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第180話 シャラシャンカ隊16

 水盆の端から墨を流し込むように闇が広がってきた。瞼が重かった。死に直結する睡魔が瞼を下ろそうとしていた。歯を食いしばり眠気を覚まそうとした。視界に闇夜の星光のような白色の斑点が散らばった。眼球の細胞が次々と死んでいっているようだ。

 俺の腹に剣が突き刺さっていた。信じられない光景だ。致命傷だ。

 これまでの人生で何度も死にかけたが、その傷を全て克服してきた。今回は致命傷だ。決して傷ついてはいけない肉体の深部を貫かれた。他人の死は数え切れないくらいに見てきた。今回死ぬのは俺だ。

 あと何時間の命だ。否、あと数分の命か……。

 もう……上手い飯は食えない。バルティカ国の首都で新しく開店した酒屋に行きたかったが、もう行く事はできない、戦場に行くときは必ずやり残した事を作っていた。ここぞという時で底力を出せるようにだ。芋から作った酒を飲んでみたかった。

 もう……女も抱けない、愛人といえる女、馴染みの玄人女もいたが、別れの挨拶をしなかった。最後に会った時に良い思い出があればいいのだが……そうすれば死んだあとも思い出してくれるだろう。

 友たちと語り明かすこともできない、それが一番辛かった。この腐れ吸血鬼に何人も殺された。まだ別れも告げていないのに、皆死んでしまった。

 ……ふと思いついた。俺は俺に失望して死んだ従者のことを思い出した。俺は未練のある男のようだった、死に掛けのときに心名残のことを思い出してばかりいた。

「ご、御主人……」

 俺の槍が俺を呼んでいる。聖堂に磔にされた俺の身体では、落ちた槍を掴むことはできなかった。最期の時は、彼女と共に死のう。そう決めた。もくすぐ死ぬのだ。わずかな間でできることをしよう。

「ここで終わってすまない」

「……まだ終わっていません」

 槍が俺を勇気付けている。

「まだ?」

「はい、私たちはまだ終わりません」

「そうか」

 期待されている。答えないわけにはいかんな。

 東方王を殺して、死ぬ。

 死ぬことは何度も覚悟して来た事だが、あと一息で死ぬ窮地まで追い込まれると寒気がした。下の毛も白くなってきたがまだ肉体は衰えていない。老いぼれて若者たちに赤子のように扱われたかった――老いぼれて権力争いをしたこともあったシャラシャンカと語り合いたかった。若き頃の戦略・戦術の再考察、若くして死んだ天才たちの思い出、人生を彩った女たちの追憶、死闘を繰り広げた勇者たちの記憶、そんなことを毎日飽きずに繰り返したかった。そんな日が来ると信じていた。

 甘い夢想は終わりだ。

 俺には希望のある未来は無い。

「忌々しい剣め……」

 俺は、俺を串刺しにした剣を睨んだ。剣の――否、武器のカルマだ――たまたま質の良い金属が集まり、たまたま腕の良い鍛冶屋に鍛え上げられ、たまたま掴んだ東方王が剣の使い手だった。雷の柱を穿ち、鍛え抜かれた腹筋を貫き、俺を聖堂に串刺にした。剣はこの血脈を吸いたがっていたかのようだ――武器は思考しないが……そうなった。運命とは偶然の繋がりでしかない、だが運命とはそういうものだ。おい叔父おじの血を吸い、諸悪の根源たる男の血すら吸おうと刀身が殺意を漲らせていた。

 俺の弟――シャラシャンカの血を吸おうとしているのだ。

 忌々しい――シャラシャンカは俺の未来だったのだ。

 俺たちの未来を、未来へと運ぶんだ。

 腹に刺さった剣を抜き取ろうとしたが、刀身から流れ落ちる血で滑ってなかなか抜けなかった。剣が聖堂の外壁に深く突き刺さっていて、何とか抜こうと足掻くたびに聖堂が揺れた。破城槌の震動に似ていた。羊皮紙の書物が震動で落ち、床で開く音が伝わった。激痛に感覚が研ぎ澄まされて、周囲の微細な動きが伝わってきた。体の先端から放出された静電気のせいだろうか……周囲の空間が掌の上にあるような感覚があった。剣を投擲した東方王が瀕死の女を担ぎ、全身を痙攣しながら歩いてきていた。雷の柱は無駄ではなかった。東方王の不死の肉体は雷で深く傷ついたようだ。痙攣が止らず、歩くのも億劫そうだ。

 笑いがこぼれると同時に吐血した。剣に降り注ぎ、顎と口の端から糸を引くような血が流れた。右手で心臓を叩き活を与え、真っ直ぐ伸ばした。五つの指の腹に痺れが走り、指紋が焦げ付いた。雷撃が東方王の顔面に直撃――したかに見えたが間一髪避けられた。

「槍は無くても多少は使えるのか」

「これじゃあ死なんか」

 槍は東方王の足元に転がっていた。東方王は担いでいた女を下ろして、槍を睨みつけた。「随分と苦戦させられたな」東方王は続いて仮面の男を睨みつけた。「貴様らは強かった。安心して死ね。俺が覚えておいてやる」

 転瞬――仮面の男は剣を両手で掴んで引き抜いた。真下に東方王がいる。重力に身を任せて上段斬りすれば攻撃はできるだろう。

 だが、遅すぎる。それでは避けられてしまう。

 東方王が見上げた瞬間、槍が地面を跳ねた。穂先が脾腹目掛けて伸びた。東方王は瞬時に察知して槍を掴んだ。東方王の頭上で大きな火花が散った。

「獲物を交換して勝負ってか?」

 俺は自らの甥を殺した剣を握っていた。

 東方王は自らの肉体を深く傷つけた槍を握っていた。

「俺の女を返せ」

 東方王は手元の槍を見つめた。

「これがお前を殺すのだ」

 勝負は一瞬で終わる。

 東方王はこれ以上時間をかけるわけにはいかない。

 俺もこれ以上時間はない。

 転瞬――死線が交錯した。



 俺の心臓を槍が貫いてた。

 地面に倒れている。

 東方王はすでに姿を消していた。

 仮面が剥がれて、俺を見つめていた。

 俺に絶望した男の顔だった。

 俺の顔にはもう借り物の表情はなかった。

 掌で触ってみた。

 なんだが……満足した表情だった。

 地に死者

 天は青空

 冬枯れる

 俺は死んだ

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