第二章 紅魔館潜入作戦
「法に触れるかもしれないが?」
「構わないよ」
――『シャーロック・ホームズの冒険』より、ホームズとワトスンの会話
あいかわらずの早足で一会は人里を突っ切っていった。紅魔館は人里の端の方に行けば、ぎりぎり屋根の先端が霞んで見えるほどには近い距離にある。普通の人間でも迷うことなくたどり着けるだろう、妖怪に襲われでもしないかぎりは。幻想郷の妖怪の生態として、人里や紅魔館のような、力の強い妖怪や人間がいる地域の周辺には、力の弱い低級妖怪は住みづらい、という性質がある。さらに人里と紅魔館は見た通りそこそこ近い距離にあるので、その最短の道を進めば、異変でもない限り妖怪に出くわすことは少ないだろう。ただし、少ないだけで全く会わないということでもない。逆に中級の厄介な妖怪が出てくるかもしれないし、やっぱり人間にとってうかつに出歩くのは危険だ。
私たちは人里を過ぎ、霜の張っている小さな森に入っていった。ぱりぱりに凍りついた落ち葉をブーツで踏みつけながら、一会は人里からやっと、口を開いた。
「今まではこうやって里から出るのもままならなかったんだ」
「そうなの?」
その割には私たちが出会ったのは里の外である。
「あまり遠くには行けなかった。やっぱり危険だし、それに慧音さんに怒られる。でも今は問題ないな」
「私がいるから、ね?」
「そう。おかげで妖怪も寄ってこないようだ。このままボディガードを頼みたいね」
妖怪を避けるために、その妖怪を味方につけるのは一会ぐらいだと思う。
やがて森を抜け、目の前には朝霧の濃い湖が現れた。名前はそのまま『霧の湖』である。よく目を凝らすと、広い湖の中央の辺りで、妖精たちが飛び回って遊んでいるのが見えた。一会も同じものを見つけたらしく、目を細めて眺めていた。
そのまま湖の畔を周るように歩き続け、三十分もたったところで、ようやっとそれが見えてきた。高くとがった屋根。紅く塗られた壁。湖の霧でうまく隠されていたそれが、突然歩いて来た者の視界を圧倒する。
紅魔館だ。
普段は飛んで近づいていたので、今初めてその大きすぎる存在感に気が付いた。人間ならば、禍々しい、と表現するのだろうか。横で見上げている一会をちらりと見た。
「うん、いい雰囲気だ」
どうやら違ったらしい。
◇◇◇
「作戦……何のだい?」
警戒体制の紅魔館にどうやって入るのか。のっけから抱えてきた疑問を、一会は素知らぬ顔で受け流した。まさか正面から堂々とノックするつもりだったのか。暢気すぎる。さすがに私もあきれて、
「今の紅魔館に――というかいつもだけど――見知らぬ人間が入れるわけないじゃない。普通、知らない人を家には入れないでしょう」
「いや、入れるけど」
そうだった……。自宅を事務所にしている一会にこの常識は通用しなかった。
「ああ、うん、ごめん、私の言い方が悪かったかも」矛先を変えてみることにする。「事件でピリピリしてるあの人たちが、素性もわからない、犯人かもしれない人を歓迎してくれないと思うの」
犯人というワードで頭が回ったのか、一会は納得した顔で頷いた。
「ああ、そういうこと。それなら君の能力を使えば入れるんじゃない」
「私の能力は私一人にしか効果がないの。いまいち制御も利かないし」
「え、そうだったのか。参ったな、あてにしてたんだけどな」
私の『無意識を操る程度の能力』で入ることを考えていたようだ。確かにそれならば正面から、門番に気づかれずに侵入できる。私もよく使う手だ。能力について詳しく言っていなかった私にも責任がある。私一人なら問題なく入ることができるが、問題は一般人の一会をどうするかだ。あてがはずれた一会は遠目にそびえる館を見ながら、唇を舐め、考えているようだった。
「辺りには結界、正面には武術の達人の門番……」
守りは完璧に思える。これをどうするか。
門を強引に突破する? これでは喧嘩を売っているようなものだ。なら、別の入り口、たとえば穴を掘って地下から入る……駄目だ。結界が地下にもあったら意味がないし、手間を考えたら非現実的だ。
だんだんと私の考えが、いかにばれずに門番を倒すか、ということに移ってきたところで、
「そうだ」と一会が手を叩いた。
「なにか思いついたの?」
「ああ。我らが大先生、シャーロック・ホームズの手を使おうか」
◇◇◇
門からは見えなく、それでいてそこそこ接近した林の中、ここなら音だけが門まで届くだろう。少し開けた場所で一会がコートを脱ぎ捨て、私の方に放った。
「本当にいいのね?」
「派手なのを頼むよ」
一会は少し緊張した様子でそう言った。棒立ちの相手にこういうのはどうかと思うんだけど……。彼は聞き入れそうにない。派手なのと言っても、そういうのは考えてないんだよねえ。手持ちも少ないし、渡されたコートも汚しちゃ駄目だろうし、これでいいか。
「準備はいい? いくよ。
『嫌われ者のフィロソフィ』」
構えたスペルカードを宣言するとともに、私は大きく飛び退く。
いくつもの短弾の列が縦横を通過し、その中を薔薇を模した大弾が相手を狙う、お気に入りの技だ。霊夢や魔理沙にも使った。広範囲に広がり、見た目に反して威力は低い、はず。それに慣れれば避けやすい部類のものだと思う。
ただ問題なのは、撃っている相手は空を飛べない一介の探偵であり、スペルカードルールのもとに行われる弾幕ごっこは、空中戦が基本だということだ。
あわれ一会は弾幕の列にあっという間に逃げ場を失い、
「う、わ」
そして、あっけなく撃沈した。
◇◇◇
蛙のようにひっくり返っていた一会は、私が弾幕を止めるや否や、飛び起きて、
「言った通りに頼むよ」と言った。
黙ってうなずき、私はコートを抱えたまま能力を使って姿を消した。ここまでのはあくまで準備。ここからが、一会の言う、『ホームズ流』の作戦だ。
準備が完了すると、哀れっぽく悲鳴を上げながら、一会は林を飛び出し、紅魔館の方向に全力疾走した。逃げ慣れているのか走るのもかなり速い。
「助けて、誰か! 殺される!」
彼の演技はなかなか真に迫っていて、芝居なのはわかっていても私は少し心が痛むのを感じた。一会が自分の芝居に良心の痛みを感じていたかはわからない。
数十秒もたたぬうちに、一会が門に到達するのが見えた。そこにはもちろん門番の紅美鈴が立っている。この作戦のターゲットは彼女であり、この演技ももちろん美鈴を対象にしている。一会は初めからその一点に絞った作戦を立てていた。
「ホームズの第一短編集は読んだよね。あの中の『ボヘミア王のスキャンダル』での芝居を打つことにしよう。アイリーン・アドラーの屋敷にホームズが入り込むシーンだ。あの話ではホームズが金で雇った連中にアドラーを襲わせ、それを庇った怪我の治療のために屋敷の中で看病をしてもらう、という芝居をしたけど、今回はそれをやる。
僕はその辺の野良妖怪に襲われたことにしよう。妖精も遊んでいるくらいだ、この辺を住処にしているやつもいるんじゃないかな。この服装も外の世界から迷い込んで来たと言っても通用するだろうし、僕は紅魔館や幻想郷に全く無知な青年を装って門番に接触する。注意すべき点は、紅美鈴は『気を使う程度の能力』を持っているということだ。『気』っていうのは生命力や気迫の気だと思う。彼女の前じゃ、生半可なお芝居じゃ通用しないだろう。そこで……」
君に協力してもらう、と一会は私に弾幕を打たせ、それに体当たりを食らわせたというわけだった。言うまでもなく私はホームズのそれで言えば、雇われの暴漢役で、一会がホームズだ。さらにこうして姿を隠して見ているしかない以上、私はワトスン役も兼ねていることになるのか。
さて、狙い通りに、一会はボロボロの様相で美鈴に助けを求めに行った。息苦しそうにしながら、必死そうな声を出す。怪我をしたのは本当だし、一部演技ではないのかもしれない。
「ぁあ! ……助けて!」
「何者! あら……」
美鈴は突然の乱入者に警戒をあらわにしたが、一会のひどい格好にすぐに心配そうな表情を作った。優しい、良い人なのだというのが、その素振りで分かった。悪い人の一会はそこに追撃をかける。
「逃げてるんです、森の中で、化け物が! 本当なんです、ほんとうに、ほら、こんなにやられて!」
支離滅裂に叫びながら、一会が自分の特殊メイクを見せる。後ろをびくびくと振り返り、逃げようとしている演技も忘れない。美鈴もつられてその方向に目をやるが、化け物こと実行犯の私は目の前にいる。
「はあ、はあっ」
過呼吸を起こしたかのように一会はいったんその場にうずくまり、それでも遠くに行こうかとするように急に立ち上がり、ふらふらと歩きだす。
「ちょ、ちょっと、待ちなさい、止まって」
演技が功を奏したか、美鈴が彼をひきとめた。それでも一会はまだ続ける。
「はなして! 逃げないと……」
「大丈夫、大丈夫ですから! 落ち着いて。ここまでその化け物は来ません。ここは安全です」
安心させるように美鈴が言った。どうやら信用させることができたらしい。あとは中に入れてもらえるか、だけど……。
「館に入りましょう。怪我もひどそうですし、ここがどういう場所なのかも説明しないと……」
問題はなかった。完全に嘘を信じ込んだ彼女は、笛を吹いて妖精メイドを集めると、一会に肩を貸して門の中、紅魔館の敷地内に入っていった。私も妖精たちの横をすり抜けて、そっとその後ろをついていく。私は小さくガッツポーズをした。一会もできるならばしていただろう。
こうして、私たちは紅魔館の侵入に成功した。
……少し、やりすぎたような気がするけど。
茶番はここまで。