第3話 鎖縁
赤ん坊の時から数年間、俺は美少女の乳以外口に入れていなかった。可哀想なことに少女の頃から長年にわたって乳を吸われていたので、乳房は大きくならずに美少女は肉体の美しさを手に入れることができなかった。
それでも容姿は優れている。子どもがいるとはいえ、この美貌ならば王族すら虜にできるはずだ。その愛情を一身に受けられて、俺は心底満足していた。
大きくなるにつれて、母乳だけでは栄養を補えなくなったので、チーズやヨーグルトなどの乳製品にも挑戦して食べて、栄養として摂取することができるのが分かった。だが、他の食べ物は食べても不味かった。そのため俺は乳製品のみを食べることを望んでいたし、美少女も――義母のミナもそれを許して、同時に強制していた。
乳の原料は血液、だから飢えが防げる。口には出さなかったが、ミナも俺が吸血鬼なのを承知だったのだ。その知識の在り処については怖くて聞けなかった。彼女が俺の元から去ってしまうような気がしたからだ。
吸血鬼にとって血とは、逃れることのできない渇望だ。それが乳で防げるというのは奇跡だろう。ミナは山羊と牛を飼い、定期的に乳を手に入れられるようにしていた。だが動物の乳だけでは、渇望は軽減できるが、完全に防ぐことはできなかった。飢餓を充足するには、ミナから貰うしかなかった。
十歳の乳飲み子は様にならないが――俺はミナに懇願した。
祖が見れば烈火のごとく怒るだろう。それほどの痴態で、誇り高き吸血鬼にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
俺は血への渇望を我慢できるようになっていた。十年間も吸血鬼が血を吸わないなんて、聞いたことのない偉業だ。
俺には太陽も優しく降り注いだ。
家の周りにいる大人たちも俺に優しく接してくれた。
全てが幸せな毎日で温かだった。
俺は満足していた。
世界を愛おしいと思ったのも久し振りだった。
俺とミナは廃屋を改築して新しくして、朝は早く起きて山羊と牛の世話をして、次に野菜の世話をした。暇なら狩りに出かけて、もっと暇なら隣人の手伝いをした。久し振りの安息の日々だ。俺はこの世界を愛おしく感じていた。俺はこの世界を愛していた。その気持ちには嘘は無かった。
だが、最近思う――この世界にも吸血鬼はいるのだろう。
なぜなら、ミナは吸血鬼についてとても詳しい。それに俺の母親も吸血鬼のような八重歯を持っていたからだ。
俺は前世では数世紀は生きた吸血鬼だった。決して頭の良いほうではなかったが、年月は馬鹿をそれなりのものにする。その吸血鬼を凌駕する知識がこの世界にはある。
とても興味深いものだった。
もしかしたら、吸血鬼を人間にする方法もあるのかも知れない。
それが見つかれば、俺は救われる。
「そんなことを思っていたのか?」
寒気がして、汚れた鏡へ振り向いた。
鏡から声がしたような気がしたが、そこには十歳児の俺がいた。
「何を血迷っている。私が見えないのか?」
俺だ。
いや、俺の中にはもう一つの命がある。
祖だ。
俺は祖から血を貰って吸血鬼になった。
祖の欠片が俺の中にあるから、俺は吸血鬼になった。
前世からの因果は、まだ残っていたようだ。
「どこに消えたかと思えば、こんな異世界にいるとは……お前の魂も、肉も血も、全部私のものだというのに……約定を違えたのか?」
「祖が、勝手にしたことだ。俺は約定をした覚えはない」
「何百年も若いまま共に生きたのに、そんなことを言うのか? 私の愛人だった、お前がのう」
十歳児の中に、何千年も生きた悪辣な吸血鬼が潜んでいた。
「俺はもう死んだ……それで終わりのはずだ」
「血を吸い合った仲の、お前からそんなことを言われるとはね。ガッカリ……じゃのう。本当にガッカリだ。私はお前を愛していたと言うのに」
俺は鏡に額をつけて、中に潜む祖を睨みつけた。
「お前、あの女の血が吸いたいんだろ?」
「だからどうした」
否定はできなかった。
俺の中にいる祖には、否定しても意味の無いことだった。
「私が吸ってやる。そうすれば、本当の意味であの女はお前の物になる。楽になるぞ。人間を物扱いにできるのは、吸血鬼の唯一の特権だ。それを放棄するべきではない。だからこそ、私たちは呪われているのだ」
俺は十歳児では考えられない力で鏡に指を突き立て、十字に傷をつけ、祖の引きつった笑い声を聞いた。
「吸血鬼が十字をきるとはなぁ……それほどまでに堕ちたか」
祖はいったん去ったが、祖が俺の中にいるのは確かだった。
ミナが鏡の十字を見て、顔を引きつらせて、鏡を叩き砕いた。
産まれた直後に見た勇ましい彼女が蘇ったのかと思った。
「何故! 十字を描いたの!」
何故か、この異世界にも地球と同じ宗教があった。
教団と呼ばれている。
この世界では十字架すら偶像扱いされていて、とても厳しい教団だった。地球ではキリスト教徒呼ばれていた宗教は、キリストという偶像を抜いて、ただ――教団と呼ばれていた。




