第61話 正義
冬晴れして、膚と布の間に寒さが侵入してくるが、蒸せるような蒸気が立ち上った。凍えるような冷気なのに、熱い汗が肉体から脈をうって溢れ、汗の煙を立ち上らせている。それぞれが殺意を漲らせて、体の奥底から殺人衝動を高めていた。殺すと言うのは、とても億劫なことだ。目の前に死が溢れて、己の命も必ず尽きることをマザマザと思い出してしまう。もしかしたら、死ぬかもしれない。死ななくても重傷を負ってしまうかもしれない、無数の未来予想図が死体の上に築かれる。秤では計測できない重さを軽くするのは、ただ一つ……正義だ。
生物はすべて偽善的である。それぞれの正義と言われるほどに溢れているが、それは当然のことだ。権力者は色々な状況に合わせて正義を見繕って、人々を従わせている。そして従う連中もそれぞれの正義を見繕って、己の意思を従わせている。囚人たちの正義は固まっていた。
ここから出て、自由を得る――それに尽きる。
なら、俺は背中を一押しするだけだ。
「我々は生き延びたい」おれは壁の上から囚人たちを見下ろした。その中に吸血鬼たちはいなかったが、守勢ならばこの人数でも十分に戦える。戦闘員、約三百名。その他にも囚人はいるが、食事係などの雑務だ。全員合せても四百名に届かないが、この気迫なら人数は問題にならないだろう。
「我々は愛する人と会いたい、我々は愛する故郷に帰りたい、我々は幸福に生きる権利を持っている! 戦争とは幸福を得る手段だ。我々は戦って相手を屈服させなければならない。我々は我々を救われなければならないのだ!この戦争は義務である! 全員が死力を尽くす責任がある!」
俺の声が遠くまで響き渡っていた。何も考えずに喋っているが、俺の熱意さえ伝われば良かった。言葉を発する人間の熱は、聞いているものに届くものだ。反応はそれぞれだが、多くの囚人を焚きつけることができた。
「それでは……戦争を始めようか」
俺は狼のように吼えた。
それに従い、囚人たちは怒声をあげた。
南側の防御設備は、凍りついた大地を掘ることが困難だったので、多少苦戦した。まず最前線には『スティムルス』を設置した。スティムルスとは木杭の頭に金属製の鋭利な棒をつけて、地面に斜めに叩きつけて設置する。これによって迅速な移動を防ぐことができる。馬が不用意に入れば儲け物だ。
次に設置したのは、落とし穴だ。これは掘るのが難しかったので、数は少なかったがスティムルスの内側に点在させることができた。この落とし穴には縦杭が入っており、落ちたものは串刺しになる。これを『リリア』と呼び、現代で言えば地雷原である。
この二つを効果的にしたのは雪だった。雪が覆い隠してくれたため、雪の無い大地で使うよりも威力を発揮した。罠にかかったところをエルフの弓矢が続々と命を散らしていった。
このままの勢いならば、土の壁まで敵兵はたどり着かないかも知れなかった。
だが油断はしてはいけない、一つの油断がすべてを崩壊させるのは歴史が雄弁に物語っている。
その土壁は木を一列にずらっと並べて、鉱山で採取した石や、穴を掘ったときの土などを使って築き上げた。下部は土で出来ていて、上部は木で覆われており、高さは建物二階建てぐらいと小さいが、それ以上は高望みだろう。土の壁の内側には木の櫓が組んでおり、近づく相手は矢で射ることができた。
小競り合いは圧倒的にこちらが有利だった。だが相手の火力は甚大だ。何しろ大砲があるのだ。だが、準備に時間がかかっているようで、いまだに威力を発揮していなかった。
「火薬が湿っているんですね」
「こちらも同じ悪条件だが、相手も同じことだ」
寒冷地なので、結露は火薬にとって大敵だった。おそらく相手の火薬係がヘマをしててこずっているのだろう。俺も火薬の保管には気を使っていて、余分に生産した木炭を使って湿気取りを行っていたが、それでも使えなくなる火薬はでてきた。
「野外の連中はもっと大変だろうな」
守勢が圧倒的に有利なのは、このような細かい差も影響しているだろう。
実際、初日の砲撃は二回だけで終わり、一個は失速、二個目は見事に壁を震わせた。予想通りというか、壁は脱獄を抑えるものだから、砲弾を食らえば大変なことになった。こんなに脆いのかと思うほどに穿たれてしまった。
夜。
今日の戦闘は終わり、相手も退いていった。だが、夜襲を仕掛けてくる可能性はあったので、俺は壁の上で外を警戒していた。
「大将が見張りか?」
吸血鬼のオセロだった。俺が幽閉されていた塔には他にも吸血鬼がいるが、昼間参加できないのを理由に参戦しなかった。なので、オセロ以外の吸血鬼はすべて鎖に繋げたままで放置している。外に出られると何をされるか分からなかったからだ。ただ、オセロは俺を手伝ってくれるようで、見張りの交代に来てくれたようだ。吸血鬼は夜眼が効くので、俺は安心してオセロに任せた。
俺はしばらく雑談して、戻ろうとした。
「なあプレスターの母親の名前を教えてくれないか?」
オセロが突然聞いてきたので、俺を封印した女の顔を思い出しながら言った。
「シェリダン・ヴォルデンブルグだけど」
「やはり……そうか」
オセロは溜息をついた。
「彼女を見初めた吸血鬼が誰だか知っているか?」
見初めた。
つまり吸血鬼にして、子を孕ませた吸血鬼のことだろう。
「知らない」
「吸血鬼の国の王さ」
「となると、俺は王子になるのか」
どうでも良かった。吸血鬼が輪になって国を作っていたとしても、俺の目指す国ではない、それに俺は前世の記憶があるので今世の父親などどうでもいい話だった。
「そういうなよ。名前だけでも知っておきたくないか?」
俺は先を促した。
「アルカード」
「ふーん」
オセロは俺の表情を窺っていた。何かを試そうとしているのは目に見えていた。俺はその場を離れて、塔の部屋に戻った。アルカード。それは吸血鬼特有のお遊びだ。吸血鬼カーミラが、別名を名乗った時にミラーカと名乗ったことがあるが、それと同じだ。
アルカード=ドラキュラだ。
吸血鬼の中でも最強といわれている男だ。
だが同じ吸血鬼でも、俺と祖の反応は違う。俺は恐怖に似たものを覚えたが、祖の場合は軽く興奮して心臓の音が聞こえてきそうなくらいに、俺の中でソワソワしていた。
それもそのはず、彼女はドラキュラの娘だった。




