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第196話 黄金時代 上

 暑い……いや、熱い……全身の細胞が活性化して燃え上がっていた。

 足の指先から脳天まで熱くなり、頭皮に汗が浮き、薄くなった髪の間を通る、額から玉のような汗が頬を転がり、白く伸びた髭に集まり、顎から落ちた。

 その軌跡をはっきりと感じることができた。

 感覚が研ぎ澄まされている。

 一瞬一瞬を意識することができた。

 限界まで強くなったと思っていた。

 十代で肉体を極めた。

 二十代は技術を極めた。

 三十代は知力を極めた。

 四十代からは経験で補った。

 下降線をなんとか遅れさせようと足掻いていた。

 だが、今――こんな時に、こんな状況だからか、今まで限界を感じていた強さが足掻き始め、時間感覚を進化させようとしていた。久方感じていなかった圧倒的な絶望――最強を極めて尚、渇望すべきだったのは絶望だったのだ。絶望があるからこそ強くなれる。だが……そんな物は知りたくもなかった。知らないままで寿命が尽きるはずだった。そのまま終わるはずだった。だがもう一度戦うことを選んでしまった。その報いが――今来ているのだ。

 顎から光砲スピノザに汗が落ちると、一気に蒸散した。

 陽に照らされて大砲が熱くなっている。

 大砲から立ち上る熱気――その臭気が脳に作用した。

 わずか小数点以下の時で、数十年の過去が掘り起こされるようだった。

 己の死に際ではなく、親友の死に際だが、これも走馬灯といえるだろう。それもそのはず人生を君に捧げたのだ。愛する人と結婚したように、シャラシャンカが私の人生だったのだ。強者に捧げる弱者の人生だ。だがそれでも私の人生だった。

 心臓が打つごとに感覚が鋭くなる。

 君を助けるため、私は強くならなければならない。

 今まで助けられてばかりだった。

 今こそシャラシャンカを助ける時だ。

 最近の会話が思い出された。

「一人殺されたら千倍の人間を殺せ。俺たちの命はそれくらいの価値がある」

 シャラシャンカは言った。

「ではシャラシャンカ様が殺されたら何人を殺せば良いのですか?」

 私は言った。

「世界を殺せ」

 シャラシャンカは言った。

 その言葉を思い出して、手指の先から足の裏まで震えが走った。

 武者震いではない、全ての感情が真っ白に塗りつぶされたような虚ろな恐怖を感じた。

 私に殺せと言うのか?

 シャラシャンカ……君を殺せと言うのか?

 この光砲スピノザの威力は実証済みだ。

 老いぼれとは言え……古き友人の皇帝を即死させた。皇帝も至強だった。全盛期の頃なら安々と死ななかっただろう。瞼を閉じれば若き頃の皇帝の姿を思い出された。恐怖で身体が震えた。皇帝は死んだが、今でも生者の中で恐怖の化身として生きていた。

 だが皇帝も粉微塵すら残らず、虚ろのような無となった。

 信じられないほどの威力だ。

 シャラシャンカも当然だが、東方王ですら消滅させることができるだろう。

 ……殺せと言うのだな?

 ああ、やってやろう。

 君が死んだら、私の世界は終わるだろう。

 私は生きた屍となるだろう。

 だが死ぬ前に、私は世界を殺そう。

 それまでは死ねない。

 死ぬわけにはいかない。

 私の世界は色褪せて終わるだろうが、私以外の世界も同じように色褪せさせてやろう。

 彼女が――スピノザが死んだときのように、私の世界は今度こそ息の根を止められてしまうだろう。

 死の世界は安らかなのだろう。

 だが大人しく堕ちるわけにはいかない。

 憤怒せよ。

 怒りで魂を焚きつけろ。

 ――最強の不死者を殺すのだ。

 矛盾した言葉だが、甘く熱狂的な味がした。シャラシャンカと出会ったから紡ぎ続けてきた壮大な叙事詩が終わろうとしていた。




 ――それは壮大な叙事詩がまだ子供の遊戯だった頃。

 やがて点に集まる力が、まだ弱き力として偏在していた頃。

 スピノザは未熟児として生まれ、1年で死ぬと予言された。だが死ななかった。それは彼女が魔族の血を受け継いでいたのもあるが、あまりにも美しかったからだ。だがその美しさ故に父親からは不義の子と疑われ、母方の叔父に養育されていた。その為、次に産まれたのが男で将来を嘱望された。弟は魔族の才能を受け継ぎ火を操ることができた。それが彼女を奮起させるに至ったが、赤子の彼女がそれを思うのはまだ先だ。

 彼女の美しさに最初にとり憑かれたのは二人の叔父だった。母の兄と弟、兄は痩せていて、弟は太っていた。どちらもうだつがあがらない無能だったが、彼女を家に迎えてから人間が変わったように有能になった。未熟児は叔父の有能さに生かされ、愛で育てあげられた。

 彼女が物心つく頃には、二人の叔父は大砲の技術を駆使した大砲専門の傭兵軍団を作り上げていた。それもこれも美しい彼女を守るためだった。だがそれも終わった。弟の叔父は大砲の火薬を誤爆させて顎を弾けさせた。生き延びさせることは出来たが、美しき姪に変わった顔を見せるのを嫌がり姿を消した。それから誰も姿を目撃していない、おそらく死んだだろうが、スピノザの心の中では生き続けた。

 兄の叔父もしばらくして死ぬ。敵の策略に嵌められて叔父の傭兵軍団は四方八方から味方からの砲撃を食らった。自らの技術を教え込んだ味方に殺されるのはどんな気持ちだったのだろう。彼は四方八方に大砲を無理矢理動かして何度も何度も発砲した。大砲は重かった。指の骨は曲がり、腱は千切れ、両腕が雑巾のような形で死んでいた。両腕以外はどんな状況だったか伝わっていない、なぜなら大砲の直撃を食らって吹き飛んでいたからだ。指には婚約指輪が付いており、それは本物の紅玉ルビィと公言してはばからない品だった。だが誰もが偽物イミテーションだと信じていた。指から外されスピノザの元へと届けられた。スピノザは革紐を通して首から提げていた。彼女はそれが偽物と公言していたが、本物よりも価値があると信じていた。

 二人の叔父が死に、スピノザは本当の家族の元へ戻った。

 スピノザの弟がスピノザに対して屈折した愛を抱いていたのはこの為だ。幼い頃を過ごさず、実の父からも不義の子とされたスピノザは、面影がわずかにあるくらいで爆弾魔と呼ばれた弟とは、実の姉弟とは思えなかった。

 弟は兄であるスピノザに劣等感を抱いていたようだが、それはお互い様だった。全ての生物は長所と短所があり、全ての長所は嫉妬を抱かれる対象となりえる。だから人々は不和になり、時に殺しあい、時に愛し合うのだ。

 だが嫉妬は悪いものではない、それは飛翔するためにも必要だ。だからよほどの愚者でない限り嫉妬は抱く、逆に堕ちる者もいるが、全てのものは平等ではないのだ。私達は這い上がってきた者のみを一人前に扱う、這い上がろうともせず堕ちるものは上に行く者の踏み台にならざるを得ない、なりたくなければ足を引っ張ってでも昇るしかないのだ。

 私達は何度も堕ちたが、昇るのを諦めなかった。

 スピノザには弟のような火を操る魔法は扱えなかった。二人の叔父に育てられ時とは違い、明確な競争相手が出来た。家業であった花火師を姉と弟どちらが継ぐか――それはどちらが優秀か父親に証明することだった。スピノザはそれに闘志を燃やした。

 俺の方が優秀だ。

 俺の方が価値がある。

 その頃には自分の性が女ではなく男だと確認していた彼女……彼は弟に対して完全に上回ることを人生の目標とした。父親に疎まれていたので最初は学ぶのも一苦労だった。戻ってから一年は父親からの虐待があった。日常の暴力は勿論、冬の夜に裸で出されたこともあった。

 その日、雪が降っていた。

 足が凍傷するかと思ったが、一夜明けても凍傷はならなかった。弟のように火の魔法は使えないが、スピノザは肉体を僅かに暖める力を持っていたようだ。魔族の血は父からのものだ。その日を境にスピノザは実子という確証を得た。スピノザは内に秘めた闘志と、類まれな知力を駆使して、家業である花火師の技術を学んだ。だが知への欲望は尽きることがなかった。そして王立図書館で独学した。花火の技術だけではなく知識欲は、知識の対象となる全ての範囲に広がっていた。数学も科学も学校で学ぶ者たちよりも秀でていた。



 スピノザはある時、私に言った。

「その時、お前にも会っていたような気がしたよ」

 私は詩人だった。

 先生も、同志もおらず、独学して詩を学んでいた。古書店で買える詩集は生活費を割いても買ったが、世の中には手に入らない詩集が山ほどある。図書館には歴史の波に揉まれて無価値となった詩集もあった。図書館は金銭のかからず、貧乏人だった私にとって最良の場所だった。

 私は図書館の窓際の椅子に座り、古代から現代までの詩を口ずさんでいた。図書館の中ではうるさかったのだろう。私の周りには人は座らず、集中して詩を楽しむことができた。窓から覗く自然と詩が絡み合い、弾きあい、時々の美しさに翻弄された。あのとき暗誦した詩は、私の血肉となり、様々な詩となり、戦場で生き残る糧となった。暗記した勇壮な叙事詩に登場する英雄達は私の師匠となった。私淑ししゅく――読み漁った詩人を師とし、詩に登場した英雄を師とした。その積み重ねが武人の端くれとして生きる糧となったのだろう。

「会った? 気のせいじゃあないか?」

「そうかな。でも同時期にいたよな」

 からからと彼女は笑った。

 気のせいではなかった。

 私は、彼女を覚えていた。

 これほど美しい人を忘れようとも、忘れることはできない。

「すみません。数学と花火の本ってどこにあるか分かりますか?」

 清流のように美しい声だった。

「多分、そことあそこ」

 眼も上げずに答えて、しばらくすると声が戻ってきた。

「どうして分かったんですか?」

「この図書館は十二進法で分けているから何となく覚えていただけだよ」

「十二進法……図書館で」

「そう」

「へえ、面白い」

 そんな他愛のない会話だった。再びであったのはその数年後だが、彼女の頭の良さは会話の端々から伝わってきた。知識に裏打ちされた言葉はシャラシャンカの信頼もすぐに得ることが出来た。悪童といわれた連中が多かったが、皆がそれぞれ独学して自らを教育していた。シャラシャンカは元々王族なので教養はあった。知識を系統付け、関連付けて覚えていたから躓きも殆どなかった。それは教育する者達の質が良かったからだ。だからか躓きながら知識の自己鍛錬をしてきた者達と会話するのを好んだ。相手を打ち負かす討論は好まなかったが、化学反応のような会話を好んだ。上に立つ者の態度が悪童達を感化させたのだろうか、その後国を導くような者達となったのだ。

 ……振り返ると夢のようだ。

 だが生は無常だ。

 多くの者達がもういない。

 どんなに力強く生きても、死ねば誰かの思い出になるしかない。

 誰かが私達を連れて行ってくれるから死ねるのだ。

 そういう友と出会えて本当に良かった。

 シャラシャンカは悪でも善でも無かった。王位継承争いからその当時は脱落していたので、後に帝国となる国に遊びに来ていた。その旅の途中でも色々な事件に巻き込まれていたが、この国の首都について腰を落ち着けた。割と心地良かったそうだ。何より悪党が多かった。悪党を殴り倒して、善から奪った金を取り返せば暮らせたし、首都なので空き家は多かった。空き家を点々としていけば誰にも迷惑かけずに暮らせた。図々しく腕っ節の強い小悪党――そんな噂が首都の悪党どもの間で流れた。

 それは間違いだった。

 彼はそんな次元で生きてはいなかった。

 後々に驚くことになるのだが、彼は旅をしてきた場所を生まれ育った場所のように把握していた。各地の図書館にも篭り、その場所ごとの特色を頭に叩き込んでいた。そして歩く、ひたすら歩き、観察、考察、空想で遊び、実際に遊んで世界を把握した。こういう地道なところから築くことも厭わず、魔王と恐れられるほどの人格を作り上げたのだった。

 それが叔父貴との差かも知れなかった。叔父貴は槍術は不世出の才能があり、槍自体の能力もあり、シャラシャンカ隊の中でも随一の実力者だった。おそらくシャラシャンカと一対一で殺しあっても負けることは無かっただろう。だが、彼は王位継承者争いで負けた。彼を慕うものも多かったから人望はあった。なのに何故負けたのだろうか。

 シャラシャンカが随一に優れたところは自らの人生で他人の人生を引っ張ってしまうことだ。凡庸な者が、歴史の表舞台へと引っ張られる。そして活躍できたのだ。

 シャラシャンカを含め旗本と呼ばれたシャラシャンカ隊の全員が――シャラシャンカだった。魔王だった。最強だった。

 最強に突き刺さった棘が皇帝だった。

スピノザの話を一話にまとめようとしたら長くなったので分割。

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