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第70話 はじまりの日

 蜜を蓄えた青き果実の肢体が惜しげもなく露になり、腸を囲うはだえをゆるりと人差し指が撫でた。脱いだ上着は風になでられ、陸揚げされた水母くらげのようにだらしなかった。地面の上にオセロから渡された魔法陣がかかれた紙が置かれて、祖は腹に下書きをしていた。指の腹に春泥が纏わりつき、泥の魔法陣が美しい腹に描かれた。

 手首切り《リストカット》は死亡率が低いそうだ。それは血管と直角で切るからで、血管の流れに逆らわずに切ると、血は驚くほどに流れ落ちる。

 俺の手首は切られた――血管の流れには逆らわなかった。

 中指を伝って、吸血鬼の血は皿に受けられた。

 不死者の体はすぐに傷を癒したが、血は満ちて、表面が波たった。祖は人差し指をつけて、大きな胸を邪魔そうに、泥の下書きをなぞり始めた。泥に血が沁みこみ、この大地は俺の血によって汚されてしまった。魔法陣は複雑だが、廻りめぐってへそに収束するように描かれている。

 離魂の術とは、出産と同じなのだろう。

 最後の一筆が描かれて、俺に満ちていた力は下腹部から流れ出るようだった。肉のみを吸引されたような不思議な感覚が嘔吐感と交じり合い、空を白い紐が飛んでいくように見えた。

 これは思ったより、酷いかも知れない。

 俺の力は穴の開いた風船のように流れ出て、俺は白い紐が出終わると、祖の体よりも俺の掌を見てしまった。握り締めて、桜のように開いた。

 吸血鬼なのは変わりないが……大部分の能力が消えてしまったようだ。特に変身能力が使えなくなったのは試さなくても分かった。魅了の眼術も失せているようだ。残るは不死身と、呪われた魂だけだった。

 最悪だ。

 俺は眼を上げて、馬車の女を見た。彼女はゆっくりと立ち上がり、馬車から降りようと、一歩一歩確かめながら歩いた。新しい体を試しているようだ。祖の体はフランケンシュタインであるナユキと似たような技術を使っているのだろうが、玉のように深い艶のある体には縫い跡は一つも無かった。

 落ちる。

 祖は馬車から踏み外そうとしていた、俺は瞬時に走りより、祖を両腕で受け止めた。同じ体の中にいたので、本当に久し振りに顔を突き合わせた。驚いたことに肉体が徐々に変貌していき、彼女の魂が体を作り上げているようだ。皮膚の下で動く肉は、蠢く虫たちのように不気味だった。

 祖の手が俺の後頭部を撫でた。

「本当に美しいな、ジョンの顔は」

 俺は美しいと言われても、喜ばない。

 そういうところが、祖は分かっていなかった。

 たぶん分からないまま終わるのだろう。

「これで満足ですか?」

「ああ、これでジョンを抱きしめられる」

 俺の胸元に顔うずめて微笑んでいた。

「だけど――」

 祖は俺の肩に手をかけながら、ゆっくりと立ち上がった。

「今はまだ」

 オセロが膝をついて、祖に頭を下げている。

「祖……」

 祖は手を上げて、俺の言葉を制した。

「アイシャって呼んで、出会った頃と同じように呼んでもらいたいわ」

 両目には懇願の感情が込められていた。

「アイシャ……アルカード様の所へ行き、どうするんですか?」

「分かりきったこと。看取ったら、後を継ぐだけよ」

 今より良い生活が転がり込んでくるなら、誰だってそっちへ行くだろう。

「あの娘にヨロシク言っておいて、私もあの娘は好きよ。嫌いだったときもあるけどね」

 アイシャは歯を食いしばった。

「だけど、ジョンは……」吸血鬼はしょせん――鬼だった。炯々と眼が輝いて、漏れでる音は悪魔の嘶きだった。「私の物だ」

 アイシャは俺のことを『物』だと思っている。

「またね、ジョン。今度会うときは奪いに来るわ」


 オセロとアイシャと分かれて、俺は湧き水で全身を清めた。だが血で描かれた魔法陣は薄っすらと残っており、臍に手を当ててみると見えない管が伸びているようにも思えた。

 もしかしたら、アイシャはいないだけで髪の毛一本だけは繋がっているのかも知れなかった。この世界の吸血鬼の技術力は、産業革命を経た地球の技術よりも優れている。アイシャは俺を連れて行こうとしているようだけど、俺の方から訪問する可能性もあった。

 もしかしたら、俺たちが救われる道があるかも知れない。

 嫌な感じはしているが、期待感は熱病のようだった。

 俺は春泥を歩きながら、徐々に懐かしい土地に近づいて行った。俺が封印された都市を通り抜けて、その先には橋がある。数日歩いて辿り着いた橋の周りには街が作り上げられていて、掘っ立て小屋はほとんど無かった。

 懐かしいな。

 俺の眼にはユーリの家が見えた。

 俺は外装部分に手をつけていなかったが、塗装材をふんだんにつかって綺麗に仕上げられていた。三階建ての木造は珍しいが、十分な耐久力があるようで遠目から見ても繁盛していた。

 建物の中から赤髪の少女が飛び出してきて、荷物を忘れた客に鞄を渡していた。客はわざと荷物を忘れたようで、レッドの手からにやけながら鞄を貰っていた。真紅の髪は陽の光に照らされて、壮絶に燃え盛るような色だ。肌は美しく手入れされていて、真っ白な服は雪のようだった。

 レッドは客に手を振り、俺の方を振り向いた。


 (#`皿´)……ぷいっ。


 あ、あれ?

 徐々に近づいていくと、無言でムスッとしていた。

「あ、あのー」

 (・`へ´・ )

 怒ってらっしゃるようだ。

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