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第109話 受肉

 果物の薄皮を剥くように、フィオナの皮は肉との腐れ縁から開放された。血の器たる肉体は破壊されて、城壁の上に血溜まりができた。頭蓋を刳り抜かれながら、血肉で溢れる身体を掃除した。魔族の身体からEaterは切断されて、両手両足のない蛇のような姿が血に映った。

 コレガ、ワタシノ、スガタカ。

 蝿が言った言葉は正しかった。私はフィオナを食って、成り代わった化物だった。フィオナだった器は顔から倒れて、鼻骨が粉々になり陥没しただろう。

「衝撃だったか?」

 蝿は楽しそうに笑い、その顔は大理石を丁寧に掘り込んだように陰影に映えていた。圧倒的な威圧感は、己の力に慢心した人間には到達できない領域に達していた。

「喋れよ」

 その時――衝撃が走ったのは蝿の方だった。

 私の脳天に爪を刺し込もうとすると、火花と共に弾き返された。

「……まさか、アイギスか?」

「アイギス?」

「驚いたな。大器だったのはフィオナではなく、お前だった……ということか。皮肉だな。だが、安心しろ。それならば、それならば――だ。お前が私の器となるのだ。喜べ。神に近づきし悪魔をイレちまうなんて、生物の誉れだ。人生逆転サヨナラ満塁ホームランじゃあないか」

 何言っているか良く分からない。

「嫌だ」

 私は尾を振り、蝿の手を弾いた。

「無駄だなぁ」

「それでも諦めない……」

 蝿はフィオナの両足を踏みつけ、葡萄を踏み絞るように何度も足を踏みつけた。

「私が前にいた世界には学校があったが、そこでは人生について、こう……教えてくれるぞ」蝿は私の頭を握り潰そうとした。「人生諦めが肝心だ。人生はやり直しも、取り返しもつかないんだよ。だからさぁ、今みたいな状況に行きつく前に、地獄の手前の駅に止まる前に、目の前の敵を叩き潰し、味方を踏みつけてでも上に飛び、無限回数の勝利をもぎ取らなければならなかったのさ。未来の道程を、血と肉と魂で路面を舗装して、必要があれば橋を作り、大海があれば船を作れ、大空があれば飛行機を作り、宇宙があればシャトルを作り……そうやって生きていかなければならんのだ。だがお前の未来は那由他あるが、希望は一握も無い、全て絶望しかないんだ」

 蝿が周囲を見渡している。兵士たちが駆けつけて来ないか確認しながら、指先から血を飛ばして幾何学的な図を描いていた。

「キリストが受肉した時は、アイツから志願したんだよなぁ。あっ、この世界にキリストがいないから分からないか?」

 背後から陰鬱な空気が襲ってくる。

「ルシファーって奴が神に反抗して、地獄を数日間落ちて、その後にイブに知恵の実を食わせていたけど、たしかその辺りに決意したんだよなぁ。良く覚えてねーけど。ミルトンの『失楽園』参照だ。人間を救うために受肉したらしいけど、今度の受肉は人間を堕するためにしたいものだな」

 背中にベットリと血が付いた。

「あっ、お前には絶望しかないと言ったが、一つだけ希望があったぞ」

 蟻走感が全身を襲い、血が身体の表面を這ったのが分かった。

「お前の好きなオジさんの、前世の時の娘になれるんだ」

 闇だらけの絶望に一滴の光を垂らされた。

 それなら、良いかも――そう思ったのが終わりだった。

「お前願ったな? これだから、生きとし生けるものは救いようが無いのだ」

 視界が真っ黒になり、フィオナの肉塊が浮き上がり、球体状を維持しつつ、中身が竜巻で掻き混ぜられた。私は細切れになり、最強を誇った蝿も細切れになった。

 球体は卵のような形になった。

 私は卵になり、死んだ。



 深海に落ちるような圧力が満ち、俺の向う先を導いてくれた。遠くから聞こえる戦争の音も少し前から変化して、終わりの時が近づこうとしていた。

 階段を昇り、城壁の上まで行き、端から下を見下ろした。俺を見上げた兵士たちが、絶望から救われたように歓喜の声をあげた。

「アイツを! アレを!」

 視線の先を見ると、大きな卵の殻が転がっていた。

 フィオナが頭部だけになっていた。

 髪を掴んで、首の切断面から血を垂らし、舌で受けていた。

 俺は後悔していた。

 だが後悔は血を凍らせなかった。

 泡立つほどに沸騰する。

 歯を食いしばり血管が千切れ視界が朱に染まった。

 それも――目の前の女が俺の娘だったからだ。

「ふはぁっ……血ってこんなに美味しかったんだ」

「オリガ……お前は」

「ノンノンノン……。私はオリガではない。違うよ。おじ……」咳払いをしてから。「お父さん。私の名前は三位一体トリニティって感じだ」

 意味不明理解不能だ。

 どうでも良い……殺すのみだ。

 俺は徒手空拳でトリニティに突進した。

 その時、伏兵が現れた。

 ハロハルハラが城壁の下から垂直に飛び上がり、トリニティの背後から無音で近づいた。手には二振りの剣があり、後ろから切りかかると同時に俺に剣を投げた。予想外の攻撃にトリニティは左肘でハロハルハラの剣を受け止めた。

「まだ動けたか!」

 ハロハルハラは首と額に布を巻いていて、血糊が黒く染まっていた。

 重傷のようだが自分を省みずに此処まで来たようだ。

 俺は剣を取り、首筋を刎ねようとした。

 転瞬――トリニティは後ろに飛んでいた。

「「時を止めたか」」

 ハロハルハラと声が同調した。俺は受身を取って剣を再び構えたが、何故ハロハルハラがトリニティ――オリガの特殊能力を知っているか気になった。

「プレスター様、アレはベルゼブルです」

「ああ? 何でオリガの姿をしているんだ?」

「それは――」

 寝床で奏でる嬌声が響いた。

 それはトリニティから発せられていた。

「これが痛みか。痛いな。これが痛みなのか。ああっ、あっ……初体験だぁ。何だコレ。うおっ、はははは」トリニティは傷口を抉り、痛みに涙が出るのを楽しんでいた。「うおおおおっ……生きているって感じがする。滅茶苦茶不快だけど、最高に気持ち良い」

 独りで盛り上がっていた。

「俺の娘は下品じゃあねぇんだけどな」

「あの方は気品のある方です」

 ハロハルハラの言い方に勘が働いた。

 なるほど――オリガの屍人だったのか。

「ふー、楽しいなぁ」

「いつまでもラリってんな」

「ああ、分かっているさ……ケリをつけよう、プレスター」

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