第2話 漂流
美少女は俺を抱いて、戦場から離れた。近くの丘まで逃げ、小休憩をした。振り返ると、血の湖で人々が蠢いていた。視力が衰えているので見づらいけど、近くの村人が死体から服や武器を盗んでいるのだろう。どこの世界でも変わらない人間の営みは、善も悪も判断のいらない生活に必要なものだった。
美少女は深呼吸をして心音を整えて、俺を地面に降ろして、幾つかの斬り傷の汚れをぬぐって、薬を塗り、布で縛った。次に血糊のついた剣を雑草と砂で洗い、服で拭った。
美少女は両目をつむり、しばらく迷った末に地面に剣を立てて、刃に移る己の目を見つめた。
邪眼に良く似た眼光だった。
呪いの感情を乗せた眼光は、美少女自身を犯して、成長した蔦が腐って変色するように、みるみるうちに彼女を変貌させた。
次に俺と目を合わせたとき、彼女はすでに別人だった。
優しい表情で、俺を再び抱き上げて、木陰で子守唄をうたった。美しさは変わらないが、血が似合う凄惨さが消えてしまった。殺人鬼が好きな性的倒錯者が横にいたら、涙を流しながら美少女を罵っただろう。
それぐらいの変貌だった。
美少女は服をもろ肌になり、俺に小さな乳房をふくませた。母乳が出るはずが無い、匂いで分かる――彼女は生娘だ。だが、予想に反して、それは出てきた。
前世では母乳を飲んだ記憶は無いが、それは容易く胃の中へ入った。焦ったが、入ってくるものを拒むことはできなかった。何百年ぶりに血以外を味わっただろうか、久し振りに飲む異物を体は拒否しなかった。
思い出した……母乳の原料は血液だそうだ。
それは牛でも山羊でも同じで、血液だ。
だから、だろう。
吸血鬼であった俺も飲むことができた。
旅を続けているうちに気付いたことだが、面白いことに日に当たっても焼けなかった。再び、太陽の美しさを一身に浴びることができるとは思わなかった。燦々《さんさん》と降り注ぐ光に、肌に熱がこもり、少しだけ汗ばんでしまった。もしかしたら、人間へと戻ったのかも知れなかった。
だが、それは違うだろう。
都合のいい考えはするべきではない。
なぜなら、俺の口は乳房を含んだ瞬間に血を渇望した。
歯が生えていないのは運が良かった。
無い牙が柔らかな乳房を突きたてて、皮膚を破り、鮮血を欲していた。
目の前に僅かに膨らむ乳房には静脈が透けて見えている。
血が……目の前にある。
俺は、俺の命を助けた美少女の血を欲していた。
ああ……、なんと美しい少女なのだろう。
この美少女を、自分の物にできるのなら、何でもしただろう。
彼女は自分自身に幻術をかけて、俺の母親になった。未熟な体に幻の出産体験をさせて、母乳が出るように勘違いさせたのだ。何故、俺を助けたかは分からないが、その自己犠牲の精神は吸血鬼への供物にふさわしかった。
聖なるものこそ、闇への供物に相応しいのだ。
悪は聖を食らうために存在する。
彼女は俺を抱きながら旅をした。同じような山道をずっと歩いていて、人目につかないように、ひたすら歩いた。
ときどき、吸血鬼と似たような雰囲気の邪悪な生物が現れたが、彼女の剣技の前では赤子同然だった。この世界にも俺と似たような存在がいるみたいだ。大きくなったら色々と調べてみたかった。
そうして数ヶ月、着いた先は小さな村だった。
彼女は荷物から金貨を出して、村はずれにある廃屋を買い上げた。
そこが、俺の育つ家となった。
俺はまだ自由に動けないので、前世の記憶を忘れないため、反芻するように記憶を思い出していた。
俺は産まれた時から人間社会から疎外されて生きてきた。制限された食物で育てられ、極上の血液を産出するように、遺伝子改良された人間だった。
いや、人間だったのだろうか?
家畜人と言った方が良いかも知れなかった。
中国の都市伝説には、砂糖などの糖分のみで育てられる人間がいると聞く。デザートとして作られた人間は、金持ちどもの食卓にのぼっていた。俺は吸血鬼の食料として作られた供物だった。
首筋に牙を突きたてられた時、俺は自分の血が出過ぎないことを祈った。
ああ、死にたくない。
こんな場所で死にたくない。
自分の血が美味すぎたら、吸血鬼は興奮して俺を殺してしまう。
そんな死に方はよくあったが、死には違いなかった。
「お前は、本当に美しい男だね」
ある日、壮絶な美しさの吸血鬼が訪れた。最初に会ってから俺を気に入ったようで、何度か血を吸われて、何度か男として愛された。
それが俺の祖だ。
会う度に、何度も会話をした。
それが吸血鬼への入門試験とは、その時はまったく思わなかった。
食物連鎖の頂点に立つ吸血鬼の祖が、舌を八重歯で傷つけ、俺の口を塞いで、血を口移ししてくれた。真っ赤に染まった唇が美しく、甘美なひと時だった。蒸留酒を飲んだように内臓が熱く燃え上がり、口から火が出るようだった。
それが洗礼だった。
激痛の後に、俺は吸血鬼へと変貌していた。
それ以来、俺は吸血鬼と化して、何百人もの命を奪ってきた。
命を奪われた死者の怨念が、俺を殺したのかも知れなかった。
俺は死んだ瞬間は覚えていない、おそらく心臓を杭で貫かれたのだとは予測している。夕陽を見た覚えがあるので、太陽を利用されたのかも知れない。だが何度も、何度も思い出そうとしたが、ある日限界が訪れた。
覚えている記憶に新しいものが無くなった。
俺は、俺の死因を覚えていなかった。
それで納得するしか方法が無かった。
もがいているうちに、十年の月日が経過しようとしていた。
俺は草原で寝ていた。
鼻に蜻蛉が止り、しばらく休んでから、飛びだった。
今度の生は洗礼を受けていない。
吸血鬼は生殖でも増えるが、血を授けることで後天的に増えることができる。俺は前世では後者だった。後天的吸血鬼は蔑まれる。差別があるのは人間の世界と同じだ。今回は前者だが、先天的吸血鬼でも純血種、半血、後天的吸血鬼の番の子供がいる。どれかは判別つかなかった。
力は充実していた。
血を吸わずとも、これほどの膂力とは思いもしなかった。背中で地面を叩きつけ、飛び、宙で二回転して、足で着地した。
「力が有り余っているな」
石を握って、粉々にした。