第6話 羅刹
食事を終えたミナの胸は静脈が透き通っていた。乳房にかぶりついて、吸って舌で乳を受けた。白い液体は、赤血球を運ぶ液体とは見た目は似ていないが、成分はほとんど同じだ。喉を通り、胃のなかに落ちて行き、安堵感が全身に広がった。
彼女が食べたキャベツとベーコンの味がした。吸っている間に何度も髪を手漉きされて、徐々にサラサラと整い始めた。
「もう終わり?」
「まだ……」
俺は口を指で拭って、白濁した液を払った。
近所では乳離れのできない子どもと思われているみたいだが、そう思われている間は花だ。これ以上身体が大きくなったら、嫌でも目立つようになってしまう。
その時が、終わりのときだろうか。
「片方だけだと、大きさが変わるから気をつけてね」
「分かっているよ。ミナ」
頭を動かして、もう片方を吸おうとすると、窓からハロハルハラが見ているのに気付いた。興味深そうな眼でジーッと見ている。
「なんだ?」
授乳の姿を見られると、さすがに恥ずかしかった。
部屋に戻り、窓を開けて、ハロハルハラと会話した。ハロハルハラの存在をミナは知らないので、隠れて会話した。俺は赤ん坊の頃を覚えている。彼女の剣舞はハロハルハラを八つ裂きにするには十分なものがあった。
「ババアが他の物も食わせろって騒いでいて」
「そんなの明日にしろよ。もう眠る時間だぞ」
外は暗くなり、俺たち異形の者の世界となっていた。悪い人間や、悪い魔物が我が物顔で歩き回り、死を撒き散らす世界だ。眠る時間なのに、汗で身体を汚したくなかった。
「いい加減、猪ばかり食いたく無いって……」
「仕方ねーババアだな」
「そんなんだったら、自分で食い物くらい探しに行けばいいのに」
「歩くのも大変そうだからな、それは無理だろう……仕方ないな、何か探してくる」
俺はミナに見つからないように台所へ行きチーズとパンを持って、闇夜の山道を疾走していた。途中で下等な魔物に襲われたが、踏み貫いた。
目指す場所はハロハルハラの家、そこは姥捨て山のボロ屋で、山の頂上に掘っ立て小屋だった。基礎がしっかりしていないので、俺とハロハルハラで作り直そうとしているが、面倒なので後に伸びている。
扉を開けると、ババアがうつ伏せで倒れていた。
「……ババアが死んでいる。遅かったか」
大往生だよ、ババア……。
「生きているよ!」
なんだよ、生きているのかよ。
見た目は皺だらけ、垂れ乳のババアがいた。屍人のハロハルハラが俺と出会った直後からボロ屋でババアと同居している。お互い話す人が欲しかったこともあるし、ハロハルハラが猪の調理が下手くそだったこともあって、ババアを調理人としている。
「毎回、毎回、猪ばかり食わせおって、動脈硬化で殺す気か!」
「どうせ、寿命で死ぬだろ」
「そういうことを、平然と言うな!」
ババアは年齢の割りには激しかった。
これだから人間は……果てし無い食欲には恐れ入る。
俺たちはほとんど一つの物をしか食わないのに、人間は何百の物を食おうとする。環境破壊、生物搾取、唯我独尊の種族だ。
「うるせえ、ババアだ。パンとチーズ持ってきたからおとなしくしろ」
「タベタラ、ネマショーネー、オバーチャン」
「年寄り扱いするじゃない!」
どう見ても年寄りだろうが。
ババアがゆっくりと食事を始めたので、俺たちは月明かりのもと、ババアが喉を詰まらせないように見守った。
ババアが食事を終えて、寝始めた。
帰りたかったが、気になったことがあった。それは山を疾走している時には感じなかった気配で、ボロ小屋の外で息を殺している気配だった。扉を閉じているので匂いはしないが、動く時に何度か匂いを追っているのでだいたいの場所は感じていた。
「なんかいるな」
「そうですね。捕まえてきますか」
「いや……俺がやろう」
窓を少しだけ開けて、血の霧となり窓の外へ出た。鼻をきかせて、匂いのする叢に飛び込んだ。人間は食料だ。食う側は食料の匂いには過敏だった。
髭面の男がいて抗おうとしたので、腕を取り地面に投げて叩き付けた。手に持っていた獲物を蹴り飛ばして、落とした鞄を拾って、追って来たハロハルハラに調べてもらった。
「何者だ?」
「……」
男は話そうとしなかった。だが、結局は皆吐くことになる。死を乞うようになるまで壊し続ければ、何もかも忘れて吐き出してしまう。
ハロハルハラが珍しく女っぽい悲鳴をあげた。
「どうした可愛い声だして」
「これを」
手に持っていたのは一枚の紙だった。
「討伐依頼、この山に住む屍人を倒すこと」
「……冒険者ギルドです」
「なるほどね」
人間は魔物の討伐を冒険者ギルドに依頼することがある。俺たちは生きているだけで、人間には害悪な存在だ。食われる側は、食物連鎖上位の存在を必要としていない。
ハロハルハラが何をしたかは分からない、実際何もしていないか、それとも自覚無しで何かをしてしまったか、それは誰にも分からないが、狙われていることは間違いなかった。
「敵対するのも……」
面倒だ。
「冒険者どもめ……」
ハロハルハラは男の頭を握り締めて潰そうとした。
「止めろ」
「ですが……」
俺よりハロハルハラのほうが衝動を抑えづらかった。俺のほうが食欲を抑えている年数があるので、当然のことかもしれないが、ハロハルハラは勢いで食べてしまう可能性があったので、俺は止めた。
「おい、お前――このことを誰にも言わないなら生かしてやるぞ」
男は命が助かることに喜んだ。
「……言わない! 言わないから助けてくれ」
「本当に……言うなよ」
俺は男を離して、逃げるのを見送った。
「プレスター様……何故?」
「試してやるだけだ」
俺は聞き耳をたてながら、その場で跳んで体を温めた。
すると、男が息も絶え絶えに「仲間を呼ばないと」と呟いているのが聞こえた。
「愚かな」
俺は男を追いかけた。樹の肌を蹴り、枝を掴み、一度も地面に落ちないように駆けた。俺はすぐに追いついた。背中ががら空きだ。鬼の身体能力に人間は勝つことはできない。本当だったら味方のところへ戻るまで生かしてやろうと思ったが、俺は約束を守る。
殺してやろう。
「ひい! た、助けて!」
「もう、遅い!」
男を倒して、右足で背中を踏み、左足で後頭部を踏んだ。
「懺悔の時間はいらないだろ」
頭を胴体から踏んで外した。
俺たちは血も肉も食いたくなかったので、人だった物を崖から落として捨てた。