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第77話 奴隷神

 全知全能は悪魔すら意のままに操っている。

 ゆえに全知全能だ。

「悪魔は生物ですらない、悪を霞のように食らい生き延びている」

 俺たち不死者は人間から見たら悪魔寄りかもしれないが、俺たちから考えたら俺たちは人間のほうに近いと感じる。悪魔は生物ですらない、それが人間よりも優れているか劣っているか判断がつかないのが重要な点だ。

 だから最高位の天使は神に逆らい、堕ちた。

「てめーも、落ちたもんだな」

「ご勘弁をー」

 俺は床に正座をさせられているナユキの後頭部に座った。全身を荒縄で縛られていて、蓑虫のようにも見えた。

 俺はベルゼブルに襲われた後に、ユーリの家へと戻った。同じ部屋で寝て、朝を迎えて食堂へと行くと、ユーリの奥さんに縛られたナユキがいた。

「何をしたんだ? おっちゃんにいってみ」

 ナユキはしばらく無言でいたが、折のように硬い口の鍵が開いた。

「か、かくにがたべたかったんだよー」

 ナユキは幼女のふりをしてブリッ子をしていた。

「角煮?」

「そうだよ!」

 水路の堰が破壊されたように言葉が流れ出た。

 日本にいた頃に、住んでいた家の隣がラーメン屋だった。おっ、お嬢ちゃん。また来たのか! いつものだな! うん。いつもの頂戴! その会話は日常だった。あそこの角煮ラーメンは普通のラーメンに角煮をのせるという工夫の一つすらない単純なものだった。当然、味はバラバラで、麺と汁と肉は独自に主張していた。でも、一食、二食と重ねると、味覚のほうが角煮ラーメンに媚を売るように擦り寄って行った。

 結果、美味しくなったんだよ。

 あれこそ、あれこそが私の角煮の原風景だ。

 それを突然思い出しちゃったんだよ。プルースト効果というやつだ。窓から流れてくる角煮の美味しそうな匂いが私の心をくすぐって、

「私を獣にしたのさ」

「お前、馬鹿か」

 ナユキの頭を踏んづけて、ユーリの奥さんに、

「こいつ知り合いです」

 と言うと、

「やっぱり」と言われた。

 どういう意味だよ。


「本当だったら、もう少し滞在していたかったけど予定変更だ」

「急にどうしたの?」

 レッドが首をかしげながら言った。

「昨日の帰り道に話しただろ。ベルゼブルの件だ」

「私と大将がいれば平気ですよ」

 後頭部に靴のあとが残るナユキが言った。俺たちはユーリたちに悟られないように、部屋に集まり話していた。

「馬鹿か。悪魔を甘く見るな」

「アクマをアマク……少し似ているね。プーちゃん」

「本当だ!」

「凄い!」

 すぱーん! 手近にいたヴィトの頭を叩いた。

「ごめんなさい……」

 レッドが口火を切ったのでショボーンとしたが、

「俺はこの一人と一匹に怒ってんだ」

 レッドは妻だから許す。

「酷い! 差別だ! 大使館を経由して正式に抗議する!」

「狼の国の偉い人を経由して抗議する!」

 俺はナユキの首を掴んで、頬に爪を立てた。

「なんつった?」

「いえ、すみません」

 素直に謝ったので離してやった。

「少しふざけただけなのにー」

「ふざけている暇が無くなるかもしれないぞ」

 俺はのほほんとしているヴィトを見た。

 そう……俺とヴィトは危険なのを知っていた。


 ベルゼブルに襲われた後、レッドが寝静まってから、屋根の上で警戒をしていた。

 相手は蝿の王だ。

 不意打ちを食らえば終わりだ。

 これ以上追撃が無い可能性が大だが、零ではなかった。

 闇夜に動くのを捕らえたのは、月が雲に隠れたときだ。

「ヴィト?」


 ヴィトが夜道を歩き、俺は後をつけた。

 淀みなく歩く姿は、川の流れのように緩やかで迷いのない動きだった。竹薮を抜けて、月に照る原っぱを抜けて、川原までやってきた。

 そこには肥満姿のベルが片眼を瞑って寝ていた。

「おい、ベルゼブル」

 驚いたように左右に首を振り、頭を一回転させた。

「これはこれは狼?」

「ふざけるのか? お前が俺を分からなかったとは言わせないぞ」

 俺は自分の両目を疑った。狼は後ろ足で立ち上がると、木の板を折るような音が鳴り、鳴るたびに狼の骨格が変貌した。それは狼でもなく、人狼でもなかった。全身を毛で覆われた人型の男が現れた。

「スヴェントヴィトか。さっきは黙ったままだったが、何か用かな」

「本当に気付かなかったのか。蝿め」

 ……スヴェントヴィト。スラブ人の最高神とも言われ、四方世界を統べる力を有していて、軍神でもあるとされている。だが――アブラハムの宗教により淘汰されたはずだ。

「あれは俺のものだ。手を出すな」

「あれ? ああ、あの子供のことか。……そうだ。そうだったな」

 俺は出来る限り離れて様子を見ていた。前世のときでも神は見たことがなかった。ベルゼブルも元をたどれば神であり、悪魔に堕ちても威光は変貌していなかった。

「約束しろ。絶対に手出ししないと」

「おいおい、スラブの――奴隷スレイブの神よ」

 スヴェントヴィトの歯が割れるような音がした。

「私に指図できるほど、偉くなったのか」

「偉い? そういうのが問題ではない」

 ベルゼブルが脂肪から抜け出てきて、舌を出しながらスヴェントヴィトを睨んだ。

「人間が作り出した化け物が、人間に成り代わるはずがなかろうが」

「その監視が俺の仕事だ。だから、お前は手を出すな」

「くだらん。貴様はまだ分からんのか」

「何がだ」

「我々は我々が思うとおりに悪を為せばいいのだ。それが神の意思だ」

「だったら俺の行動も神の……」

「いいや、違う」

 ベルゼブルはスヴェントヴィトの髪の毛を掴んだ。

「悪魔は悪だ。天使は善だ。我々は悪だ。悪を為すのが、悪魔なのだよ。お前がしている行動は、私の悪を退けようとしている。それは善だ。それは許されんなぁ」

「なら」

 ベルゼブルは反吐が出るほど笑顔になり、淫猥な表情になった。

「まあ、良いだろう。奴隷の神に免じて今日のところは許してやろう」

 そう――今日だけは。


 ナユキと朗らかに戯れている狼は神であり、悪魔の一員だった。

「ほらほら準備しろ。早く!」

「分かったよ。大将」

 ナユキは唇を尖らせながら、文句を言っていた。

 その横でヴィトは楽しそうに尻尾を振っていた。

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