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第125話 強弓

 美しい女性だった。凄惨な美は異性だけではなく、同性すら魅了して、俺の妹をとりこにした。吸血鬼の国の王だったアルカード様が亡くなり、新しく王の座についた姫殿下――アイシャ様だった。

「本当に美しいのよ」

 頬を赤らめて語る妹に呆れた。

「馬鹿な事を言うな。ベロニカ」

「兄さんも見たでしょ。綺麗な人だわ」

 ベロニカの同性愛的な発言はさて置き、よく知りもしない相手に一方的に恋心を寄せるのが気に入らなかった。恋する自分が好き……と言ったら言いのだろうか、自己中心的で都合の良い考え方をして欲しくなかった。そうして相手に勝手に失望するのだ。

「手に入らないものを欲しがるのは無意味なことだ」

 俺は自作の弓を点検していた。道具の手入れを念入りにするのは当然のことだ。毎日の積み重ねが命を助けることがあるだろう。弦を力任せで外して、絹と動物の腱をあわせて作った新しい弦を張り替えた。常人では張り替えることはできないほどの張力だった。まさに強弓中の強弓。俺にしか扱うことのできない弓だった。弓は無駄な装飾が施されているが、何度も使用しているので金の塗装は剥げており手に馴染んでいる。射程距離は長く、至近距離で放てば、巨大な動物に突進されたように吹き飛ばすことができる。

 何度も人間を撃ち殺したことがある。心臓を貫き、矢尻に引っかかり、背後の木に串刺にした。俺は自分の力に驚いたが、同時に自分の強さが誇らしかった。

「私の事、吸血鬼にしてくれないかなぁ」

「呪われたいのか?」

「あの人のためなら死んでもいいわ」

 俺はベロニカを誰かに捧げるために育てたつもりはなかった。幼い頃に両親が事故死して、一族が受け継いでいた仕事が失われかけたが、俺が何度も頭を下げて懇願して仕事を維持した。禁猟区の管理人が俺の仕事だった。区画された地域で人間を閉じ込めて、制限された食事を与えて、良質な血を生産させる仕事だった。最近では人工的に作られた血を飲む層も増えたそうだが、依然として人間の血は吸血鬼の好物だった。

 吸血鬼の供物は人間であり、管理するのも人間だった。

 俺達は血を吸われることは無い、その代わりに大事な尊厳と言うものを売ってしまっていた。同族を売り、自らだけは安逸な生を享受する。何度も命を狙われたし、何度も脱走されかけたが、遠距離から放つ矢に磨きをかけて、人生の障害を打ち砕いてきた。

「馬鹿な事を言っていないで。仕事をしろ」

「……はぁーい」

 ベロニカが適当な返事をして外へ出た。

 その日――俺は死んだ。


 禁猟区内には一定数の魔物がいた。どこから侵入するかわからない、もしかしたら禁猟区内で生態系を保っていたのかも知れない、どちらにしろ熊型の魔物が人間に飼い慣らされて、俺を殺しにきたのは間違いなかった。熊に俺を襲わせている間に、逃げようとしたようだが俺の矢は人間を射殺した。自らの危険よりも、仕事を優先させた結果だった。熊が俺の体を一撫でして、俺を木に叩きつけて一瞬気絶させた。俺は飛び上がり、木にじ登った。熊の手が木をへし折った。別の木に飛び乗り、熊を観察した。

 でかい。

 普通の熊より二回りほど大きかった。俺は矢を放とうとしたが、体を吹き飛ばされた時に矢がほとんど真っ二つに折れてしまった。熊が再び木を折った。俺は地面に降りて、使える矢を探しながら、ジグザクに動きながら逃げた。草っ原に抜けて、俺は反転して弓矢を構えた。熊が追撃してきたが、構えた途端に動きを止めた。熊の間合いだ。だが俺も一撃で殺せる間合いだった。

 お互いに一撃必殺以外は自らの絶対死を予感させる間合いだ。

 どれほどの時間が経過したのだろうか。数日は経過した。俺の股座またぐらは排泄物で濡れて、太陽で乾いて、時間が経過して匂いすら放たなくなっていた。両腕は痛みを通り越して、すでに無機物のように静止していた。全身に疲労感が積もってくるが、疲れを通り越して死の際まで近づいてきた。状況も肉体も死地に入った。死体が動くような境地に突入していた。

 均衡を破ったのは、姫殿下の出現だった。

 両者の拮抗を木の上から見つめていた。何故ここにいるのか? いや、居てもおかしく無い、ここは吸血鬼の晩餐場なのだ。

 熊は第三者の出現に様子を変えた。

 姫殿下を俺の味方だと思ったのだろう。

 突進してきた。

 矢を放った。

 数日狙い続けた左目を通過した。

 脳を貫いた。

 死んだ。

 だが動いている。

 お互いが死地に入っていた。

 二本目は構えられなかった。

 残されたのは徒手空拳。

 俺は熊に殴りかかった。

 意識が消失した。


 生きたいか。

 死にたくない。

 本当に生きたいか。

 ……分からない。

 しがらみはあるか。

 ベロニカが心配だ。

 ベロニカ?

 妹。

 そう、優しいのね。

 吸血鬼になって、呪われても生きたい?

 考えさせて……。

 駄目よ。早く決断しないと。あなたの体はもう死んでいる。

 このままだと死ぬんだ。

 そうね。

 俺は生の果てにある死を思い浮かべた。そこは冷たい場所で、永遠の苦しみが待っているように感じられた。

 生きたい。

 それが呪われていても。

 はい。

 なら、飲め。光栄に思いなさい。私の血を受けるなんて珍しいんだから。

 ……熱い。

 異常なまでに熱かった。全身が焼け付き、吸血鬼化への試練を乗り越えられるとは思わなかった。俺は気付くと、真っ暗な部屋で寝ていた。

「起きたの?」

 姫殿下が椅子に座っていた。

「俺は吸血鬼になったんですか?」

「そうよ」

 死ぬのが怖くて、俺は呪われてしまった。正常な状態だったら絶対に承諾しなかった。死地が俺を狂わせたようだ。だが本当にそうなのだろうか。もしかしたら俺は吸血鬼に憧れていたのかも知れない、不老不死に憧れていたが自分から程遠いものだったので、知らず知らずのうちに嫌っていたのかも知れなかった。

「これじゃあ禁猟区の管理人は無理かもね」

「はい」

「そだ。名前は」

「アレックス」

「よろしくね。アレックス」

 俺はベロニカのことを思い出した。急いで帰ろうと思ったが、全身が汚れたままで、口の周りには姫殿下の血が固まってこびり付き、熊の退治した時の排泄物まみれだった。

「体、洗う?」

「いえ、その前に一度帰りたいです」

「そう。それがいいかもね」

 俺は頷いた。

「……私の元で生きる?」

 そうしか無いのだろう。

 他に生きるあてが無かった。

「……はい、ただその前に妹と話をしなければ」

 日が暮れてから俺は外へ出た。素晴らしい肉体だった。夜眼が効いて、異常なまでの速度がでた、この肉体なら傲慢になっても仕方が無いだろう。

 すぐに家についた。

「兄さん、良かった」

 俺の姿を見た途端にベロニカは膝を崩した。

 俺は事情を話して、姫殿下から血を受けたと言った。

「もう戻れない。だから姫殿下の元で暮らそうかと思っている」

 ベロニカの眼が輝いた。

 俺の口元の血を見つめた。

 口を開き、舌を出して、淫猥な呼吸をした。

 俺は避けなかった。ベロニカの考えていることは分かった。ベロニカが姫殿下に思慕を寄せていることは知っている。だがそれよりも俺は一人で不老不死になるのが怖かった。

 ベロニカの舌先が顎に触れ、下唇をなぶり、鼻先まで舐め上げた。

「これで……」

 ベロニカは昏倒して、全身を痙攣させた。涙、鼻水、汗等々……体液が漏れ始めて、俺は罪の重さを知った。ベロニカを担いで、姫殿下の元まで戻ると、意外な展開に表情を曇らせた。

「吸血鬼は自分の血を与える時に、自分の意思を持って行う。相手が吸血鬼化の試練を乗り越えられるかどうか確かめるためだ」

 ベロニカの吸血鬼化は例を見ないほどに激しかった。完全に吸血鬼になるまで一ヶ月が過ぎた。それまでに老人のように容姿が変化してしまったが、血を吸えるようになると若々しさが戻った。

 ベロニカの思慕を姫殿下は無下にした。

「私が選んだのはアレックスだ。ベロニカなんぞ知らん」

 それでもベロニカは諦めなかった。姫殿下に気に入られようと懸命に尽くして、それでも得られないと知ると、一人の男に眼をつけた。

 はるか東の半島にいるプレスター・ジョンという男だ。国盗りを行い、半島で国を作ろうとしている男だ。姫殿下が唯一愛した男だ。

 悪知恵をどこで付けたのだろうか。

 プレスター・ジョンと敵対していたナイを吸血鬼化して操り、なんと封じ込めてしまった。馬鹿な妹だ。姫殿下はそれを知り、怒り狂ってしまった。

 だが怒りは下されていない。

 俺とベロニカは魔女の探索隊に組み込まれていた。吸血鬼の国に戻るのは数ヶ月先だろう。それまでベロニカの私刑はくだされないだろう。

 その時、俺はどちらの味方をするか……。

 結論は決まっている、ベロニカの味方をする。

 たとえ相手が神であろうと、俺は俺の大事なものを守るために闘う。

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