第88話 竜騎
俺とレッドは暗渠の中で皆と別れて、宿が密集している川辺へと向った。夜更けだったので泊まる事は難しいかと思ったが、食事無しなら――と三軒目で宿を見つけることができた。
「疲れたねー」
レッドは眠そうに瞼をこすり、そのまま寝具の中に這い行った。すぐに寝息が聞こえだ。極楽の世界に行ってしまったようだ。吸血鬼と人間の体力の差だろうか、俺は身体の汗を濡れた布で拭いて身を綺麗にした。夜風が窓から入ってきて、清涼感に包まれた。
「身体拭いてやろうか?」
レッドに聞いたけど、寝言で返事した。
昨日までの二人旅で、とうとう若妻に手をつけた――と思うかもしれないけど、実はまだ手をつけていなかった。
俺は窓から手を伸ばして、木の若葉を千切り、即席の煙草を作って深々と吸った。
大事にしていたのもあったけど、根源的な理由があった。
「ベルゼブルのせいだ」
俺の小声はレッドには届かなかったようだ。
ベルゼブルが具現化した昔の妻の思い出は、日毎に粉雪が積層するように、凍りついた殻で俺の心を包んだ。昔の妻のことは、この世界に来てから思い出すことも少なかったが、形として目の前に現れてしまうと、昔の感情が色々と邪魔をしてきた。
本気の恋であればあるほど、次の恋は始められないものだ。
昔の自分を完全に否定してしまいそうで怖いからだ。
紫煙に心を遊ばせて、たゆたうように呆けていると、煙草の臭いでレッドが眼をさまして布団の奥から覗いていた。
「臭い」
「煙草だからな」
「そういうことじゃあなくてー」
「いちいちうるせーなー」
俺は窓から外へ向けて煙を吐いた。
「よろしい」
「へいへい」
レッドはそういうと瞼を閉じそうになった。
「ガキは寝ていなさい」
「なにおう」
そういうと起きて、俺の隣の椅子に座った。
「起きました」
言った先から瞼を閉じそうになったので、唇を指で掴んだ。
「むっ」
「寝ているじゃん」
「身体は起こしているよ」
しばらくの間、レッドは俺に凭れかかった。
安逸を破ったのは異音だった。
「……何の音だ?」
俺が耳に手を当てると、レッドも起きて同じような動作をしたが、何も聞こえないようだった。俺は窓から屋根に降りて周囲を見渡した。外は闇に包まれており、虫の鳴き声しか聞こえなかった。
「平気?」
「アイビーを出しておけ」
レッドは「ほいっ」と言うと、パジャマ姿のアイビーを出したので尻を引っぱたいて起こした。アイビーも眠そうにして、綺麗な鞘の剣を手に取った。
「敵ですかー?」
「分からん」
俺は突きに特化した西洋風の剣を手に取った。猟刀に飽きたわけではなく、魔物たちが作る剣が西洋風だったためだ。刀や剣と言うものは手入れを怠れば簡単に劣化してしまう。ましてや大型の魔物と闘ったりすると簡単に刃こぼれがする。基本的に使い捨てなので武器に拘りがなかった。
「いってらっしゃーい」
「上かな?」
両目に力を入れると、宿屋のもう一つ上の屋根が邪魔でよく見えなかった。音のするものは屋根の死角にいた。屋根の上に登ろうとしたため、一瞬の隙を突かれてしまった。着地する前に左肩に大きな矢が突き刺さり、頭上から縄の輪が落ちてきた。
縄は首を締め上げて、そのまま俺を持ち上げた。
人間ならば身体が持ち上がったときに即死してしまうが、俺は縄を両手で掴んで即死を逃れた。敵は竜が二体と騎手が二人だ。弓矢を放ったのは騎手だが、縄の出所は竜の足首だった。
俺は力任せに縄を昇り、竜の足首をもぎ取ろうとしたが――もう一体の竜から縄が放たれた。縄の輪は同じように首を締め付けてきて、俺の首は左右から裂かれそうになった。
ずしんと首に重みが来たが、面食らったのは竜だった。
首を切断して縄に引きがなくなるはずだったが、まったく動けなくなったからだ。
俺はどちらの縄も掴んで、首を切断されるのを防いだ。
体勢を崩した竜と騎手には気を取り直す暇を与えずに、片方の竜の縄を思いっきり引っ張った。騎手は振り落とされて地面に落下し、俺は引き寄せた竜の頭の上に乗った。縄は竜の首を二回転させて、剣を竜の脳天に突き刺して殺した。
残りは一体と一人。
頭上には竜が飛翔していた。
向ってくるかと思ったが、竜は敗走するように南へと勢いをつけて飛んだ。俺の下にいる竜は引っ張られて、俺の首へと繋がる縄も締まり始めた。刺した剣を足がかりにして、腕の力を使い縄を引っ張り返した。
しばらくの間、竜と吸血鬼の綱引きが催された。
幕引きはすぐだった。俺は縄に血をしみこませて、縄伝いに徐々に侵略をしていた。竜の足首の縄に血が辿り着いたとき、血は竜の足首を切断した。
転瞬。
俺は竜の脳が付着した剣を抜いて、頭上の竜へ向けて投げた。剣先は顎の下から入り、頭に深々と刺さった。
足りん。
俺は足元の竜の鼻先まで歩き、口に両手を突っ込んだ。
立派な牙があった。
歯茎はヌラヌラしており、腐臭のする唾液塗れだ。指先を深々と沈めると、粘着質のある肉の感触がして、牙の根元を掴むことができた。痰の絡む牙を飛翔する竜へ向けて投げた。
投げた。千切って投げ、千切って投げ、千切って投げ……心臓を貫いた。
俺の乗っていた竜が地面に落ちて、頭上の竜ももうすぐ落ちそうだった。あの竜の騎手はまだ生きている。俺は縄を両側から掴んで力任せに千切ろうとした。竜と吸血鬼の力に耐えただけあり縄は特殊性だった。人間の髪の毛を混ぜており、編み方も特殊だった。数秒苦戦したが、コツを掴めばすぐに千切ることができた。
俺は走った。
頭上にいた竜へ目掛けて。
目の前に竜が現れた。
騎手は槍を持ち飛び下りようとしていた。
大地に足をつける瞬間、
俺の拳が騎手の横っ腹を叩いた。
脇腹が粉砕して、玉を坂から転がすように回転して近くの木に激突した。
ゴブリン領で竜が大暴れしたということで、ゴブリン国の兵士たちが調査に乗り出したが、竜の死体が二つ、そして騎手の死体が一つしか見つからなかった。同時に街ではこんな噂が流れた。
暗渠の中から叫び声が聞こえたと――。
だが誰もそれを信用しなかった。
その噂の発進元は、深夜の酔っ払いたちだったからだ。




