魔法陣の向こう
「……よし、そろそろ良さそうだ」
時間にして1時間ちょっとくらいだろうか。
夕焼けの空の裾がだんだんと夜の青黒い色に染まりかけた頃、寝転んでいた全身鎧さんはよいしょっと体を起こして言った。
外した兜を小脇に抱えて立ちあがる。
「もう行っちゃうの?」
妹がどこか寂しそうな雰囲気でそう聞くと全身鎧は頷いた。
「良い感じに魔力が溜まったからなー。夏は日差しが強くて有り難いよ、暑いけど」
「そっかぁ」
妹と一緒に私も立ち上がる。
そうか、もう行っちゃうのか。
ほんの数時間だったけれど、最初の内は迷惑で厄介だと思っていたけれど、帰る時になると何だか寂しくなる。
「なになにー? 寂しいの?」
「寂しいよ」
「ちょっとね」
妹に続いて私も頷いた。
全身鎧は少し驚いたように間をあけて、笑った。
「そうか、ありがとよ」
そうして両手を軽く開く。
全身鎧を中心に、ぶわり、と金色の線が広がり始めた。
線に合わせて見た事のない文字と不思議な紋様が勝手に綴られていく。
所謂、魔法陣という奴だろうか。
線が最初に現れた位置まで綴られると、全身鎧を囲む円になった。
今の今になって、私はようやく実感した。
ああ本当に、この人は別の世界の人だったんだなぁ。
そして帰ってしまうんだなぁ。
「元気でね! いつか呼んでね!」
「おう、いつかまた呼ぶぞ! そん時はよろしくな! お前らも元気でな!」
魔法陣の光りが強くなるにつれてだんだんと全身鎧の姿が薄くなっていく。
向こう側の空が見えるようになっていく。
何か、何か言わねば。
「失敗したら今度はちゃんと中身も連れて来て下さい。そうしたら色々案内しますから」
そう言った一瞬、魔法の影響か、全身鎧の中身が見えた――――気がした。
「もちろんだ! 俺、結構格好良いからよ、楽しみにしてろ! お前は胸、大きくしとけ!」
「失礼!」
最後の最後まで全身鎧は失礼極まりなかった。
それから数秒もしない内に全身鎧の姿は見えなくなり、光を放っていた魔法陣もすうと吸い込まれるように消えていった。
あとには何も残らない。
鎧も、声も、透明な中身も。
私と妹は全身鎧が立っていた場所をしばらく見つめていた。
先程まで賑やかだった為か余計に静かに感じ、夢でも見ていたような気持ちになる。
「帰ろっか」
「うん」
何となく妹の手を握ってみた。妹はぎゅうと握り返してくれた。
そうして歩き出す。
「何か疲れたね」
「面白かったー!」
「そっか」
「うん」
顔を合わせて笑い合う。確かに面白かったかもしれない。
何だか一生分の体験をした気がする。
「ねぇ、妹よ」
「なぁに、お姉ちゃん」
「私、弁護士を目指すのやめる」
「やめちゃうの?」
「別のになりたくなっちゃった」
そう言って、空を見上げる。夕焼けと雲のベールに隠れていた星が見え始めた。
「何になるの?」
「入国審査官」
「えー、何か難しそう」
難しくない夢なんてないけれど、なろうと思ってなれない夢はない気がした。
多分、あの全身鎧の言葉の余韻のせいだ。
「将来、全身鎧さんみたいなのが、わーっと押し寄せて来るかもしれないし。その時、その場にいたいなって思ったの」
「あはは。ありそうだねぇ。あったら良いなぁ」
会えると良いな、とか、会いたいな、とか、そういう気持ちはもちろんある。
約束もしたしね。今度はちゃんと案内するって。
あはは、と笑って私と妹は屋上と校舎内を繋ぐドアノブに手を掛ける。
そうしてガチャリ、とドアノブを回し、
「あれ?」
ガチャリ、とドアノブを回し、
「…………」
ガチャガチャガチャとドアノブを回す。
あれ、おかしいな。何か開かないよ? おかしいな、そんなはずは。
いやいや、流石にないでしょう、ないない。開くよ! 大丈夫だよ! 諦めないよ!
「お姉ちゃん……?」
妹がぎこちない笑顔を私に向けてくる。
私は泣き笑いの表情を浮かべてそれに応えた。
「携帯電話持ってる……?」
「え――――ッ!?」
空にはまもなく満天の星。
お母さん、夏は一日が長く感じると言うけれど、本当に長くなりそうです……。