第76話 蝿王
血の滴る肌は原色で、生臭いものを感じさせた。濡れた指が木の実を選り分けるようにしなやかに動いて、人々を掻い潜ってきた。
紛れも無く地球にいたころの妻だった。
ミナの幻術とよく似た技だろう。俺は頭を捕まれたときに記憶を奪われていたのかもしれない、そうでなければ前妻にこれほど酷似させることは出来なかっただろう。いや、もしくは肉体自身に魔術的な何かをかけられているのかも知れない、見る人間の記憶や感情を鏡のように映す秘儀かもしれなかった。
どちらにしろ、彼女はいる。
俺が殺した最愛の女が目の前にいた。
「大将! 危ない」
俺はナユキの剣を奪い取り、体の横で縦に構えた。
これは偽者だ。
決意とともに息を吸い、吐き出しながら上段から振り下ろした。地面に落ちていた砂が舞い上がり、周りの建物にあたって音をたてた。
駄目だった。
俺は剣の落とし所を迷い、前妻の横の地面を斬りつけていた。
「危ないでしょ。アナタ」
俺は抱きつかれる前に距離をとって、ナユキとヴィトに手を出させないように言った。
「アナタ……?」
ナユキが首を傾げてみている。反応から察するに彼女の目にも前妻の姿は、俺が見たままの姿のようだ。となると、先ほど頭を捕まれたときに何かを……。
ふと、後頭部を摩った手に違和感があった。
何かが付いている、指で無理やりはがすと、痛みが走った。握りつぶして、掌の上で観察してみると、それは爪先ほどしかない指だった。
「あら、気づかれましたか」
ベルが群集を掻き分けようとしているが、狭い道に大きな車は入らないのと同じで、つっかえているようだった。
ベルが来る前に指を握りつぶそうとすると、
「やめて!」
俺の前妻は叫び声を上げたが、俺は握りつぶすことができた。
苦痛はやがて怒りへと変わった。
また、俺に、妻を殺させた。
ベルにとっては秘儀の一つなのだろうが、最愛の人の生き写しを作る秘儀はあまりにも酷だった。過去を捨て去り、今を生きようとしている人間にとっては特に苦痛だ。もしかしたら最愛の人を映す力では無いかもしれない、だがそれに近い能力だろう。そうなると、俺はいまだに昔の妻を愛していることになるのかも知れない。
その疑惑が、自覚していなかった俺を苦しめた。
苦痛は怒りを生み、人海を掻き分けてきたベルへと向かった。
明確な殺意は爪を鋭利にさせ、肉と肉のつなぎ目に刺さった。俺は掌で指を潰したときに違和感があった。なぜ、トカゲのように自由に切り離すことができるのだろうか、その考えを突き詰めていくと、俺には一つの光明が見えた。
この女は、肉を着ている。
肉を刺して、両腕で広げると、血が噴出して、中から棒状のものが飛び出てきて、二つの輝きが浮かんでいた。それは右腕、それに両目だった。血走り狂気のこもった眼光は俺を射抜き、骨ばった手が俺の首を掴んだ。
「なかなかやるな」声の感じも変わり、温かみのあるものではなかった。「だが、私は一筋縄ではいかないよ」
脂肪すらない骨の腕は力強く、俺の首を捻じ曲げようとした。
「なんて……馬鹿力だ」
「当たり前だ。私は人間ではないからな」
祖――アイシャがいなくなって弱体化したとはいえ俺は吸血鬼だった。肉の中にいる細身の女に負けるなんて考えられなかった。
「私の名前はベル。吸血鬼、ベルで思いつく言葉は無いのか?」
俺が裂いた肉から、ベルは服を脱ぐように出てきた。血に濡れていて、人型だったが、それは人間ではなかった。獣のように毛が生えており、それでいて獣には見えない、その姿は虫と人間を掛け合わせた姿だった。
本能的に蝿だと確信した。
「私は蝿王だよ」
「これはこれは、超有名人じゃあないか」
悪魔の頭が教団を操っているとは失笑物だった。ベルゼブルとは一般的には蝿の王と呼ばれているが、悪魔の頭――サタンと同じ意味で用いられていた。W・ゴールディングや、神秘思想家のグルジェフなども題材で扱ったことがあり、身近な悪魔の一人であろう。
俺は痩せ細ったベルゼブルの指の力に感動して、
笑ってしまった。
「こいつは最高だ。いつの間にこっちに転生したんだ?」
首よりも腹が痛かった。
それぐらいに愉快な気持ちになっていた。
「お前とは違う。私『たち』はこっちへ来たのだよ」
そのまま力をこめられていたら首を切断されていただろう。だが、ナユキとヴィトが加勢をしてくれて、俺は悪魔の膂力から逃れることができた。
ナユキは額から汗を流して、ベルゼブルを見つめていた。
「ううっ……、サインが欲しい」とナユキ。
「右に同じく」とヴィト。
「私は構わないよ」とベルゼブル。
俺は真剣にふざける暇は無かった。舌を噛んで、血を含み、霧状に散布した。弱体化したが血を霧にすることぐらいはできた。俺は視界を零にして、ナユキとヴィトを担いで逃げ出した。
「逃げるのか、吸血鬼」
「悪魔の頭と戦って勝てるはずが無いね」
「名だけは聞いておこうか」
「プレスター・ジョン、もしくはヴォルデンブルグだ」
ベルゼブルが笑った。
「東方王か。覚えておこう」
ベルゼブルが追いかけて来なかったのは意外だった。
俺たちは言葉少なくユーリの家を目指していたが、俺は目が霞んできた。
疲れではない、前妻のことを思い出して、涙が出てきた。
情けなかったので、物陰で一休みして、涙が止まるのを待った。
「先へ行っていてくれ」
涙は声すら曇らせる。
ナユキは俺の様子をわかったようだが、何も言わずに先を急いだ。
しばらく気を静めていると、足音が聞こえてきた。
「慰めに来たよ!」
レッドが俺に抱きついてきて、俺の頭を掴んで胸元に押し付けた。
「私の胸を貸してあげるよ! 泣かないで! 私がいるよ!」
「ぷっ……」
思わず笑ってしまった。
前妻のことで悲しんでいると聞いていると思うのだが、そんなこと関係なく慰めてくれる器の大きさだ。
「おっ、元気でた?」
「悪いな」
「へーきへーき。ただ、一言だけ言わせて」
「何だ?」
「前の奥さんが良い人であっても、私のほうが凄い」
胸を張っていったが、具体的に何が凄いかは分からなかった。
「たとえば」
「溢れるぷーちゃんへの愛とか」
冗談交じりで言っているけど、本気そうなので嬉しかった。
「終わったことだけど」
たまには誰かが思い出して、泣いてあげても良い――。
「今は過去からできているんだよ。亡くなった人を想って泣いてあげたって良いよ」
俺は驚いた。
レッドの言葉が俺の考えと似ていたからだ。
「ありがとう」
俺はレッドと手をつないで、昔話をしながら帰途についた。




