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2-2







くいくい、と袖を引っ張られた気がしたカイは、広げていた雑誌をそのままに、視線だけを気配のする方へと向けて、固まった。

「・・・ええと・・・?」

自分の胸より少し上の辺りに、綺麗な黒髪の小さな頭があるのだ。

天使の輪がどうの、という台詞をテレビCMで小さな女の子が言っていたのを思い出しながら、彼は内心で首を捻る。

適当な男を見繕って声をかけるにしては、少女は幼すぎる気がした彼は、自分がそういう趣向のある人間に見えていたりしないだろうか、などと不安を抱く。

しかも、眼下に佇んでいる少女は顔を上げないけれど、前髪に隠された目元以外のパーツは、十分魅力的に目に映った。

唇は小さく、瑞々しく潤っているし、鼻先や頬は白くて柔らかそうだ。

ひと言で表現するなら、甘そう、だ。

・・・通報される・・・!

おかしな想像力が働いた自分に、背筋の凍るような思いがした彼は、慌てて1歩退く。

自分は軍人なのだ。しかも、見回りを中心に活動している第8部隊の部隊長だ。街の人間の信頼を損ねるようなことを仕出かしたら、即、解雇だろう。

「手、離してくれないか・・・?」

周囲で自分と同じように立ち読みをしている客に、なるべく聞こえないようにと小声で催促してみるものの、少女がその手を離す気配はない。

「俺、人と約束が・・・」

彼も、自分が必要以上にうろたえているのを自覚してはいるのだ。ただ、この種類の動揺を隠すことに慣れていないだけだ。

暴れ馬のコウを御する能力はあるというのに、何度も言うようだけれど、この部隊長は対女性の駆け引きに不慣れだった。

・・・勘弁して欲しい。

困り果てた表情で天井を仰いだ彼は、またしても袖を引かれて視線を戻す。

「え・・・?!」

顔を上げた少女の瞳が、クルミと同じ薄紫だったからだ。

・・・嘘だろ。

薄紫の瞳が柔らかく細められたかと思えば、恥ずかしそうに俯く。それに合わせて、彼女の黒い髪がさらさらと流れるように、肩から零れた。



クルミの髪を手に取って手櫛を通そうとした美容師は、その絡まり具合に舌を巻いた。

一瞬衝撃を受けたというような表情を浮かべたその美容師は、鏡越しにクルミと目が合うと慌てて取り繕ったような笑みを浮かべて。

鏡越しに目が合ったクルミは、世の中には言葉よりも鋭利で辛辣な感情の表現方法があるのか、などと妙に感心してしまったものだ。

しかしその後、その美容師はどういうわけか俄然やる気が湧いたのか、鬼気迫る表情を浮かべて彼女の髪を切っていった。おそらく心の中では、芸術は爆発だ、と叫んでいたことだろう。



長く絡まった髪をばっさり切った彼女は、体まで軽くなった気持ちで美容院の隣にある、大きな書店で待つカイの元へと小走りで向かったのだ。

鼻唄でも歌いたい気持ちの彼女は、声が出ればいいのにな、などと思いながら・・・。

ぱっつり揃えてもらった前髪を気にしながら本棚の間を縫うように歩いて、Tシャツを着た背中を見つける。茶色い髪が、空調にわずかに揺れていた。

くいくい、と裾を引くと、案の定カイが息を飲んだ気配を感じて、彼女は内心でほくそ笑む。

・・・わたしだって、女の子なんだから。

美容院に行こうと言った時の彼の、残念な子を見るような目つきをしっかり覚えていた彼女は、半ば仕返しのようなつもりで顔を上げずにいた。

変わりように自分でも驚いたのだから、カイだって驚くはずだ。

その後、小馬鹿にしていた自分を見直せばいい・・・そんな、小さな意地悪心が彼を大きく動揺させているなどと、彼女は欠片も思わない。


「・・・ええと、」

彼女と視線をぶつけた彼が動揺している。

大きく見開いていた目を慌てて元に戻した彼は、目の前にあるのが何の本棚なのか確認もせずに、手にしていた雑誌を無造作に収めた。

・・・とりあえず、びっくりはしたみたい。

仕返しが成功したのかどうかが気になっていた彼女は、とりあえず彼が目を見開いたことを見届けて、それで良しとすることにしたらしい。

彼から見えないように背中に隠していたノートに、言葉を綴る。

『ありがとうございました。

 頭、すごく軽い』

「ああ、うんうん」

小首を傾げると、それに合わせて髪が揺れる。くるりと内を向いて緩くカーブしている髪は、肩よりも少し下の辺りで切り揃えられたいた。

・・・ほんとは、もっと切っても良かったんだけど。

彼女は胸の内で呟きながら、美容師が「もったいない」としきりに言っていたのを思い出していた。何度も説得されて渋々、肩の下辺りで譲歩したのだ。

若干よそよそしい彼が、うわの空という感じで何度か頷いているのを見た彼女は、またしてもノートにペンを走らせる。

『へん?』

「まさか」

即答。真剣な表情。

『・・・ちゃんと、女の子に見えますか』

「う、うん」

うわずった声。右往左往する視線。

『どうして、目、見ないの』

「ずいぶん、見違えたから」

観念したように彼が呟いたのを聞いた彼女は、ノートを閉じる前にガッツポーズ。

「なんだそれ」

褒め言葉に照れるでもなく、はにかむでもない彼女に、彼は思わず噴出した。





塔の上から見下ろす街は、車も人も小さく見える。

吹き抜ける風が切ったばかりの髪を撫で回して、彼女は片手で暴れるそれを押さえつけた。

「今日は遠くまで見渡せるな」

ほんの少し軍人の顔を覗かせる彼は、静かな目つきで遠くを見つめる。

クルミはその横顔と草原を交互に見て、やがて息を吐いた。


この街のことを知りたい、忘れていることが思い出せるかも、と主張した彼女を、彼は見晴らしの塔へと連れて来ていた。

昨日クルミが知らずに訪れていた、墓地があった場所のように、塔に登らなくとも街並みがある程度見渡せるような、高台にある。

もともとは軍事施設として建設していたものを、最上階のみ関係者以外立ち入り禁止として、その下を一般開放しているものだ。

・・・デートスポット的な?

彼女は彼から受けた説明にそんな想像をして、頷いた。

髪を切って、自分を覆っていた何かが1枚剥がれたようだ。彼の声が風の音に打ち消されることなく、しっかり耳に入ってくる。

「クルミは、草原に倒れてた・・・」

隣に佇んで、視線を向こうへと投げたまま、彼が言う。

「コウが、見つけたんだ。

 車で見回りをしている時に、たまたま見かけて・・・。

 ・・・倒れてる人影を見て、急に思い出した・・・」

その言葉が自分に向けられているのか、独り言なのかが分からない彼女は、ただ黙って彼の口から語られることに耳を澄ます。

「母親と妹を亡くした時、俺は仕事中だった。

 駆けつけた時には、妹が倒れていた。すでに息はなかった。

 ・・・母親は、無残だった。吐き気がするくらい、無残だった」

彼が、Tシャツのはためく腹の辺りを手で押さえる。

胃がひしゃげてしまいそうな、痛みが走る。いや、そこが胃なのか、もっと奥の方にある手の届かない場所なのか、もう分からない。

とにかく痛くて、膝が折れそうなのを彼は堪えて言葉を並べる。

「だから、君が倒れているのを見て、動けなくなった。

 怖くて、足が動かなかった」

ふ・・・っ、と息が漏れる音に、彼は視線を戻す。

遠くを見ていた瞳が映したのは、目に力を込めて彼の腕に掴まる、彼女の姿だった。

薄紫の瞳が揺れて、ぷくりと涙が浮かぶ。

「違うんだ。

 クルミを見つけた時の話をしようと思ったんだけど・・・ごめん。

 昨日、少し話したからなのかな。なんか、勝手に口が・・・。

 まだ頭の中が昨日のままみたいで・・・ごめん・・・」

痛みに感覚が麻痺してしまったのか、彼が彼女の涙を見ても慌てる様子はない。

「とにかく、君は氷ヶ原の手前で倒れてた」

周囲に人の気配はない。この場所を人が訪れるのは、休日の昼間か、星空や夜景の綺麗な夜だ。

『コオリ、ガ、ハラ・・・って、なに?』

たどたどしく聞き取った単語を並べた彼女に、彼は言った。

「草原が、ある所を境に凍ってるんだ。

 そこに近づくと、生き物は全て凍りつく。

 だから、誰も近づけないし近づかない。

 ・・・見てみるか?」


頷いた彼女が連れて行かれた先は、監視モニターのようなものがたくさん並ぶ場所だった。

大きな1枚ガラスの向こうには、草原が広がっている。それは肉眼で見ると、どこまでも広がっているかのように思えた。

モニターの上には、それぞれ説明が書かれたパネルが設置されている。

・・・こおりがはら・・・。

彼女は、その中から彼の言葉の通りの場所を探し当てて、目を凝らした。説明書きを、唇を動かしながら読んでいく。

“世界大戦の折に出来た、広大な氷原。近づくものを拒むかのように、生命が存在している様子は見受けられない”

“近づいただけで、命の危険に晒される。呪われた氷原”

彼女は、自ら読み上げた内容に、息を飲む。言葉が難しくて、理解するのに時間がかかってしまったけれど、きっと解釈自体に間違いはないはずだ。

そして、彼はそんな彼女の背を支えて、その様子を見つめていた。自分のいた場所の恐ろしさを知って、取り乱すのではないかと思えたからだ。

彼の予想を裏付けるように、背中に添えた手には彼女の鼓動が強く、速く打ちつけ続けているのが伝わってくる。

良く見たら、肩の上下する様子も、なんだか速くなっていくように感じられてしまう。

「・・・大丈夫?」

問いかけるも、彼女の目はモニターから離れることはなかった。

瞬きするのも忘れてしまったのか、食い入るように氷ヶ原の様子に見入っているらしい。


・・・世界大戦・・・氷ヶ原・・・。

・・・命を奪う、呪われた氷原・・・。


読み上げた内容を反芻しながら、彼女はおかしな汗が背中を伝うのを感じていた。

カイが買ってくれた新しい服に染みが出来たら嫌だ、と頭のどこかがおかしなタイミングで考えているのを、もう1人の自分が遠くから冷めた目で見ている。

モニターには、所々に立つ木の枝が凍り、空に向かって氷が伸びている様子が映し出されている。一瞬で木や草が凍りついたのだろうと思わせるような、そんな光景だった。

昨日、軍用車に乗せられた時に振り返って見た光景は、幻ではなかったのだ。

悪い夢の続きなのだと、霞みがかった頭で処理した光景は、現実だったのだ。

・・・人が、死んでしまう場所なんだ・・・。

突きつけられた事実に抗いたい気持ちが突き上げて、カラカラに渇いている喉が痛む。息を吸うと、ささくれ立った部分が刺激されたのか、ひゅう、と空気の漏れる音がした。

そうして思わず咳き込んでしまったクルミは、カイが背中を擦ってくれるのに任せて、落ち着くまで何度もむせ返りながら深呼吸する。

「ゆっくり息をするといい。

 大丈夫だから、落ち着いて」

・・・ショックだよな。

彼は彼で、氷ヶ原の恐ろしさを知っているのだ。

だから、彼女がもう少しその場所の近くに倒れていたら、時間の経過と共に命が削られていたはずだ、と分かっていた。

それに彼女は、両親が自分を逃がすために命を落とした、という記憶がある。断片的に残る記憶だけれど、おそらく比較的新しい部分だろう、と彼は目星を付けていた。

・・・あの辺りを探せばクルミの両親の遺体が見つかるかも知れないな。

思い至ったことを少佐に報告するべきか彼が考えていると、彼女が息を整えて振り返った。

その瞳が咳き込んだことで濡れているのを見た彼は、彼女の眦に溜まった涙をぐりぐりと指で拭って、その顔を覗き込んだ。

おそらく衝撃を受けているだろう、と彼女の心を推し測った末の思いやりだったのだけれど、少女の柔らかい皮膚には少々強かったらしい。赤くなっていた。


彼の指が自分の目元を擦ったのを呆然と受け止めていた彼女は、一瞬きょとんとしてから、目元が次第にひりひりし始めて、何度か瞬きをする。

そして、視線をモニターに移して、卒倒しそうになった。


画面には、見たことのあるモノが映し出されていたのだ。








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