第二章 本と、本と、下準備
下準備と説明みたいなものです。
行きましょうか、と人里の方向に歩き始める一会に私は両手を振り上げてついて行くことにした。
川辺から一分も経たない内に人里に到着した。私は少し飛んでついて行ったのだけど、意外と歩くのが速い。独特の、ポーンポーンと弾むように歩く歩き方のせいで雨上がりの泥に靴の半分位までしっかり沈んでいた。
里に入ると待っていたのは怒り心頭の女の人だった。
「また勝手に里を出たのか、合歓垣! 里から一歩でも出たらいつ妖怪に襲われてもおかしくないんだぞ!」
「いや……慧音さん。その、捜査ですから仕方なく。急がないと証拠も腐ってしまいます」
そうか、この人が里の守護者の上白沢 慧音か。名前は聞いてたし、遠くから見たことはあったけど、近くで見るのは初めてだ。少し吊り目の強気な顔(説教中だからかも)に背中までかかる銀色の長い髪が綺麗に映えている。……頭に乗っているのは、なんだろう。小型の塔かしら。
なかなかの美人に顔がくっ付くほど近よられて怒られているのに、一会は困ったような笑顔を全く崩さず、ただ飛んでくる唾にしか注意を向けていなかった。
「分かった。分かりましたよ慧音さん。ちゃんと一声かければ良いんでしょう」
「そうだ。反省したか」
「しました」
「よろしい」
はあ、と溜め息をつく慧音を見る限り、何度となくやったやりとりなのだろう。その慧音がこちらを見た。
「おや。君は地霊殿の主の妹の」
「古明地こいしです」
「知っているよ。どうしてここに? ……人里に何か用だろうか」
慧音の目が私を疑うように射る。警戒されているみたいだ。地底の妖怪だからか。覚り妖怪だからか。
私が何か言う前にさっと横から一会が口を挟んだ。
「助手の古明地さんです。僕と同じくらい信用してかまいません」
いつの間にか私は彼からかなりの信頼を勝ち取っていたらしい。
「助手? ……お前に助けが必要とは思えないな」
私もそう思う。
「照れますねえ」
「褒めてないよ。お前は何を企んでいる?」
「なんにも。ところで慧音さんは甘いものは好きですか」
「甘いもの? 好きだぞ」
「ですよね。鼻先にあんこが付くほど夢中になって食べたんですからね」
「なっ!先に言わんか!」
上白沢慧音は顔を赤らめて、走り去った。合歓垣一会が振り返って、
「はは、今の見ました?古明地さん……古明地さん?」
と首を傾げた。誰かを探すように当たりを見回す。
誰もいない。しかし、何かにはっと気が付いたようだった。
合歓垣一会は真剣な顔で辺りの地面を観察すると、おもむろに何もない空中の一点に手を伸ばした。
一会の伸びた手の平が、しっかりと私の……胸……を鷲掴みにしている。
「あっ……」
一会はしまった、という顔をした。この人が驚いた顔を見るのは初めてだったが、その前に!
「うぐあっ」
真っ赤になった私の無言のスイングで彼が宙を舞った。
◇◇◇
「……で、説明して貰えるかな、うん?」
頬に湿布を貼り付けながらいらいらした口調で一会が言った。
私の一撃により放物線を描いて、ぐちゃぐちゃの地面に不時着した一会は、お気に入りらしいコートの背中に泥がたっぷり付いている、という嘆かわしい事実に声にならない悲鳴を上げた。そしてそのまま私の腕をつかみ、路地を幾つか抜け、一軒の家に入った。入ってすぐの狭い階段を駆け上がる。上にはドアがあった。その中に入るほんの一瞬手書きの綺麗な表札が見えた。『私立探偵 合歓垣一会
御用の方はベルを鳴らして下さい』なるほど。
一会はバタバタと家に駆け込み、部屋を一つ抜けると、私を大きなソファに座らせ、再びコートに悲痛な叫びをあげてから、私の向かいにある別のソファに座った。
そしてさっきのの発言。いつの間にやら敬語も消えている。別にいいけど。
「説明?」
「あれは君の能力だろう。気づいたらいなくなっていた。『無意識を操る程度の能力』だったね」
結構知られているんだな、と思いつつ、
「あれはわざとじゃなかったの」
「うん? 一体どういう……?」
「あれは言わば、能力の暴走、ね」
実は、こういう事だった。霊夢、魔理沙との弾幕ごっこの後、私は自分がこのままで良いのかと考えていた。考える、という行為をして来なかった私は、こうして考えるほどにある種の『感情』を取り戻していた。お姉ちゃんは喜んでくれていたけど、私はどう思えばいいか分からなかった。
そうして悩み続けるにつれ、奇妙なことが起こり始めた。能力が上手く扱えなくなっていた。慌ててお姉ちゃんに相談したけど、理由は分からなかった。でも予想ではこうだ。そもそもの『心理を読む』覚り妖怪元来の能力を捨てて『無意識を操る』能力を得た私は、今逆の事態になっているらしい。『無意識』を捨て『心理』を取るか。今まで通り考える事を放棄するか。その決断を迫られている、と。
「こういうことなの」
「その決断に関しては僕から言えることはない。で、能力が暴走すると具体的にどうなるんだい、古明地さん?」
「こいし、って呼び捨てでいいよ。そうね、さっきみたいに姿が見えなくなったり、あと意識も消えるわ」
一会がゆっくりと首をかしげた。
「意識まで? それは危ないね」
「しばらくしたら戻るけどね。もしくは何かぶつかるとか、……触られるとか」
少し嫌みを込めて言った。しかし一会はじっと考えていて、反応しなかった。
「……」
「一会?」
「はい?」
「なに考えてるの?」
彼は私の閉じた第三の目にチラッと視線を向けて、
「なんにも」と答えた。
どう見ても嘘臭いけど、確認は出来ない。
やることのなくなった私は今居る部屋を見渡した。今居る居間と、さっき通り抜けた同じサイズの部屋。なかなかの広さで、風通しも良い。朝だというのに日光がさんさんと部屋に入ってきて暖かい。急に連れてこられたせいで、気づかなかった物がどっさり目に入った。
何よりも目立つのは、大量の本だ。玄関からのドアとその反対にあるもう一つの部屋へのドア。それ以外の壁には大きな本棚がいくつもあって、壁紙要らずになっている。その全てにギッシリ本が詰まっていて、さらに入りきらなかったのか、可哀相な本達が各本棚の上と下に積まれている。よく見たら本に埋められたベッドがあった。埃はついてなくとも、あれでは寝られないだろう。目立つのは本だ、といったけれど、この部屋には本と、ソファ2つと、本と、本と、本で埋もれたベッドと、本と、本と、本と、本と、本と、本と、本と、本と、本と、あとは部屋の端の窓の前に小さい机があるだけだ。大雑把に言うと本しかない。
一体どうやって生活してるのだろうか。
その疑問は即解決した。いつの間にか居なくなっていた一会が、もう一つの部屋(後になって来客用兼生活用だと説明された)から湯気の立ったコーヒーを持って現れたからだ。彼はちょっとコーヒーを小さい机の上に置くと、部屋の片隅の文庫本が積み上げられたところからミニテーブルを掘り出し(!) て、ソファとソファの間に置いた。そこにコーヒーを乗せる。
一つしかない。
「砂糖とミルクは?」とこれだけ聞いてきた。
「たっぷりで」と返す。
たちまち部屋から出て行った彼は、砂糖の入った陶器の入れ物とホットミルク、クッキーを持ってきた。
「ほとんど貰い物だけど、召し上がれ」
「一会の分は?」
「ちょっと隣で用事がある……捜査も振り出しに戻っちゃったからね……考えないと」
かりかりと頭をかいて一会が答えた。
そうだ、事件のことをすっかり忘れていた。
「事件の詳細は後で話すよ。ちょっと手の放せない要件ができた。出来れば静かに考えたいから、この部屋で待っててくれないか。三十分で終わる」
「いいよ。ここの本読んで良い?」
こう見えても私は本は大好きである。読むのは哲学書などだが。
「もちろん。汚したりしなければどれでも好きに読んでくれて良い。ただし、同じ場所に戻しといて欲しい。ジャンル分けしてるんだ」
了解、と大げさに敬礼すると、一会は微笑んで部屋から出て行った。
さて、どんな本があるかな。面白そうな本を探し始めてほんの数分で、私はこの本達がこの部屋に集められた原因を知った。
やっぱりと言うか何と言うか、本は全部推理小説だった。
ジャンル分けされているのは内容によるらしい。本棚に小さいプレートが張ってあって『犯人当て(フーダニット)』『密室トリック』『暗号・ダイイングメッセージ』『叙述トリック』『探偵もの』『分類不能』などなど。適当に『探偵もの』から一冊取り出して読んでみた。
タイトルは、『シャーロックホームズの冒険』だった。
意外と……面白かった。気づいたら夢中で一冊を読み終えてしまっていた。コーヒーが冷めてしまっていたから飲み干した。
次の本を読みたくなった私は、また適当に一冊取り出して読み始めたが、表紙を開く前に部屋のドアが開いた。
「どうだった? 面白いのはあったかい」
私は頷いて、
「推理小説ばかりだね」と言った。
「まあね」一会が自慢げに言う。「幻想郷中の推理小説の半分はこの部屋にあるんじゃないか」
「好きなの?」
「もちろん。面白いし、タメになる。たまに捜査で役に立ったりもするんだから、先人たちの遺した物は対したものだね」
じゃあ出掛けようか、と汚れを拭いたコートを羽織って部屋を出ようとする一会。
「用事は済んだの?」
「完璧にね。後は現場に直行だ」
そして、私たちは部屋を出た。
次回は事件捜査……
つまり問題篇です。