2-3
「・・・」
彼女の唇がゆっくりと、何かの言葉を刻む。
画面に映し出されたそれを見た彼女は、驚きとも恐怖ともつかない表情を浮かべて、思わずといったふうに唇を動かした。
彼はそれを見て、半ば同情に似た感情を抱く。
「ああ、それ・・・気味が悪いよな」
何でもないことのように画面を見ながら言葉を紡いだ彼は、唇を戦慄かせたまま顔を強張らせている彼女を一瞥する。
見晴らしの塔の一角には、モニター画面がずらりと並んでいる。もともと街の周囲を監視、警戒するための軍事施設として建設し始めた塔なのだから、それは自然なことだとカイは思う。
彼だけではない。街の人間は、自分たちの周りにどんな危険が徘徊しているのかを、子どものうちに口酸っぱく教え込まれるのだ。
だから、街の人間は決して外へ出たりしない。
「やっぱり、覚えてない・・・?」
・・・ちょっと、衝撃的過ぎたか・・・。
そう思った彼の問いかけにも、震えを止めようとしているのか、彼女は腕を押さえたままだ。視線は縫い付けられているかのように、画面から離れようとしない。
その背に手を当てて薄紫の目を覗き込むと、ようやく焦点が彼に合わせられた。
刹那、我に返ったクルミは小さく口を開く。声が漏れることはないと分かっていても、咄嗟に唇が「あ」と形を作ってしまった。
ぎゅっと掴んだままだった腕から手を離すと、手のひらが汗をかいていることに気づく。
「大丈夫・・・?」
画面の中のものに衝撃を受けたらしい彼女に、カイはそっと尋ねる。
・・・そういえば、俺も父さんに連れられて来た時には・・・。
物心ついた頃の衝撃的な記憶を振り返って、彼は思わず苦笑を浮かべた。
・・・しばらくはトラウマになって、1人で眠れなかったんだっけ・・・。
いつも両親の背中越しに世界の様子を窺っていた小さな自分を思い出して、自分はずいぶん怖がりな子どもだったのだと、内心で嘆息した彼は、彼女の背に手を当てて口を開く。
遠い記憶の中、いつか、一緒に来た父親の手を思い出しながら。
「あれは、ナラズモノって言うんだ」
カイの黒い瞳が、画面に映る異形のモノを見据えているのに倣ったクルミは、やはり目に映る禍々しい形をしたモノに、息を詰めた。
・・・ならずもの。
彼の言葉を反芻した彼女は、いくらか落ち着きを取り戻して説明書きのパネルに目を遣る。背中に添えられた彼の手が温かい。
“ナラズモノ・・・いつからか、この世界を徘徊する異形の生物”
“人間のみを襲うが、食べるためではないらしい。その生態は謎に包まれている”
“レーダーなどでの探知が不可能”
“東の街では、無人カメラの映像で24時間体制の監視をしている”
・・・人間を、襲う・・・?!
説明書きを、唇を動かしながら読んでいた彼女は、その言葉に愕然とした。
画面の中のナラズモノは、ゆっくりとした不規則な動きで草原を歩いている。
がくん、がくん、と上下に体を揺らし、左右の手は太さも長さも違う。なんとか2足歩行をしているような、不自然な動き。
ごつごつした見た目の、どこに顔があるのかも分からない。そんな、歪な存在。
気味が悪い、と言った彼の気持ちを推し測った彼女は、深呼吸をして続きを読む。
“ナラズモノの語源は、人ならざるもの、であるとされている”
唇で辿った言葉に、彼女はそっと腕を押さえて視線を落とした。
・・・人、ならざるもの・・・。
落ちてきた言葉の重みに、両足を踏ん張って立ち尽くす。胸が苦しくなるのは、満足に酸素が取り込めていないからなのか。
「あいつらは、この街が出来た頃から周囲を徘徊してる。
生態には、いろいろ学説があるみたいだけど・・・。
近づけば殺されるのが分かりきってるから、まともに調べられないらしい」
彼が説明してくれるのを聞きながら、彼女はカバンからノートとペンを取り出す。
髪を切った後に、彼は彼女の服や小物を揃えてやったのだ。
『街が出来た頃って、ずいぶん昔?』
気持ちが逸ったのか、綴られた文字はずいぶんと跳ねたり流れたりしているのだけれど、彼はそれに気づくことなく頷いた。
「確か世界大戦が終結して、セントラルが世界統治を始めた頃だったような・・・。
ごめん、真面目に勉強してなかったから、うろ覚えなんだけど。
・・・500、いや、600年くらい前、なんじゃないか」
与えられた回答に、彼女は黙りこくる。
ゆっくりと瞬きをしてから、ここからは見えない氷ヶ原の方へと目を向けて、刹那の間言葉を選んで再びノートに目を落とした。
彼は、そんな彼女のことを見下ろして背中から手を離す。ナラズモノを目にした瞬間から比べて、ずいぶんと落ち着きを取り戻したように見えた。
『・・・この街が、出来る前のこと、知りたい』
「ん?」
もうナラズモノについてはいいのだろうか、と思いつつも、彼は尋ねられたことを記憶の引き出しから取り出そうと試みる。
歴史の授業を受けたのは、ずいぶん前だ。しかも、教科書の人物画には落書きもしていた。覚えていることは、浅いことばかりだ。
「確か・・・世界大戦の終結後、セントラルによって各地にレインが設置されて・・・。
各地では紛争が起きたり、世界統一に反対する運動が起きたりしてたんだっけ。
・・・この島は、大戦中に属国になってたはずだから・・・」
『その、属、国、だった、頃の、』
自分の覚えていることを並べていた彼の傍で、彼女は走り書きをしていく。その表情は、切り揃えられて流れる髪が隠している。
急いで書いているようだけれど、立ったままでは思うように書けないのだろう。気持ちばかりが焦っているような、不恰好に揺れる文字が並んでいく。
彼はそんな彼女の黒髪を眺めながら、「今では黒髪に黒い目をした住民が珍しくなった」と、歴史の授業で教師が口にしていたのを、ぼんやりと思い出す。
すると、唐突に彼の携帯電話が鳴った。
スーツを着て首からネームプレートをぶら下げた大人達が行き交う真っ白な廊下を、彼に連れられて歩きながらも、クルミの意識はどこか遠くへと投げられていた。
肩から斜めに掛けたカバンを、力いっぱい、潰してしまいそうなほどに抱きかかえて。
この時に、彼が斜め後ろを振り返っていたら気づいたかも知れない。
彼女が目に力を入れ、歯を食いしばって歩いていたことに。
「失礼します」
彼女に気づかれないように深呼吸してから声をかけたカイは、部屋の内側からの返事にひと呼吸置いて、ドアをそっと開ける。
「ああ、そこに」
書類にサインをしていた少佐が、顎をしゃくって応接用のソファを指す。
「・・・はい」
白いものが混じる頭が俯いて、再び机に向かう。それを横目に、クルミはカイに促されるままソファに腰を下ろした。そして抱えるように持っていたカバンの中から、ノートとペンを取り出す。
「少し待っていろ。
もうすぐ大佐が戻る」
彼女が少佐に顎を掴まれて、顔をまじまじと見つめられたのは昨日のことだ。
カイはその場面を思い出して、ちらりと彼女を一瞥する。けれど、ノートとペンを膝の上に置いて静かに座っている姿からは、彼女が少佐に対して恐怖心を抱いているようには思えなかった。
・・・記憶障害らしいことや、両親の件も話しておいた方が良さそうだな。
筆談するのに必要なものを自分から取り出したあたり、おそらく彼女は少佐と会話をするつもりでいるのだろう。
その姿はカイの目に好ましく映ったけれど、それは自分が完全に彼女に絆されているからなのだとは、本人は露程にも思っていない。
緊張しているらしく指先をもぞもぞと動かす彼女に、何か声をかけようか彼が迷っていると、ふいに小さな手がノートを開いた。
『たいさ、さん・・・どんな人?』
ペンが言葉を綴ったのを目で追って、彼は少しの間考え込む。
そして、おもむろに彼女の手からペンを引き抜くと、質問の下に答えを書き込んだ。
『悪い人じゃないよ。
・・・少し変わってるとは思うけど』
上司を待つ、少しの間ですら惜しむように仕事を片付けている少佐の邪魔にならないよう、彼も彼女に倣って筆談をすることにしたらしい。
初めて見るカイの書いた文字を見て、彼女は内心で感嘆した。
「字は丁寧に書くべし」と教えられて育ったからなのか、整った字を書く人間を、彼女は“すごい”と思うのだ。
・・・お母さんは、“人の性格が出るんだよ”って言ってたよね。
ノートを見ると同時に一瞬動きを止めて、瞬きを繰り返した彼女を不思議に思いながらも、彼は手にしていたペンを渡す。
すると今度は、彼女が別の質問を彼の書いた言葉の下に書き込んでいった。
『どういう、意味?
大佐さんは、怖い人じゃない?』
・・・やっぱり、少佐は怖かったのか。
彼女の心配に思わず頬が緩んだ彼は、そっとその小さな手からペンを抜き取る。そして、ほんの少し考える素振りを見せてから、言葉を並べた。
『大丈夫、全然怖くないよ。
俺の知ってる一番怖い人は、少佐だから』
書き終えて、ちらりと彼女に視線を向ける。すると、不安そうに揺れる薄紫と目が合った。
『ほんとだよ』
彼女が言葉を綴る前に、彼が駄目押しで付け足す。安心させるように頷くと、彼女も眉を八の字にして頷きを返した。
・・・変な顔だな。
そう思いながらも彼女の手を取って、そっとペンを握らせる。
・・・そんなに緊張してたのか?
ほんの一瞬触れただけなのに、その手の冷たさに驚いた彼は、冷たくなった手を擦って「大丈夫」と囁いた。
そして彼女が、彼の囁きに、こくん、と頭を上下させた刹那、ドアが勢い良く開いた。
ばたんっ。
「ただいま戻りましたぁ~」
ふわふわとした声に、反射的にクルミは視線を投げる。
「お疲れさまです、大佐」
隣に腰掛けていたカイが、咄嗟に立ち上がったのを見て、思わず彼女もそれに倣う。
「あら、ごきげんよう」
甘い綿菓子のような声に、半ばうっとりしながらもクルミは彼女を見つめた。少々不躾な気もするけれど、幸いなことに少佐が大佐に何か声をかけているのだ。
甘くて柔らかい声に示し合わせたような、ミルクティー色の髪。青い瞳は、黒縁の眼鏡越しだからなのか、どこか温かい色をしている気がした。
・・・ドレス着たら、お姫様みたい。
素直な感想を胸の内で呟いたクルミは、彼女が軍服に身を包んでいるのがとても残念に思えて仕方がなかった。あの長い髪を、ひと纏めじゃなく編み込んだり、巻いたりしたら素敵なのに・・・と、要らぬ想像まで働かせて。
とんとん。
半ば見とれるようにして大佐を見つめていると、唐突に肩を叩かれて、クルミは条件反射的に肩をそびやかせた。
声を出せないことが幸いしたのか、2人のやり取りに少佐と大佐が目を向けることはない。
・・・びっくりした。
言葉の代わりに息を吐いた彼女は、彼の黒い瞳が柔らかく細められるのを見て、小首を傾げた。なぜそう、楽しそうにしているのかが全く分からないのだ。
すると、彼はクルミと同じように小首を傾げて、ただひと言。
「・・・大丈夫って、言ったろ?」
毛布をかけるような、さりげない温かさを含んだ言葉に、クルミの唇も柔らかく弧を描く。
そして、カイの言葉にそっと頷いた。