。本当の一人ぼっちを想像しただけで日澄に悪寒が走った。
「ふんっ。そんなこと今更言うなってんだ。そんな嘘の涙には騙されないよ。だが、もういい。お前の顔などもう見たくはない。早くここから出て行け!」
嘘じゃない!そう叫びたかったが今の日澄にはそれを言う資格はない気がして、言えなかった。彼、いや彼女?が鋭い爪で指差した方向は所々光っていて、まるで道しるべのようだった。
言葉は乱暴だがそこに優しさが宿っている気がして、日澄の心の氷が溶け始めじんわりと温かくなった。
「ありがとう。」
日澄が笑って言うと、「ふん。」と言ってその者はどこかへ行ってしまった。その様子を傍の木の上から見ていた者がいたことに日澄は気づいていなかった。夕暮れに赤く染まる木々を光を辿って帰る時、日澄に恐怖心は沸いてこなかった。
まるで夢のような体験をした後、覚束ない足取りでようやく橋を渡った日澄は疲労感でへなへなとそこに座り込んだ。
この時間じゃ、皆に見られるかもしれない。でもそんなことは本当はどうでもよくて、酷い脱力感に立っていることが出来なかったのだ。足はガクガクと震え、心臓は興奮で耳元でなっているかのようにドクドクと煩かった。
よくよく足元を見てみると森の中をひたすら逃げ回っていたので、草履は泥だらけだった。先程の出来事が夢であるかのようにそこはいつもの平和な村の様子が広がっていた。
「日澄?」
聞き慣れた、心臓に重しが乗っかるような低い声が後ろから聞こえた。そこには寺の住職で日澄のお父さん代わりになってくれている玄海さんが立っていた。声には心配の様子がありありと表れている。
「玄海さん!」
日澄は救われたといった表情で玄海さんに抱きつく。
「どこに行っていたのですか?探し回りましたよ。学校を途中で退席したと聞いて。」
そして日澄の泥だらけの足元を見て訝しげな表情になる。
はっとした顔をして眉間に皺を寄せた。
「日澄…まさか…。」
そこまで言うと玄海さんは日澄の腕をとり、寺へと進んでいく。
もしかしたら玄海さんにバレているのかもしれない。どうしよう。普段怒ったりしないけど、村の掟を破ったのだ。ただでは済まないかもしれない。日澄は不安になってきた。
村の頂上にある寺が2人の住処だ。寺に辿り着く前には長い長い階段を登らなければならない。この足では登れそうにない。
すると玄海さんは階段前でしゃがみ、「日澄、乗りなさい」と優しい声で日澄に言うのだ。おんぶなんてどれくらいぶりだろう。
日澄は自分の気持ちを汲みとってくれたことが嬉しいのと、恥ずかしいので照れながら、玄海さんの背に乗った。
「ありがとう。」
小さな声は春風に乗って消えていった。
寺についてまず始めにお風呂に入った。玄海さんはその間に日澄の汚れた着物を洗ってくれた。シャワーのお湯を浴びながら日澄は、今日あった出来事を思い出した。初めて見た得体のしれない者のこと、逃げていた時の恐怖、足の震え、全てがフィルム映像みたいに流れていった。勘のいい玄海さんのことだ、なにかがあったことはすでに気づいているだろうけれど、このことを言ってしまっていいのだろうか。だって相手の領域に入ることは禁忌なのだ。
モヤモヤした感情のまま風呂場を出て、タオルで丁寧に体を拭く。髪もしっかりと乾かして、寝間着に着替えるとやっとほっと一息つけた。台所に行くと、もうすでに食事が出来上がっていていた。玄海さんはお寺の住職だから、料理はいつも精進料理というやつで、質素だが日澄はもう慣れてしまっているので美味しさを感じられるのだ。
玄海さんの方をチラチラと見ながらちまちまとご飯を食べ終え、いつもの通りにごちそうさまをして、さあ、片付けようとしたところで、限界さんが日澄を呼び止めた。
「日澄、片付けはいいから、今日あったことを話してみなさい。」
「…うん。」
玄海さんの声は柔らかさを含んでいたが、同時に答えなくてはならないというプレッシャーを感じさせるのだった。日澄はとつとつと、今日あったことを話した。ただし、イジメを苦に、ということは話さなかった。玄海さんの反応を見るのが恐くて、ずっと下を向きながら。視線は毛羽立った、畳に注がれていた。
「やっぱり、橋を渡ってしまったんですね。」こくり、と日澄は頷くのが精一杯だった。
「そんな危険なことをしてはダメでしょう!!」
今まで一緒に暮らしてきて、こんなに声を荒らげる玄海さんは初めてだった。はっとして玄海さんを見る。すると、玄海さんは表情を緩め「恐かったですね。」と言い日澄の頭を撫でてくれた。
「うわーん!!」
日澄はほっとした途端、玄海さんに抱きつき、泣きじゃくっている間、ずっと頭を撫でてもらった。
「玄海、さ、ん、また紛争が、おこっちゃう?」
「それはないですよ。平和宣言をお互いしてますし。ただ何かしらのアプローチを向こうがしてくるかもしれません。日澄、あなたのことは私が守ります。次からは絶対、何があってもあの橋を渡ってはいけませんよ。」
「分かりました。」
後片付けはいいからと、日澄は寝かされ、すぐに眠りについた。玄海さんは片付け終わった今で茶を啜りながら、「何事もなければいいんですけどねぇ。」
と珍しく眉間に皺を寄せて呟いていた。
その夜、眠っている日澄に不思議なことが起きた。突然、昼間の光が辺りに漂い始め、そして日澄の身体はその光に誘われるように、本人の意思に反して動き始めたのだ。日澄は自分でも気づかないまま寺を出て、長い長い階段を下り、またあの橋を光に誘われるままに渡っていったのだった。