第48話 常世
幻覚というのは、己の脳が見せる現実だ。術者の能力だけではなく、かけられる相手の脳/肉体の質により幻術の質も変わってくるはずだ。
俺は見えない炎を避けながら廊下を歩いていたら、進行方向の壁に吸込まれた。重力の在り処がおかしくなって、壁だったものが床になり数十階建てから落ちるような感覚になった。これは普通の人間には見せることのできない幻術だ。俺の翼があるから、このような非現実を見せることができる。俺は翼を動かして、壁に落ちるように動いているのだろう。それなら答えは簡単だ。俺は翼を掴んで、床だったところに落ちて、幻術を破った。
俺は絨毯を掴んで、前後に引っ張った。予想外の動きだったのだろう。絨毯に人間の重みを感じて、俺は猟刀を抜いて、重かった場所に投げた。そして走り、剣が刺さると同時に蹴りを入れた。そこには何も見えなかったが、ミナの柔らかな肉体があった。猟刀は壁に刺さったが、俺の蹴りはミナに到達したようだ。
「よく分かったわね」
「逃がさない」
「駄目よ。乳離れしてね」
足を腕でからめられ、引っ張られて体勢を崩された。最悪なことに股間を蹴り上げられて、一瞬の隙で立場が逆転された。視界いっぱいに手が溢れて、俺の身体中をまさぐり、千切り、破壊し始めた。
「プレスターにも私を殺せないの?」
俺をがんじがらめにしていた肉塊が、バラバラに崩れて繊維状になり、蠢く虫たちと化した。薬物で脳が犯された患者のように俺の体中を這いずられた。
「ひぃ……」
「どう、気分はいかが?」
「ぜーんぜん」
俺は舌を噛んで、血と唾液を混ぜて、霧を吹いた。ミナにかけたが幻影だったようで、空振りに終わったが、虫の幻想は消え去った。
廊下は静まり返り、人の匂いはしなかった。俺は傷つけた舌が治るのを待って、小部屋に入って呼吸を整えた。相手は俺を捕捉しなければ俺に幻術をかけることはできない、つまり隠れていれば術をかけられることは無い。
人は外部情報の八割を視覚から得るそうだ。俺は両目を布でまいて隠して、身体の一部を血の霧として、建物内部を探索させた。すると、一人だけ歩いている人間がいた。
俺は霧と化して、歩いている人間を包むように具現化した。視覚を使わない走査だったが、相手には通じなかったようだ。俺が包みこんだのは、ただの空気だった。相手も何度も吸血鬼と戦ってきたのだろう。やりかたは知っているようだ。
視覚を封じても無駄。嗅覚、聴覚、味覚、触覚、全てを総員して狂わしてきている。
「どうした。嫌になったか?」
「母さん、もう少し手加減してくれないか?」
「嫌だよ」
この声も幻聴なのだろうか、心地よい声に心臓が苦しくなった。
「俺には覚悟が足りない」
俺は両耳に指を突っ込み、取った。鼻をつぶして、舌を切り、両目を抉った。血の霧ではなく、身体を血として、俺はゆるりと動き始めた。
そこから先の戦いは、俺の触覚と食欲のみが頼りの闘いだった。軟体生物となり徐々に相手の優位性を潰して行き、劇場から逃げられてしまった。俺は具現化して、劇場の外へ出た。捨て身の攻撃に、ミナは防戦一方となった。
「プレスター、早くして、早くしないと、姉さんが来るわ」
「シェリダンが来るのか」
「ここに吸血鬼を封印しに……ね」
封印?
「早くして、私は姉さんに懇願されたら、決意が鈍ってしまうわ」
「ミナが強すぎるんだよ」
「さっき、母さんって言ってくれたでしょ。そっちの言い方のほうが好きよ」
金属のぶつかり合いは続き、俺は何度も絶対死の傷を負ったけど、俺は有効打をほとんど与えることができなかった。だが、そこは吸血鬼だ。俺の傷は酷い、ほとんど死にかけている。だが、全ての傷は治っていた。
ミナの美しい肌は、俺の剣技によって傷つけられていた。生気は失せて、体力がつきはてそうになっている。
夜は明けて、鳥の鳴き声も響き渡った。
結局、俺とミナの勝敗は体力の差で決まった。
「楽しいなぁ。私はこんなに接戦で戦い続けたことがないよ」
銀の剣の切っ先が俺へ向けられた。
幻術は出さずに、一直線で俺に向ってきた。
猟刀で上へ弾いて、上段斬りをした。
決着は決まるときは、案外あっけないものだ
猟刀は深々と肩に入り、血潮があふれ出た。
「あっ」
俺の喉が鳴った。
俺はミナの血をずっと飲んでみたかった。
闇の化身は、聖なる者を汚したい。
それは逃れることのできない、運命だ。
「痛い……」
「ごめんね……」
ミナの両腕が力なく垂れて、俺に身体を預けてきた。
血が俺の顔にかかり、ネットリとした液体が鼻の先から落ちていった。
「どうしたの……飲みたくないの? 今までずっと飲みたかったんでしょ」
「飲まないよ。俺は血を飲まないことに決めたんだ」
「そう……」
俺は聖遺物のトゲを出して、血で濡れる胸を刺し貫こうとした。蒼ざめた胸が現れて、俺を育ててくれた胸は弱く鼓動していた。
「駄目よ……そこでは、また生まれ変わってしまう」
「心臓だと、駄目なの?」
「そう……」ミナは頭を指差した。「脳を刺し貫かないと」
ミナはそういうと、銀の剣を持って、自分の頭を突き刺した。
「ミナ!」
「良いから、見て」
ミナは頭の半分を斬って血を出しながら、頭蓋骨をくりぬいた。
すると、血と、白濁した液が漏れてきた。
「これが、私たちの正体よ。私たちはコレなのよ」
ミナが白濁した液体を手に持ち、それが蠢くのを見せた。
「傷付くなぁ。これが私だからって嫌いにならないでよ」
「嫌いにならないよ」
だが、驚いた。
これが、執行官たちが不死者の理由だ。白濁した液体は見たことが無いが、人間に寄生する不死者と言ったところだろう。
「私の本体に、トゲを……」
白濁した液体が蠢いていた。
「ごめんなさい。本当の私は醜くて」
「そんなこと無いよ。じゅうぶん綺麗だよ、母さん……」
「ありがとう。プレスター」
俺はミナにトゲを刺した。ヘドウィッグが爆発したような輝きが広がり、俺は焦げ付きそうなくらいに熱くなった。
その時、シェリダンが現れた。




