第75話 肉塊
酒場から飛び出して、気配の尻尾を残さないように無音で闇に隠れた。鍛え抜いた歴戦の戦士でも己の気配を消すのは容易ではない、二人と一匹は完璧に気配を消した。だが気配を消したからといって、存在が消えるわけではない、俺は自分の吸血鬼としての体臭が気になった。
「吸血鬼って臭いが違うのか?」
俺は手首の臭いを嗅いでみたが、ほんのり汗の臭いがしただけだった。顔の前についている鼻は自らの体臭を嗅ぎ分けることが苦手なのだろうか。
「体臭を消すには香水が良いですね。ちなみに、私はナンバー5の香水が好きです」
「ブランド嗜好かよ、いけすかねーなっ」俺は幼女と狼を担いで、隣の家の壁の影を沿うように、屋根の上に飛び乗り、乳色の月の下を跳んで逃げた。風の流れが体臭を運ぶなら、気配を断ち切ったとしても気付かれる恐れがあった。
案の定、断ち切ったはずの気配を辿られたようだ。片目だけでベルを見たが、目線が交差した。月明かりの暗さでもベルはこちらに気付いていた。やはり臭いで分かるようだ。
肥った体で追い縋ってきて、溢れ出る脂肪を上下に揺らしていた。揺れる肉は身体に負荷をかけているようで、辛そうな表情を浮かべていた。
「……あれ? 逃げるんですか」
「様子を窺っているだけだ」
「猪突猛進型だと思っていましたよ」
「相手がいて己がいる。やり方は一つではない」
ベルは教団の執行官でもなく、司教という立場の女だ。もしかしたら執行官とは違い武力は無いかも知れない、用心するに越したことは無いので逃げているだけだ。それに喧嘩を売る道理はない、無闇矢鱈に暴力を振るうのはチンピラだけだ。
ベルは遠くからでも分かるほどに息が荒かった。ぼよんぼよん、と脂肪が揺れて、地面すら跳ね上がるようだ。さらに息が荒くなり、脂肪の揺れに、肉体が裂けるような悲鳴が起きている。
「ちょっと休憩」
ベルはゆっくり歩いて、大木に手を添えて休もうとしたが、腐っていたためか大木が倒れた。体重だけの力ではなく、肉体の力もあるのだろう。ベルは泥だらけになり、膝をついて深呼吸していた。
屋根の茅葺を足で飛ばして屋根を飛び交い、俺は様子を窺った。
「なんなんですかね。あの女は」
「引っ掛けかな?」
「うーん、どうでしょうか。怪しいですけど」
ベルは額から滝のように汗をかいている。
「いや……」
後から取り戻しのつかないのが『機』だ。
無闇矢鱈に暴力を振るうのはチンピラだけだが、
俺はチンピラだ!
「やっほーい! 隙有りー!」
「あっ、大将! 何で突然!」
ナユキが手を伸ばしたが、それを無視してベルに突進した。
一発叩いて気絶させるつもりだったが、
「変な臭いがする」
狼のヴィトの警告も俺には遅すぎた。ベルは俺が接近すると、太陽を迎え入れる花のように優美に動いた。俺の頭を鷲掴みにして、一気に握り潰そうとした。女の力とは思えないほどの馬鹿力は、吸血鬼の頭蓋骨を握り潰した。
「馬鹿な……なんて力だ」
「ふぅ、足は遅いので待っていましたよ」
ぐいっと、持ち上げられて俺の足は地面から離れた。古い椅子に重いのが乗ったような、ミシリといった音が鳴り、脳へ向けて骨が刺さろうとした。
「いけませんね。吸血鬼が子供を誘拐するなんて」
「あれが子供? 笑わせる」
俺は持ち上げられていたが、この位置は俺の間合いでもあった。俺は拳を繰り出して、重層構造の脂肪を何度も叩きつけて、身体の中心線の急所に殴りまくった。
「むぐっ」
と、ベルは呻いたが、それでも掌の力は弱まらなかった。だが唸る音は頭蓋だけではない、俺の尊厳も唸り声をあげて俺自身を加速させた。
「暑苦しいんだよ! クソが!」
俺は屈辱を燃え上がらせて腕を瞬時に弾いて、膝蹴りを顔面に打ちつけた。
「ひっ!」
「死にさらせっ……」
ベルを包んでいるのは脂肪だけではなく、強固な筋肉も全身を覆っていた。ベルは顔面から血飛沫をあげながら、俺の鳩尾に鉄拳をねじ込んだ。飛行機のような軌道を描き、俺はナユキが待っている家の屋根を吹き飛ばして、隣の家の屋根に転がった。
「ただいま」
「おかえりなさい。闘います? 逃げます? それとも、わ、た、し?」
「逃げようかな。思ったより強いな。しかも異常なくらい」
「今日一番のボケが!」
「得体が知れんな。どう思う、ヴィト」
「普通の人間にも見えるが、あの身体で、あの馬鹿力はおかしいと思う」
ふと暗闇を何かが飛んで来て、俺の足元を吹っ飛ばした。ヴィトを担いで、地面に降りたが、再び追撃してきて、それは大小色んな形になりながら向ってきた。俺は何度も避けたが、最終的に何かに拳を叩き付けた。
それは、肉だった。
肉が宙を飛び交っている。
「大将! 私も守ってください」
ナユキはそう言いながらも、クルクル回転しながら肉を避け、俺のもとまで踊り狂うように逃げてきた。
守る必要はまったく無いようだ。
「吸血鬼よ、抵抗は止めなさい。あなたたちは存在すら許されていない」
冷徹な一言だ。
その返答は――。
「やーだよ」だけにしておいてやろう。
俺はナユキも担いだ。
その隙に、肉がどんどん飛んで来て、俺たちを囲い込もうとした。俺は物陰に入り、速度を変化させながら避けた。一目散に逃げられればいいのだが、退路を肉が塞いでくるので、ベルとの距離は一向に広がらなかった。
「逃げの一辺倒は好きでは無いですね」
ナユキが俺の首下に鼻を近づけてクンクンと匂いをかいだ。
「下準備下準備」
ゴソゴソと自分の身体を触っていた。
「もう少しですから、待っててくださ」
俺はキモイ幼女の顎を下から打ち上げた。ナユキの力は性的興奮が引き金になるので、発動までが最低だった。
「発情してんじゃねー!」
さて――世の中には恋人の身体に傷つけて喜ぶ輩がいる。それは愛を分からなくなり、物理的な繋がりを叩きつけようとする性的倒錯者の末路である。だがその暴力の被害者は、そのような心理を理解できる者がなるのだ。ナユキは理解できる女だった。顎にしばらく残る痣をおもって、一気に興奮してしまった。
「できたー!」ナユキは吹き飛びながら、体の重心を変えて甘い息を吐いた。甘い息は周囲に漂って、息を潜んでいた一般住民たちを操って、彼我の間に人間を充満させた。
「褒めて、褒めて」
「うるせえ! 変態」
「ヒドス」
俺は今度こそ逃げようとしたが、人ごみの奥から声がした。
「ジョン……」
肉の塊が集まり、それは女の裸体の形をしていた。肉の塊は操られた住民を掻き分けて、俺のもとへ裸のまま歩いてきた。
「今度は何だ!」
ナユキが剣を抜いて、構えたが――。
「駄目だ」
「大将……どうかしたんですか?」
「あれは……」俺は生唾を飲んだ。「死んだ……妻だ」
俺の目の前に、殺した――最愛の女がいた。




