第97話 過日
復讐を遂げた日に、肉体は燃料と化して炭化し、魂魄は肉体の頚木から離れようとした。俺は身動きすらままならない身体となってしまったが、それでも生き残ってしまった。
命が助かったのは運が良かったからだろう。故郷に戻る数ヶ月の間、執行官に命を狙われて、俺はほとんど反撃ができなかった。その時に守ってくれたのは、ビィの機転や俺を慕ってくれた仲間たちだ。
その仲間たちも俺を見捨てた。故郷へ戻ってから数年と経つと俺の存在は地に堕ちた。俺の傍らには命を買った女がいるだけになり、命すら狙われなくなった生きる屍となった。
匙の粥を啜り、胃の中へ落とす。
「もともとたいした男ではなかった」
「そんなことありません」
「そんなことあるんだよ」
根拠の無い慰めは、現実から眼を背けさせてくれなかった。
俺の個人の力を極めんとした生き方は羨ましがられるが、実用性に乏しいものだった。個人の武は娯楽に近いものであり、戦争の技術とは似て非なるものだ。魔王の家系において個人の武は軽視されるものであり、俺は兄弟の中で浮いた存在だった。
唯一の拠り所の武がなくなれば、勇者も愚者と化す。
寝床は日に日に湿り、流れぬ感情の涙を吸い込んだ。生き物は糞袋だが、俺の肉体は絶望を包み込んでいた。筋肉ではなく骨で身体を支え、排泄物すら自分で処理ができず、本を読むことさえも一人ではままならなかった。
季節はめぐり、徐々に日が過ぎるのが早くなった。
俺は考えることを忘れ始め、食って出して寝るだけの存在となった。
シニタイシニタイシニタイシニタイと呟いても自分では死ねないので、俺を世話してくれた女に殺してくれと何度も懇願したが、涙を流して止められたので、俺は唯一の救い人である女を殺したいと願った。
何度目かの春に、発情した猫が窓の外で交尾をしていた。そういえば何年もしていないな、と単調な思考を爆破するように輝いた。世話人の女が来たので肉体を凝視した。滑肌は触れば理性が吹き飛びそうで、全てを台無しにして襲い掛かりたくなった。
だが身体は反応しなかった。
脳の中だけ性欲は高まり、欲は別の欲を呼び覚ました。
そうだ。
俺は忘れ去っていた。
他人の身体を破壊したい……俺は圧倒的な暴力に魅せられている。愛を知らずに暴力を知り、愛を知っても暴力に熱狂していた。
後世に残すことは最早無い、俺が残すのは暴力の痕跡だけだ。
それならできる。
それなら得意だ。
「どうしましたか、ダルシャン様」
俺の顔を窺う女を、俺は寄りかかって押し倒した。
押し倒したつもりだったが、女はそれを支えた。
女は俺より強い、ならば武で倒す価値があった。
俺は歯を立てようとしたが、その前に女は俺を支えて体勢を整えてくれた。
俺の歯は届かなかった。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
俺は吐き気がするくらいに絶望した。それは歯が届かなかったからではなく、女が俺の殺意にまったく気づいていなかったからだ。重傷を負う前は殺意を飛ばすことだってできたのに、俺の殺意はひ弱な女にすら届かなくなったのだ。
ああ、何でこんなことになってしまったんだ……。
神様に祈りたくなったが、最後の矜持がそれを許さなかった。
俺は呼吸とともに絶望を散布させて、心を落ち着かせた。
……俺は女に感謝している。
だが、女は俺を永久に理解できないだろう。
この時、俺に黙って噛まれてくれれば、俺は救われただろう。
殺すまでいかなくても、傷を残せたら、俺は満足して思考を停止しただろう。
安らぎは無かった。
俺は絶望した。
離れずに側にいてくれた女だけは、俺の完全なる理解者だと思っていたからだ。
生き物は本当に孤独だ。
精神が分かり合える同士などいない……いや、いた。
俺はそれを持っていた。
殺し合いの場だ。
そこは殺意が衝突して至極簡単な関係となり、相手と心が同化したような気分となる。生き延びたものが死んだ者を背負って行く、あの単純な場所は野蛮だが果てしないほど純粋だった。
だが戻れない……。
俺の絶望は寝床から流れて、屋敷の地下まで届いた。隙間風が家の隅々まで届くように、俺の絶望は屋敷の中を襲い尽くした。
最後の駄目押しは、俺の弟の所業だった。
顔も知らない弟が俺の寝床へと来た。傍らには大型の猫がいて、春先に交尾していた猫を噛み殺していた。弟は大型の猫に命令して、俺の脚に噛み付いた。痛みは殆ど無かったが、残虐な笑みを浮かべる弟に俺の精神はボロボロにさせられた。
「お前が元世界最強か?」
俺が黙っていると、弟は毛も生えていない性器を出して、俺の顔に小便をかけた。
排泄物が髪をぬらし、火傷を痛めつけた。
「また来るよ」
小便は口中に入り、俺は退けようと歯に力を入れた。怒りで歯が砕けてしまい、女に身体を洗われて清潔にしても、日々が過ぎても、怒りの業火で我を忘れ続けた。
弟が次に来たとき、小便をかけようと油断した弟の性器を食い千切り、咽喉を噛み離して、隙間風のような呼吸をする弟の心臓が消えるまで胸元に耳を当てていた。
とくんとくんと最後に音を立てて、腹を痛めて生まれた子は無様に死んだ。
死に耳を傾けていると、足音が聞こえてきた。
世話係の女の足音ではない、それは野生を忘れた大型の猫だった。
扉を開け、気だるそうに飼い主を見て、次に俺を見て襲い掛かってきた。
その時俺は漏らして、自分の最悪な死に方に絶望した。
それが最後の一押しだった。
地下に眠っていた、親父殿の兵器が蘇った。絶望を食い物にする甲冑が館の床や壁を貫通して、俺の寝床まで来た。鎧は迷わず大型の猫を包んで圧死させた。
否、鎧は猫を食っていた。
そして、俺の下にいる弟をも食らい、最後に俺を包み込んだ。
鎧の中は血で濡れていて、優しく俺を包み込んでくれた。
死体は中には無く、鎧は絶望を食らうように、死体を消化してしまったようだ。
「ダルシャン様……」
「ビィか……」
世話係の女が惨状を見て絶句していた。
そして俺の鎧姿を見て、口唇を震わせて泣き始めた。
「これで生きることができる」
「はいっ……」
俺は絶望を食う鎧を自在に動かせることができた。俺は女を組み敷き、動かなくなったモノを絶望で動かした。俺が女を抱いているか、鎧が女を抱いているのか、訳の分からない感覚になったが、それでも俺は良かった。
これで再び殺戮に身を委ねることができる。
それから数年が経ち、旧知のプレスターと久しぶりに会った。
プレスターが俺の渡海を阻止しようと人魚たちを仲間に引き入れたが、網は針を通すものである。俺は少数精鋭で威力偵察を行っていた。
つまり、俺は半島へと渡っていた。
だが大人数ではないので当然戦えなかった。
俺が偵察に来たのは王の眼を持っているからだ。
誰よりも信頼できる俺の能力だ。
「亜人は半分に分かれたか……愚策だな」
「そうでしょうか」
プレスター傘下の屍人の軍団と戦っていた亜人が戦力を半分にしていた。おそらく迂回してどこかの軍隊と戦うのだろうが、数的有利を捨てるのは愚策としか言えなかった。
「ああ、それが当初からの作戦ならばまだ分かるが、兵士たちへの命令が徹底されていないのが一目で分かる指揮ぶりだ。あれではプレスターには勝てんよ。それにだ」
俺は顎を支えている台が倒れないように戦況を眺めた。
「アレが居て、戦力を半分にするのは相手を舐めすぎている」
「アレとは?」
「あのエルフのような、屍人のような女だ」
「あれは……調べによると屍人のハロハルハラという女ですね。長所は馬鹿だそうです」
「……馬鹿かどうかは知らんが、あれは屍人ではない」
俺の王の眼がそれを告げていた。
「そうなんですか? それは強いとか……」
「いいや、あれはもっと上等なものだ。プレスターもなかなか面白い者を味方につけているな。プレスターもあの女も自らの宿命に逆らって何が楽しいのかねぇ」
俺は殆ど動けない身体で、物好きな吸血鬼を嘲笑した。




